Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

旧約の大司祭カヤファの権威と天主への従順

2007年08月09日 | カトリックとは
アヴェ・マリア!

カヤファの権威と天主への従順


 旧約の大司祭カヤファ(或いはカイファ Joseph Caiphas, Joseph Caiaphas, Qayyapa)は、天主の御摂理によって、正当に任命された合法的大司祭だった。ポンシオ・ピラトの前任者、ローマ総督ヴァレリウス・グラトゥス(Valerius Gratus)によって大司祭と正当に任命された。しかしカヤファの権威は天主から来た。カヤファはイスラエルの人びとにとって天主の代理者だった。旧約の大司祭の最高のそして究極の目的は、約束の救い主(メシア)を人々にこれがそうだと指し示すことであった。カヤファの任期は、西暦十八年から三十七年までだった(フラヴィウス・ヨゼフスの Antiquitates による)。 西暦三十六年、ポンシオ・ピラトの任期は終わりを告げ、シリア総督ルチウス・ヴィテリウス Lucius Vitellius がユダヤ問題に干渉して三十七年カヤファを解任したからだ。

 前任の大司祭アンナ(任期:西暦六年から十五年)は、カヤファの舅だった(カヤファは裕福な大祭司アンナの娘と結婚した)ので、婿であるカヤファは引退したアンナの影響を受け続けた。しかしカヤファこそ公式の大司祭であったし、衆議所の正式な長であった。

 私たちの主イエズス・キリストが聖金曜日に十字架の上で御死去された時、イェルサレムの神殿の至聖所の幕は真っ二つに裂け、旧約が無効になったことを意味した。聖マテオはこう書いている。「イエズスは、ふたたび大声で叫んで、そして息を引き取られた。あたかもその時、神殿の幕は、上から下に二つに裂け、地はふるい、岩はさけ、墓はひらけた・・・。」

 西暦七〇年、ローマ皇帝ティトゥスは、反逆のユダヤ人たちを平定し、その際イエズス・キリストの預言通りイェルサレムの神殿は崩壊された。旧約のいけにえと司祭職はついに機能することが出来なくなった。天主のみが、旧約の司祭職に終止符を打つことが出来た。

 私たちの主イエズス・キリストさえも、御生涯の間、カヤファの大司祭としての権威を疑問に付したことがなかった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトがローマ皇帝の代理者として持っていた、ユダヤを統治する権威を疑ったこともなかった。その反対だった。イエズス・キリストは、ポンシオ・ピラトの命ずるままに受難を甘受し十字架を担われた。

 もしもカヤファが正統な大司祭ではなかったとしたら、正真正銘の大司祭ではなかったとしたら、御受難は無かっただろう。天主の御一人子を排斥して死に渡すことが出来る人間は、そしてローマ当局に執行を依頼することが出来る人間は、正当な大司祭しかなかった。そしてカヤファがその有効で正当な権威を持った最高の大司祭だった。

 そして正式な天主の大司祭として、ユダヤ教の最高権威者として、カヤファはイエズス・キリストを死刑と定め、イエズス・キリストに従う全ての人々を迫害した。


 聖パウロは、カヤファの後継者である大司祭アナニアと衆議会員たちを前にしたことがある。聖パウロは目が悪かったのでよく見えなかった。パウロは、アナニアの命令によって口を打たれたが、自分の無罪を主張してアナニアに抗議して、アナニアを「白塗りの壁よ」と呼ぶ。これは「お手洗い」とか「化粧室」とか「厠」とか「Water Closet」とかと言われているような婉曲的な言い方だ。周りの人から「あなたは天主の大司祭を侮辱するのか」と教えられ、パウロは彼がが大司祭だとは知らなかったと言い、脱出の書 (22: 28) を引用して自分の過失を認めた。「実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています、といった。」

使徒行録第23章にはこうある。

 パウロは、衆議会員たちをみつめていった。「兄弟たちよ、今日まで私は、良心に従って、天主のみ前に正しくふるまってきました」。
 すると大司祭アナニアは、そこにいた者にパウロの口を打てと命じた。そこで、パサロは「白く塗った壁よ、天主はあなたをお打ちになるだろう!あなたは、律法に従って私を裁くために座りながら、律法にもとって私を打てと命ずるのか!」といった。
 その席にいたある人が、「あなたは、天主の大司祭を侮辱するのか」といったので、パウロは、「兄弟たちよ、私はあの人が大司祭だとは知りませんでした。実に、"あなたの民のかしらを呪うな"としるされています」といった。

Intendens autem concilium Paulus ait viri fratres ego omni conscientia bona conversatus sum ante Deum usque in hodiernum diem
Princeps autem sacerdotum Ananias praecepit adstantibus sibi percutere os eius
Tunc Paulus ad eum dixit percutiet te Deus paries dealbate et tu sedens iudicas me secundum legem et contra legem iubes me percuti
Et qui adstabant dixerunt summum sacerdotem Dei maledicis
Dixit autem Paulus nesciebam fratres quia princeps est sacerdotum scriptum est enim principem populi tui non maledices


 聖パウロはここで私たちにはっきりと教えている。たとえ邪悪な当局であっても、私たちは権威を尊敬しなければならない、と。

 しかし、長上の権威と職務は天主から与えられた限りのあるものである。地上の権威は、天主の御旨を私たちが遂行することが出来るため与えられたものだからだ。もしも、地上の権威が残念なことに天主に逆らう時、私たちはこの権威を尊敬しつつも、この逆らいには従うことが出来ない。イエズスは、つきしたがってきた大群衆をかえりみて、おおせられた。「私のもとにきても、自分の父、母、妻、子、兄弟、姉妹、そして自分の命までも憎まないなら、私の弟子にはなれない。」(ルカ14:26)


 聖ペトロと使徒達も私たちに同じことを教えている。使徒達は、神殿でイエズス・キリストのことを説教していることを当局に逮捕され、教えることを厳禁された。しかし聖ペトロと使徒達は、大司祭の命令を無視しなければならないと判断し、こう答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。」(使徒行録5:29)

 使徒行録にはこうある。「さて、かれらを、衆議所の中に立たせて、大司祭がたずねた、「私たちは、あの名で教えるなと正式に禁じておいた。それなのに、あなたたちは、イェルザレム中を自分たちのおしえでみたしたではないか。そして私たちの上に、あの人の血を負わせようとするのか」。ペトロと使徒たちとは、答えた。「人間よりも、天主に従わなければなりません。私たちの先祖の天主は、あなたたちが木にかけて殺したイエズスをよみがえらせました。天主は、痛悔と罪のゆるしとをイスラエルにあたえるために、右のおん手をもって、かれを、かしらとし、救い主としてあげられました。私たちは、このことの証人です。私たちと、そして天主がご自分に従う者におあたえになる聖霊とです」。かれらはこれを聞いてはげしく怒り、殺そうとくわだてた。」


 使徒から伝わるカトリックの「伝統」のなかには、「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統がある。


 だから私たちは、司教様の人格や他のコメント者の人格をけなすように取りかねない表現に注意しよう。

 ルネッサンスによって、天主中心から人間中心主義へと重心が移った時、ルネッサンスの人々は天主を排斥することは考えてもいなかっただろう。しかし結果は天主を排斥することになった。

 高度近代技術社会の時代になって、人間から高度技術に重点が移った。その時人間は、人間を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし、実際には、機械と高度技術は、人間を機械の歯車の一つ、コンピューターの一部として見なし、人間の間化を進めてしまった。

 共産主義革命によって、革命家は唯物論に適う労働者のための物質に溢れる世界を夢見ていたかも知れない。製造や農業を軽んじることは考えていなかっただろう。しかし実際には、貧困と飢饉と人間の隷属化がやってきた。

 ロシアの強制収容所を体験したソルジェニーツィンは、二十世紀を「石器時代」「原始人時代」だと呼んだ。二十一世紀になって、人間は、ますます非人間的になり、動物のようになり、残酷になりつつあるように思われる。天主の御助けによって、私たちは、何とか人間らしさを維持しなければならない。そのためにも、カトリックの聖伝を天主の御助けによって守っていこう。「誤謬は憎むが、権威には敬意を払う」、「罪は憎み、罪人は憐れむ」という伝統を本当の意味で防衛していこう。


聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!
============
ブログランキング <= クリックで応援して下さい。兄弟姉妹の皆様の応援を感謝します!
============
聖ピオ十世会韓国のホームページ
トレント公会議(第19回公会議)決議文
第一バチカン公会議 (第20回公会議)決議文(抜粋)
聖ピオ五世教皇 大勅令『クォー・プリームム』(Quo Primum)
新しい「ミサ司式」の批判的研究 (オッタヴィアーニ枢機卿とバッチ枢機卿)Breve Exame Critico del Novus Ordo Missae
グレゴリオ聖歌に親しむ会

【参考資料】
【参考資料】ベネディクト十六世教皇の自発使徒書簡 Motu Proprio 『スンモールム・ポンティフィクム SUMMORUM PONTIFICUM 』の非公式日本語訳
【参考資料】第二バチカン公会議宣言『信教の自由に関する宣言』

最新の画像もっと見る

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
カヤファ (Fr Thomas Onoda)
2008-04-22 12:11:42
アヴェ・マリア!

愛する兄弟姉妹の皆様、

 真のメシアを予告し、確認するために天主によって作られたユダヤ教の、正当な指導者であった大祭司カイファが、真のメシアを殺害しようとするなどと、一体、誰が想定したでしょうか?

 真のメシアが、真の天主様が、呪われたように十字架で死去することがあり得ると、一体誰が考えついたでしょうか?

 多くの弟子たちは、正当な権威者によって「破門」されたメシアにつまずきました。くの人々は、聖母と一部の人々を除いて、イエズス・キリストが「非合法」であり、「合法な」裁判によって断罪されたと、思い込まされていました。

 正当なユダヤ教の大司祭は、イエズスの名前で教えるなと正式に禁じていたのです。これは、悪法であるがゆえに無効なものですが、しかし合法的な当局から発せられた形式的には「合法的な」ものでした。

 使徒達は私たちに、一つの教訓を与えています。これは実際には、大変難しいことです。聖寵の助けが必要です。

 しかし、私たちは、ペトロと使徒たちとともに、天主の御助けと共に、こう言わなければなりません。「人間よりも、天主に従わなければなりません」と。


主よ、我らを憐れみ給え!!
聖母の汚れ無き御心よ、我らのために祈り給え!

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭) sac. cath. ind.
返信する

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。