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聖ピオ十世会(SSPX)創立者 ルフェーブル大司教の伝記 19.4.3.勝利

2010年06月10日 | ルフェーブル大司教の伝記
勝利

 大司教は、侮辱や懇願を通り過ぎ、ガンタン枢機卿が突きつけて来た警告を穏やかに無視した 。

 6月25日、大司教はカンポスの引退司教であり、自分の司祭たちの幾人と一緒に来た友人アントニオ・デ・カストロ・マイヤー司教を、微笑みを浮かべ、晴れやかに、くつろいだ様子でエコンに喜びの内に迎え入れた。それから6月29日、彼は15名の司祭叙階を挙行した。

 その日の午後、大司教は友人のギトンと会見し、友好的ではあるが確固たる態度で彼に耳を傾けた。
 「私は閣下の平静さに感服しております。」とギトンが言った。
 「私を穏やかにしてくれるものは」大司教は続ける、「自分は天主の聖旨を行っていると感じているからです。それは何よりも重要な事です。ですから、すべて成る様に成るのです。私は天主の聖旨を行うつもりであって、何もペトロの教会から自分自身を引き離そうというつもりはないからこそ、平和なのです。」
 それから2人は「A-Dieu、天主様の御許で」と別れを言った。

 その夕、教皇大使から送られた一人の使者が、ラッツィンガー枢機卿からの電報を持って来た。
「教皇聖下は、父親らしくも断固として、本日すぐに閣下がローマへ出発するよう要請されております。云々」
 大司教はコッタール神父に打ち明けた。
「もし今日でさえも、彼らが適切に署名した教皇聖下からの司教聖別の命令書を私のところに持って来るなら、この司教聖別を8月15日まで遅らせる事にして、明日それについて知らせたでしょう。」
 しかし、彼はもうそれについて考える必要はなかった。

 翌日の1988年6月30日の朝、エコンの野原は、世界中至る所からやって来た1万人に及ぶ信徒たちで満ち溢れていた。

 報道記者たちは特設舞台上に溢れんばかりに収容され、そこから至聖所の広範囲にわたる視界を治めていた。

 聖ピオ十世会神学校の全6校から来た神学生たち、次に数百名に達する司祭と(ドン・ジェラールを含む)修道者、さらに式長たち、そして司教受品予定者たち【consecrandi】、また助祭、副助祭ら聖職者たち、最後に、司教聖別を行う2人の司教たちの順で行列が出発した。しばらく上空を旋回していた一機のヘリコプターが、突然この行列に向かって急降下して来たが、それは単により鮮明なカメラ撮影をする為であった。

 この式典は【司教用儀式定式文に従って‐訳者】教皇命令書の朗読から始まった。
「あなた方は使徒的命令書をお持ちですか?」
「持っています。」
「読み上げて下さい!」
「私たちは、使徒たちから受けた聖伝に常に忠実なローマ教会の命令を受け(…)」

 次に【説教が始まり】、単純かつ強烈な語り口で、ルフェーブル大司教は自分が置かれている緊急事態と、司教職を授与する自分の義務について見事な解説を披露した

「私は、カトリックの教義を伝え続けているカトリック教会の一司教にすぎません。私が思うに、そしてきっとこれはそう遠くない未来のことでしょう、皆様方は私の墓石に聖パウロのこれらの言葉を刻み込むであろう事です。“Tradidi quod et accipi --- 私は受けた事をあなた方に伝えた【コリント11:23】だけである。そしてそれ以外の何物でもありません。」

 親愛なる兄弟の皆様、私には、グレゴリオ十六世を始め、ピオ九世、レオ十三世、聖ピオ十世、ベネディクト十五世、ピオ九世、ピオ十二世の声が、これら全ての教皇たちが私たちにこういうのを聞いているようです。「どうかお願いだ、私たちはあなたに懇願する、あなたたちは私たちの教え、説教、カトリック信仰をどうしようとしているのか? それを放棄するつもりなのか? 地上からそれが消え去るままにさせておくつもりなのか?信者たちを見捨ててはならない! カトリック教会を見捨ててはならない!カトリック教会を続けなさい! 実に、第二バチカン公会議以来、過去において断罪されていた事を、現在のローマ当局は、抱擁し公言している」
と。


 ところで、信仰を無傷でそのまま伝える為には、司祭たちが存在しなければならず、「司祭は司教なしには存在し得ないのです。」一体誰から神学生たちは品級の秘蹟を授かるのか? 近代主義者の司教たちからだろうか?

 「私は、将来に備えて何もせずに死を迎え」彼らを孤児のままにして置くことなど出来ません。「そんな事をすれば私の義務に反するでしょう。」

 従って、大司教はこれらの教皇たちの声なき懇願に応じるのだ。さらにデ・カストロ・マイヤー司教と共に自分がかつて受けた司教職を授けるだろう。こうして、彼らはカトリック聖伝の“生き残り作戦”を遂行するのである。将来、この聖伝がその然るべき地位をローマで奪回する時、
「私たちはローマ当局から抱擁され、さらに彼らは私たちに、信仰を守ってくれてありがとうと感謝することでしょう。 」

 説教の途中で、悪戯っぽい笑みを浮かべ、大司教はメディアを冷やかした。
「メディアは間違いなく、やれ離教だ、破門だ!という類の見出しを付けることでしょう。しかし私たちは、身に降りかかるこれら全ての非難と処罰は完全に無効であると確信しています。」

 大司教が座ると、今度はデ・カストロ・マイヤー司教の番となり、彼は大司教と変わらぬ司牧的で神学的で簡潔な力強さで語り始めた。

「私たちは教会において先例のない危機を生きています。つまり、カトリック教会をその実体 それ自体においてでさえも害を及ぼしている危機です。カトリック教会の実体に触れるものとは、本質的に一体なる二つの玄義、つまり聖なるミサの犠牲とカトリック司祭職です。何故なら司祭職なくしてミサの犠牲はなく、その結果として、何であれ公的な礼拝の形がなくなるからです。同様に、私たちはこの基礎の上にこそ、聖主イエズス・キリストの社会的君臨を構築するのです。(…)」
「私がここに居るのは自分の義務を果たす為です。それは公に信仰告白する事であります。(…)私はここで、ルフェーブル大司教閣下の立場に心から甚大な支持を表明する事を望みます。ルフェーブル大司教の見解は全時代に亘る常なるカトリック教会に対する忠誠を通して命じられているものです。私たち2人は同じ源泉から飲んでおります。つまりそれは聖なる、公の、使徒継承の、そしてローマの教会の源泉です。 」



 友人である同僚司教から受けた、この全面的一致団結を表明するこの言葉を聴いた大司教の顔つきは、緊張がほぐれて明るくなり、さらに彼の心も軽くなった。そう、彼はもう一人きりではなかった。

 この朝、カトリック教会が、そこで働いていた。彼を動かし、前進させ、そしてその全ての行動において彼を支えたのはこのカトリック教会だった。

 大司教は10日もの間「私の頭は昼夜別なくガンガンしています。」と話していた。式典が終わってから香部屋に入ると、彼は自分の補佐たち【共同聖別者マイヤー司教、助祭役司祭、副助祭役司祭、式典進行役たちなど‐訳者】に言った。「終わりまでは持ち堪えないだろうと思っていましたよ。」

 しかしこの少し前、彼が自分の子供達【新司教たち‐訳者】の頭にミトラを置いた時、そこに居合わせた者は皆、勝利の微笑みで輝いたその顔つきを通して、大司教が抱く晴れやかな喜びを目撃した。司教聖別式の前夜にあった穏やかな堅固さは、心からの喜びに取って代わり、彼の疲れ切った身体を丸一日支えてくれた。

 大司教は、不安と心配にまみれてこの司教聖別式を挙行したのではない。私たちは【聖イグナチオの霊躁に基づいた‐訳者】霊の識別の規範に基づいて、この穏やかな喜びの向こう側に、やましい所のない良心の平和を認める事が出来る。さらに【同じ規範に基づいて‐訳者】間接的に、成された行為に含まれる道徳的善を判断する事さえ出来る。

 ルフェーブル大司教は、今や自分のNunc Dimittisを歌うことが出来る。「みことばどおり、主よ、今こそ、あなたのしもべを安らかに死なせてください。私の目は、もう主の救いを見ました【ルカ2:29-30】」。

 彼は、まさしく、御摂理が選んだ時に早すぎることも遅すぎる事もなく、また必要な手段・権能を完全に所有しつつ、伝えるべきものを伝えた。さらに1988年から1991年3月25日の死去までの、天主が自分に残して下さった3年間、彼は四名の補佐司教たちに精神的に付き添い、これら遺産相続人たちに対し司教職に伴う様々な責務を手引きすることになる。その時以来、大司教は彼らに司祭叙階を行わせ、自らは静かに参列しながら、今度は彼らこそ司祭職を伝えることが出来るようにと、自分の子供たちの挙動をその鋭い視線で追っていたのだ。

 この謙遜な身構えの内にある高貴な霊魂の上には、自分の様々な決断に対して責任を取り、最後までこの決定事項をやり抜く事への強度な願望があった。 しかも、将来に備えて彼が下したこれらの決断の重要性について、激しく燃え上がる信仰の炎によって輝くあの悲しげな注視における、聡明さの何と深遠なることか!



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