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ローマ公教要理 使徒信経の部 第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます(1)

2010年10月01日 | カトリックとは

第十章

第九条 聖なる公教会、諸聖人の通功を信じます


1 第九条に関する説教の必要性

 司牧者は第九条を説明するに当たってどれほどの配慮をしなければならないか、それは特につぎの二点を見ればすぐに分かる。まず聖アウグスティヌスの言うところによると、預言者たちはキリストについて述べる場合よりも一層くわしくまたはっきりと教会について述べている。それは、御託身の奥義よりも教会についてより多くの人々が誤ったりだまされたりするのを予見していたからである。実際、人まねをするさるのような行動をする不信仰者の絶えることはなく、かれらは悪意と傲慢から自分たちだけがカトリックであり、カトリック教会は自分たちの間に、しかも自分たちの間にだけあると断言する。

 さて、教会に関する真理を固く心に刻み込んでいる人は、恐るべき異端の危険も容易に避けることができる。なぜなら信仰に反する罪を犯した人がすべて異端者ではなく、教会の権威を無視し不信仰な主張を頑固に述べ続ける人が異端者であるからである。したがってこの箇条で信ずべきこととして示されている事柄を信じているかぎり、異端の疫病にかかることはありえない。であるから信者たちがこの奥義を知ることによって敵の術策に対して身を固め信仰を堅持していくことができるよう、司牧者はあらゆる努力をすべきである。

 ところで、この箇条はまえの箇条と関連がある。すでに説明したように、聖霊はすべての聖性の泉であり与え主であって、教会はかれらからその聖性を受けているのである。

2 教会 ( Ecclesia ) とは何か

 エクレシア ( Ecclesia 教会 )という語はラテン人がギリシャ人から借りた語で、かれらは福音が各地に広められたあと、聖なる事柄を示すためにこの語を用いている。つぎにこの語の意味を説明することにしよう。

 エクレシア ( 教会 )は「呼び出し」を意味する。著作家たちはあとで、この語を集会や会合を表すために用いた。その場合、そこに集まっている人々が神のまことの民であるか、あるいは誤った宗教の人々であるかは問題ではない。使徒行録では、エフェゾの町の書記が市民を静めたあと、「もしこれ以上要求するところがあるなら、正式の集会で決められるであろう」(使19:39)と言っている。ここで正式の集会 ( Ecclesia )と言われているのはディアナ女神を礼拝していたエフェゾ市民のことである。神を知らない人々だけでなく、時としては悪人や不信仰者の集まりもエクレシアと呼ばれている。ダヴィドは、「罪人のむれ ( Ecclesia ) を厭い、悪人と共に座らなかった」(詩26:5)と言っている。
 しかしその後、聖書は一般にこの語をキリスト者の共同体つまり信者だけの集団を表すために用いるようになった。その場合のエクレシアとは、無知と誤謬の闇から出てまことの生ける神に仕えるため、信仰を通して真理の光と神の知識へと呼ばれた人々のことである。以上のことを一言で言うと聖アウグスティヌスが書いているように、教会とは全世界に散らばっている信者のことである。(1)

3 教会という語に含まれている奥義

 教会という語には重大な奥義が含まれている。実際、教会を意味する「呼び出し」には神の恩恵の寛大さとすばらしさを感じとることができるし、また教会が他の共同体と非常に異なっていることも示されている。一般の共同体は人間的な考えと配慮によるものであるが、教会は神の英知と計画によって制定されたものである。神は内的には人々の心を開く聖霊の霊感をもって、外的には司牧者および説教者の活動や奉仕をもって、私たちをお呼びになった。そして昔、律法の下にあった信仰者の団体がシナゴーガ ( Synagoga ) つまり集会と呼ばれていたことから分かるように、私たちが呼び出された目的は永遠の事柄の知識とその所有にあるのである。聖アウグスティヌスは、「その名称がかれらに与えられたのは、本能的に集団生活をする動物のように集団をつくって地上の滅びるものを求めているからではない」(2) と教えている。キリスト者の民が、シナゴーガではなくエクレシアと呼ばれるのは、地上の滅びるものを軽んじてただ天の永遠のものだけを求めているからである。

4 聖書におけるキリスト教共同体の名称

 そのほかにもキリスト者の共同体を示すために、奥義に富んだ多くの名称が用いられている。たとえば聖パウロは、神の家(ティ①3:15参照)、神の建物(コ①3:9参照)と呼んでいる。かれらはまたティモテオに向かって、「もし私の行くのが遅れるとき、真理の柱であり、基であり、生ける神の教会である神の家において、どのように行わなければならないかを知らせる」(ティ①3:15参照)と書きおくっている。ここで教会は家と呼ばれている。それはいわば一つの家庭のように一人の家父によって治められ、またすべての霊的善をみんなで共有しているからである。教会はまたキリストの羊の群れとも呼ばれている。キリストはその牧者でありまた牧場の門である(ヨ10:1~10参照)。

 さらに、教会はキリストの花嫁とも呼ばれる。聖パウロはコリント人に向かって、「あなたたちを清いおとめとしてキリストにささげるために、ただひとりの夫のいいなずけと定めたからである」(コ②11:2参照)と言い、またエフェゾ人には、「夫よ、キリストが教会を愛し、そのために命をあたえられたように、あなたたちも妻を愛せよ」(エ5:25)と言っている。そして結婚については、「この奥義は偉大なものである。私がそういうのは、キリストと教会とについてである」(エ5:32)と書いている。最後に教会は、エフェゾ人への書簡(エ1:23参照)やコロサイ人への書簡(コロ1:24参照)にみられるように、キリストの体と言われている。これらの名称の一つ一つは、私たちをご自分の民とするためにお選びになった神の無限の寛大さと慈愛を思い起こさせ(ペ①2:9~10参照)、それにふさわしいものになるよう信者たちを励ますのに大いに役立つ。

5 戦闘の教会と勝利の教会

 以上のことを説明したあと、教会の部分を一つ一つ数えあげ、その相違を指摘しなければならない。それによって信者たちは、神に愛された教会の本性、その特性、たまもの、恩恵を一層よく把握し、聖なる神のみ名を絶えずたたえるようになるであろう。

 教会にはおもに二つの部分がある。その一つは勝利の教会と呼ばれ、他の一つは、戦闘の教会と呼ばれる。勝利の教会とは、至福な霊たちと、世間や肉、最大の敵、悪魔に勝ち、この世の生活のわずらわしさから解放され、平和のうちに永遠の至福を享受する幸せな人々の集団のことである。一方、戦闘の教会とはまだこの地上に生活している信者の集団のことである。これらが戦闘の教会と呼ばれるのは、世間、肉、サタンという恐るべき敵と絶えず戦っているからである。

6 戦闘の教会と勝利の教会は一つである

 とはいっても二つの教会があると考えてはならない。先述したように、これらは一つの教会の二つの部分である。その一つは他に先んじてすでに天の祖国に達している。他の部分は日ごとに前者のあとに従って歩み続け、ついにいつか私たちの救い主に出会い、永遠の至福を得て憩うのである。

7 戦闘の教会には善人と悪人がいる

 戦闘の教会には善人と悪人という二種類の人がいる。悪人は、善人と同じ秘跡にあずかり同じ信仰をもっているとはいえ、その生活と道徳の点で善人と異なっている。教会における善人とは、信仰を告白し、秘跡にあずかるだけでなく、恩恵の霊と愛のきずなによって互いに結ばれ一致している人々のことである。「主は、ご自分のものを知っておられる」(ティ②2:19)と言われているのは、かれらのことである。

 だれがこの善人の数に入るかは、いくつかのしるしをもとに推測することはできても、確実に知ることはできない。したがって救い主キリストが私たちをゆだね、また私たちに従うようにお命じになった教会とは(マ18:17参照) 善人だけの教会であると思ってはならない。なぜならそのような教会は識別するのが困難であり、そのためだれの判断に従ったものか、まただれの権威に従ったものか、だれも確実に知りえなくなるからである。実際、聖書(マ3:12、13:3~52、コ①5:1~11など参照)や教父たちの著作に書かれているように、教会には善人と悪人とが含まれている。聖パウロが、「体は一つ、霊は一つ」(エ4:4)と言っているのも、その意味である。

8 見える教会は善人と悪人を含む

 この教会は、どこからでも見える、山の上につくられた町に、たとえられていて(マ5:14参照)、すべての人々に知られている。実際、すべての人が教会に従わなければならないのであるから(マ18:17参照)、すべての人に知られるのは当然である。

 そして、この教会は、福音書にある多くのたとえ話が示しているように、善人と悪人とを含んでいる。たとえば天の国つまり戦闘の教会は海に入れられた網に似ている(マ13:47~52参照)。あるいは毒麦をまかれた畑(マ13:24~30)、麦ともみがらとが一緒にある麦打場(マ3:12参照) 、あるいは愚かものと賢いものとが半数ずついた十人のおとめ(マ25:1~13参照)に似ている。

 しかしずっと昔の、清い動物と一緒に汚れた動物も収容していたノアの箱舟にも、この教会のかたどりと表象をみることができる(創7:2、ペ①:20参照)。たしかにカトリックの信仰は悪人も善人と同じように教会に属していることを教えて来たが、その同じ信仰はまた、両者の教会への所属の仕方が異なっていることも教えている。実際、悪人が教会に属しているのは、麦打場にもみがらと麦とが一緒にあるようなものであり、あるいは、生きた体に死んだ手足が付いているようなものである。

9 戦闘の教会に含まれない人々

 以上のことからして、ただつぎの三種類の人々だけが教会から除外されていることになる。それはまず未信者、つぎに異端者と離教者、さいごに破門された人々である。

 未信者とは決して教会に入信したことはなく、教会のことも全く知らず、またキリスト者の共同体のどの秘跡にもあずからなかった人々のことである(コ①5:12参照)。異端者と離教者は教会から離れていった人々で、かれらは逃亡兵がその軍隊に属さないのと同様に、教会には属していないのである。しかしかれらは教会の権能の下にあり、教会がかれらを裁き、罰し、破門できることはたしかである(ティ①1:19~20参照)。最後に、破門された人々とは、教会の裁きによって教会から除名され、改心するまで教会の交わりに受け入れられない人々のことである(マ18:17、コ①5:4参照)。

 その他の人々は、たとえ罪人であっても、たしかに教会に属している。司牧者は以上のことを絶えず信者たちに教え、たとえ教会の長上たちの生活が人々をつまずかせるようなものであっても、かれらはやはり教会に属するものであること、またそれによってかれらの権威も決して減少するものではないことを確信させるようにしなければならない。

10 教会という語の種々の用法

 教会という語は、普遍教会の一部を示すために用いられることもある。たとえば聖パウロは、コリントの教会(コ①1:2、コ②1:2参照)、ガラツィアの教会(ガ1:2参照)、ラオディキアの教会(コ4:16参照)、テサロニケの教会(テ①②1:1参照)という言い方をしている。個人の信者の家庭を教会と呼ぶこともある。たとえば聖パウロは、プリスカとアクィラの家の教会に挨拶するように頼んでいる(ロ16:3~5参照)。また別の箇所で、「アクィラとプリスカと、その家の教会から、主において、ねんごろによろしく」(コ①16:19)と書いている。フィレモンへの手紙でも同じような言い方をしている(フィレ1~2参照)。

 時として教会という語は教会のかしらやを司牧者を示すことがある。キリストは、「もしその人たちのいうこともきかないならば教会にいえ」(マ18:17)と命じているが、ここでいう教会は教会のかしらたちを意味している。また説教を聞いたり、聖なる事柄を執り行うために信者たちが集まる場所も教会と呼ばれる。しかしこの箇条でいう教会は、善人だけでなく悪人をも含む集団を示し、また上長だけでなくかれらに従うべき人々をも意味している。

訳注  ( 1 ) S. Augustinus, in Psalmum 149 参照
    ( 2 ) S. Augustinus, in Psalmum 77 et 81.

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