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2018年8月12日 聖霊降臨後第12主日のミサ 「イエリコにくだるユダヤ人」

2018年10月18日 | お説教・霊的講話
2018年8月12日(主日)聖霊降臨後第12主日のミサ(東京)
小野田神父 説教


聖なる日本の殉教者巡回教会にようこそ。
今日は2018年8月12日、聖霊降臨後第12主日のミサをしています。

今日はいつもと違って、夕方のミサになってしまいました。次のミサは、来週の主日、8月19日、朝の10時半からあります。

デ・ガラレタ司教様がまず堅振の秘跡を授けて下さって、その直後にミサがあります。午後には司教様からのお話を、霊的な講話を聞きたいと思っています。どうぞいらして下さい。



“Homo quidam descendebat ab Jerusalem in Jericho.”
「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、今日福音の中で、「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行って、そして強盗の被害にあって、半死半生で、全く全財産を失って、生きるか死ぬか、グッタリ倒れているところを助けられた」という話があります。

実はこの被害者は、このユダヤ人は、エルサレムからイエリコに下るこの被害者は、私たちです。人類です。私たち一人ひとりです。

そこで今日、この福音のこのミサのテキストに従って、

⑴ 私たちに一体、何が起こったのか?

⑵ 一体、誰が助けてくれたのか?

⑶ 私たちは今日、どうしなければならないのか?

という事を黙想しましょう。


⑴ エルサレムとイエリコの間は、現代では37㎞の距離があります。でも昔は今の迂回の道路がなかったので、もう少し短かったと考えられています、35㎞とか。1日で、朝早くから起きれば歩き通す事ができる距離です。
しかし、今でも昔も変わらずそこに、非常に人気の少ない、寂しい、そして強盗や盗賊や追い剥ぎがいっぱい住み着いていた危険な場所でした。
エルサレムは高い山の上にあったので、イエリコまでは1000mの標高の違いがあります。ですから、非常にイエリコまで行くのは簡単で、ただ道をダラダラと下っていけば良いのです。

これは何を意味しているかというと、聖なる都市エルサレムから、簡単な道を下って、道を外して、人生を間違えてしまった、誘惑に流されて、あるいは世間の言う通りに流されて、あるいは悪魔の誘惑に流されて、あるいは肉欲に負けて、ダラダラと行った私たちです。

この強盗とは盗賊とは、カトリックの教える3つの敵です。私たちの救霊の敵です。
「世俗」と「悪魔」と「私たち自身の肉欲」です。

そして、この3つに襲われなかった、という人は、一体世界に誰がいるでしょうか?マリア様とイエズス様を除いて、洗者聖ヨハネを除いて一体誰がいるでしょうか?
私たちは多かれ少なかれ、攻撃を受けて、そして原罪の傾きを、原罪の傷を負いながら、そして私たち自身の罪の傷を負いながら、多かれ少なかれ、半死半生のもうグッタリとして、悪魔に、あるいはこの世俗の考えに染まって、道端に倒れて、身ぐるみ剥がされて、そして息絶え絶えに、殴られ、蹴られ、そして自分の力では起き上がる事もできずに、「誰か助けを、早く助けてほしい。」

今日ちょうど入祭誦で歌ったように、“Deus, in adjutorium meum intende. Domine, ad adjuvandum me festina.”「早く主よ、助けに来て下さい」と言っている、口でブツブツ言っているかのようです。

もしかしたら私たちは、その自分が半死半生だという事にさえも、身ぐるみ剥がされたという事さえも、気絶して気が付いていなかったのかもしれません。「全身が痛い、もうどうなっているか分からない。目の前も真っ暗だ。どうしたら良いか分からない」という事だけでなっているかもしれません。

その私たちの目の前に、旧約の司祭が通り過ぎます。レビ人が、祭壇に仕える人たちが通りますが、彼らはチラリと横目で見て、そのまま何もせずに行ってしまいました。何もする事が、する力が無かったからです、する事ができなかったからです。

しかしユダヤ人にとって、傷付いた私たちにとって、異国人であったはずの、呪われた人であったはずのサマリア人が、そこの道を通りすがります。すると私たちを見て、哀れに思って近付いて、「大丈夫か。しっかりしろ」と言って、自分の持っていたブドウ酒をドクドクドクと注いでくれて、そして傷口を洗ってくれます。

これは、この良きサマリア人とは、天から私たちを探して、私たちの、傷付いた私たちを救おうと、赦そうと、聖化しようと、浄めようと人となられた、イエズス・キリスト、まさに良きサマリア人、イエズス・キリストです。

自分の御血をブドウ酒であるかのように注いで、私たちの傷を癒して下さいます。罪を赦そうと浄めて下さいます。そればかりか、油を私たちの傷口に塗って、聖霊の力で私たちを強めようとして下さいます。弱ってグッタリしている私たちを、自分の腕で受けて、そして持っていたロバに乗せて、あるいは動物に乗せて、そのまま近くの旅籠屋に旅館に連れて行きます。そして御自分自身で、この弱っている私たちを介護してくれます。「しっかりしろ。」「美味しい、力あるものを食べろ。」「その布団で寝ろ。」

そしてその翌日、「自分は天に帰らなければならないから」と言って、この旅籠屋の主人に、「さぁ、この人を看護を頼む」と言って、2デナリオを与えます。1デナリオは1日の肉体労働のその値ですが、この介護の為に2デナリオは十分すぎるほどでした。「もしもこれで足りなかったら、私が帰ってきたら、また再び世にやって来る時に、報いを与えよう。さぁ、この彼を癒す為に、健康になる為に、世話をしなさい。」

これは、この旅籠屋はこの旅館は、カトリック教会でなくて一体何でしょうか。この主人は、その聖職者じゃなくて何でしょうか。イエズス様はこの霊魂の世話を、彼らに任せます。イエズスの聖心は彼らに、全ての力を与えます。十字架の贖いのその値を全て委ねて、「さぁ、ここに必要なものがある。これを使って、彼らを世話をせよ。」

私たちは今日、こうやって旅籠屋にやって来ました。傷付いた私たちは、イエズス・キリストによって連れられてきて、そして今日また、ブドウ酒とそして油を注がれます。そしてますます強められて、ますます癒されて、ますます浄められて、ますます聖化されて、聖なるものとなって、天国への旅路を辿る事ができるように世話を受けます。


⑵ 第2のポイントは、一体ではなぜ、旧約の司祭たちは、私たちを見て見ぬふりをして行ってしまったのだろうか?何故なのだろう?

旧約の司祭たちは、特にモーゼに代表される司祭たちは、栄光あるものでした。今日の福音書の直後にある奉献誦を見て下さい、聖歌隊が素晴らしくそれを歌います、使徒信経の後に。モーゼが祈ると、「アブラハムの天主、イザアクの天主、ヤコブの天主、どうぞこの民を御憐れみ下さい」とモーゼが祈ると、その罪の為に非常に怒っていた、天主の正義を傷付けられて、罰を与えようとしていたその天主が、宥められて、そして彼らを赦そうとする力を持っていました。

モーゼは天主と、シナイ山で十戒を受ける時に、顔と顔を合わせて、お話をして対話をして、そしてその結果、顔は光に光栄に満ちていて、イスラエルの民はモーゼの顔を直視する事ができないほど、栄光に満ちた司祭職でした。

しかしそれでさえも、その真のヤーウェに仕えていた旧約の司祭でさえも、私たちを癒す事はできなかったのです。

その為には、真の良きサマリア人、イエズス・キリストが、天から私たちの為に、私たちを探して、御自分の御血のブドウ酒を、そして聖霊の油を注いで下さらなければなりませんでした。そして私たちを、その御自分の立てたカトリック教会に世話を任せなければなりませんでした。そうしてこそ初めて、私たちが健康に力を付けて、悪魔からの受けた傷を癒されて、天国への道を再び歩む事ができるように、ようやくなる事ができたのです。

そして今日ミサの時に、典礼学者によると、私たちはもう一度、良きサマリア人であるイエズス様から、ブドウ酒と、そして油を受けます。ですから今日、聖体拝領誦を聖歌隊が歌う時には、「地は、主の御業の実りによって満たされている、満足している。なぜかというと、御身は地から、大地から御聖体を、私たちを養うパンを下さり、そしてブドウ酒は私たちを喜ばせるから。」

これは御聖体の事でなくて何でしょうか。イエズス様の下さる、私たちに下さるブドウ酒でなくて何でしょうか。ブドウ酒は私たちの霊魂を、人の心を喜ばせてくれます。

それと同時に、更に聖体拝領誦では言います、「主は、私たちの顔をその油において喜ばせてくれる。」なぜかというと、聖霊の油がまた注がれるからです。そして私たちを強めるからです。

「聖霊の油が注がれて、パンが人の心を強める」というのは、何か堅振の話をしているかのように、私には聞こえました。

一体、旧約の司祭たちは力が無かったのみならず、もしかしたらその真の宗教の核心が、ただ石によって刻まれた十戒だけであったので、人の心に刻まれなかったのかもしれません。人の心に刻まれる為には、聖霊が私たちの心に染み通らせなければならなかったのかもしれません。

今日イエズス様は、この例えを話す前に質問されます、「永遠の命の道を行く為には、歩き通す為には、どうしたら良いのですか?先生。」
「聖書には何て書いてあるのか?」
「全ての力を尽くし、心を尽くし、精神を尽くして、汝の主なる天主を愛せよ。そして天主を愛するが為に、隣人を我が身の如く愛せよ。」

まさに宗教の核心とは、この「天主への愛」にあるのではないでしょうか。

そしてそのカトリックの教えのその核心というのは、イエズス様が私たちに教えようとしているこの核心というのは、「天主は愛であって、私たちの父として、私たちを御自分の子供として、父親が子供を愛しているかのように、その愛を超えた愛を以て愛している。」
「宗教の関係というのは、天主と人間との関係というのは、愛の関係であって、親子の関係であって、そして私たちが天主から無限に愛されている、憐れみを以て愛されている、という事を知り、そしてその聖父に、愛を愛で以て返す。ここにあるのだ」という事を教えています。
そして「聖父を愛するが為に。隣人を我が身の如く愛する。なぜかというと、同じ父を持つ兄弟だから。同じ家庭の家族の兄弟だから」という事を私たちに教えています。

「しかしこの核心が忘れられてしまうと、天主を全てに超えて愛するという事が、単なる石に書かれた冷たい文字だけになると、形式的だけになると、外見だけの話になると、宗教というのも、単なる外見の形だけのものになってしまって、本当の隣人愛というものを実践する事ができなくなってしまう」という事を教えているのかもしれません。


⑶ では今日、この御ミサのイエズス様が教えて下さるこの天主の愛について、天主が私たちを憐れんで愛して下さっている事について、私たちが多くのものを受けた、という事について、ますます理解する事ができるように、お祈り致しましょう。

先週私たちは、「エフェタ」と言われました。耳が開いて、目が開いて、そして心が開いて、眼が開いて、天主の憐れみをますます分かる事ができるように、お祈り致しましょう。

マリア様にお祈り致しましょう。マリア様は、私たちがどれほど愛されているか、という事を御存知です。今日、この特に御聖体拝領の時に、傷付けられたこのユダヤ人が、良きサマリア人から多くの御恵みを受ける事ができるように、マリア様にお祈り致しましょう。


“Homo quidam descendebat ab Jerusalem in Jericho.”
「ある人が、エルサレムからイエリコに下って行った。」

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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