アヴェ・マリア!
今 カトリック教会で何が起こっているのか?
エキュメニズム関連情報
【教皇様は何と言っているか】
ピオ11世教皇は、真実の宗教の一致に関する回勅『モルタリウム・アニモス Mortalium animos』(1928年1月6日)で、こう教えている。
====引用開始====
ある人達は「宗教的感覚を完全に失ってしまった人は極めてまれである」と確信しています。そして、この確信を基礎に、諸民族を、その宗教の違いにもかかわらず、宗教生活の共通の基礎として認められる幾つかの教義を兄弟的に認めあうまでもって行くことが、容易にできるという希望を養っているようです。ですから、彼らはかなり多くの聴衆者が出入りする会合、集会、講演会などを開いています。彼らは全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、更に不幸なことにキリストから離れ苦々しくそして頑固にキリストの神性とその使命を否定するものまでもその公演に招待しています。
このような骨折りにたいして、カトリック信者はいかなる賛同をも与えてはなりません。何故かというと、彼らの活動が“全ての宗教は、たとえ形は違っていても、全て等しく、私たちを天主に導き、私たちをして天主の力の前に尊敬を持って屈めさせる自然の生まれつきの感情を表している”という意味で“どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである”という、間違った考えに基づいているからです。
彼らは、ただ単に誤謬のうちに迷い込んでいるだけではありません。この誤りを支持しつつ、彼らは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒んでいるのです。そうして彼らは、[どんな宗教でも同じだという]宗教に関する誤った考えを持ち、少しずつ[真の宗教に関する問題よりも、この地上のことを重視する]超自然否定主義(naturalism)そして、[真の宗教も、真の天主もないのだという]無神論へと歩んでいます。ですから、このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[すなわちカトリックの教え]を全く打ち捨てることであるということは完全に明らかです。
====引用終わり====
ピオ11世教皇は言葉を続ける。
====引用開始====
しかし、キリスト・イエズスにおいて兄弟的な交わりをしきりに説く非カトリックの多くは、イエズス・キリストの代理者が教えを説く時には、それに従おうともせず、彼が命じる時、それに従順たろうともしません。しかし彼らは喜んでローマ教会と同じレベルで、同輩の者として話し合おうとするでしょう。しかし、現実には、彼らがもしそうしたとしたら全く疑いもなく彼らは、彼らを今でもキリストの唯一の群れの外に迷わせ放浪させているまさにその誤りを放棄しなくても大丈夫だという考えを持ってしか、いかなる同意をも結ばないでしょう。
この条件の下では、使徒座はいかなる口実の下であろうとこれらの集いに参加することができず、いかなる犠牲を払ってまでもカトリック信者は、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができないことは一目瞭然です。
====引用終わり====
ピオ11世の「モルタリウム・アニモス」の全文を日本語で読みたい方は、
http://fsspxjapan.fc2web.com/papal/ma.html
をご覧下さい。
POINT
◎ 宗教の違いにもかかわらず、全ての人々を区別無く、ありとあらゆる種類の不信者、信者、キリストの神性とその使命を否定する者も共同の集会を開くことは、「どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである」という、間違った考えに基づいている。
◎ 従って、カトリック信者はこれに賛同することができない。
POINT
◎ この誤りは、宗教に関する本当の観念を歪め、同時にそれを拒む。
[どんな宗教でも同じだという]
宗教に関する誤った考え
↓↓↓↓↓
[真の宗教に関する問題よりもこの地上のことを重視する]
超自然否定主義(naturalism)
↓↓↓↓↓
[結局、真の宗教も、真の天主も存在しないという]
無神論
へと歩んでいく。
POINT
◎ このような誤った教えの賛同者となり宣伝者に合同することは、天主によって啓示された宗教[=カトリックの教え]を捨てることに等しい。
POINT
◎ カトリック信者は、これらの集いに参加することができない。また、いかなる犠牲を払っても、その賛同あるいは行動によってこれらに好意を与えることができない。
【カトリック教会法典は何と言っているか?】
だから、カトリック教会法典(1917年発布)2314ー2316条によると、他宗教の礼拝に能動的に参与すること(communicatio in Sacris)は、教会法の罰を受けることになっている。カトリック教会法典2316条によると、異端の疑いがあるという。
新しいカトリック教会法典(1983年発布)も、その第1365条にはこうある。
Reus vetitae communicationis in sacris iusta poena puniatur. 禁止された他宗教の礼拝に参与する者は、相当の罰を受ける。
何故か? 何故なら、私たちは真理と霊とにおいて礼拝し、礼拝の共同体は信仰の一致を前提としているからだ。
POINT
◎ カトリック信者は、他宗教と共に能動的に礼拝儀式に参与することができない。
◎ それは「どの様な宗教でも、多かれ少なかれ、良いものであり称賛すべきである」という、間違った考えに基づくからである。
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