ルフェーブル大司教、エコンに立つ
1968年の5月から1969年2月までに9ヶ月が過ぎていた。天主の御摂理はルフェエーブル大司教をエコンへと導いたのである。ルフェーブル大司教の言葉を聞いてみよう。
「ローマで何かをする可能性は低くなっていた。・・・私には聖母の騎士会に相談するという考えを思いついた。それはこの騎士団の後援者であるミション(Michon)司教様に従属することになる騎士司祭たち(priest-knights)に関する計画であった。私はこの案について、騎士団総長ジュアン・ド・パンファンタニョ大佐へ知らせた。返事はなかなかもらえなかったのだが、最終的にこの案件についてのドン・ラフォン(Dom Lafond) の援助とともに、考察と熟考の末に頂いた返事は、この計画が実現不可能であることをはっきりと示した。しかしながら、この騎士団総長はとても親切に、ヴァレ州の騎士たちが神学校として使えそうな建物を所有していたので、コンタクトを取ってみるといい、と提案してくれた。私は更なる情報を求めてヴァレに向かうことを決意した。」
彼の友人であり、フランス人神学校における元同級生のアンリ・ボンヴァン(Henri Bonvin)というヴァレのフュリ村(Fully)で教区司祭を務める神父を介して、大司教は1969年の3月の末、モンテ(Monthey)での四旬節の黙想会と、フュリでの初聖体準備黙想会の指導に自分を招いてくれないかと依頼した。フュリにつくと 、ボンヴァン神父に自分の神学校についての計画を説明した。フリブールでの神学校創立の開始に関して依然として決心がつかないことや、ヴァレにある家屋について聞いた事などである。アンリ・ボンヴァンはそれを聞くと直ぐそれがエコンの事だと分かったのである。翌日、御ミサの終わりに、御聖体を授けながら、拝領直後の教区信徒ロジェ・ロヴェ(Roger Lovey)の前を通り過ぎる時、彼にささやいて言った:「御ミサの後司祭館に来てください!」
彼は司祭館に来たロヴェに言った:「ここにルフェーブル大司教がいらっしゃるのですが、ご自分の神学生たちを収容する家を探しています。エコンがそれにふさわしくと思いませんか?」
ロジェ・ロヴェは、既にあの騎士団総長から、大司教が土地を探している事を聞いていたのだろうか? 御摂理の計画が彼にとって常に光り輝いた。天主はこの友人5人が成し遂げていた気高い信仰の行いに満足された。天主は彼らの自発性を誘因したのであり、今や彼らは、自分たちが描いてきた非常に途方も無い夢を超える業を遂行する道具となって、不屈の希望を達成させるだろう。
大司教とシオンの(Sédunois)ロジェ・ロヴェ弁護士は間もなく初対面することになり、こうしてルフェーブル大司教は、1969年聖週間のある日、エコンを初めて訪問することになる。
彼がそこで見出したものは、乾燥して岩だらけの葡萄園の丘と境をなす頑丈な土手によって、近くを行く奔流から守られた杏子の花咲く樹林のオアシスだった。
夏を迎えると、この土手にはアンシリス(マメ科‐anthyllis)やローズベイ・ウィローハーブ(アカバナ科‐rosebay willowherb)、そしてコクシグルー(スミレ科‐coquesigrue/Ononis natrix)などの野草が咲き並ぶ。
エコンでは、この春、ロザンヌの大会の後、シオンのアダム司教が出席して称える聖母の騎士会の総会が開かれ、その参加者を喜んで歓迎していた。エコンの家は、シオン・プレチェプトラート(聖母の騎士会の一支部)の本部であったし、プレチェプトール(騎士団支部長)のフランソワ・ラニョ(François Lagneau)氏は、集まった総会参加者に言った。
「勝利に酔いしれるのはもう止めようではありませんか!私はこの家をベルト神父に委ねます。天国にいる神父がその高みから私たちの為に最善を尽くしてくださいますように!ここに、そう、この地に、つまり聖人たちの地に私たちはいるからです!」
ロジェ・ロヴェは友人の騎士グラシアン・ロシスをエコンに招いた。さらにマルセル・ペドゥローニという、頼まれた事は人を手配して片付けてしまう実に役に立つ男を招待した。ロヴェ氏はルフェーブル大司教にエコン周辺の案内をした。そして大司教はといえば、エコン周辺の人気のない静けさと家屋からにじみ出る修道院的な厳格さにたちまち魅了された。
見学後、大司教は言った:「主要な街からとても離れているエコンが、神学校に適した所だとはそれ程考えませんでしたが、修練院には最適な場所でした。加えてアダム司教閣下に尋ねると 、そこに神学校が建てられる事を好んでおられなかったし 、御自分の裁治権の外にあることを望まれていたのです。それで私は考える時間をくれるようこの紳士諸君にお願いすると共に、できるならば一年の間は待ってほしいと頼みました。すると彼らは、1970年の10月まで待つと快く聴きいれて下さったのです。」
しかしながら、大司教の言うように、“霊性学による(神学生養成の)開始年を設けるという夢” が1969年の夏に具体化し始める。9月3日に彼はヴェルノール・ミール(Vernor Miles)宛に、そのことについて手紙を書いた。
「ヴァレの家についてでありますが、私の意向は、この家屋を霊性学と典礼の養成からなる最初の一年目に使おうと考えています。「修練院」という名こそ無いけれど、又そのような法的な現実もないけれど、一種の広義の意味の修練院です。さらにそこでは非宗教的な学問から教会的な学問への間の移行期の一年となるでしょう。私はヴィエンヌ(Vienne)地方で五つの教区を持つ非常に優れた司祭たちの小さなグループに期待しているところなのです。」
大司教は自分の計画の展開をこう言い続けている。
「1970年から71年学年度の第一学期の間、この願望は、私にとって絶対不可欠だと思えました。そこで自分に協力してくれる司祭たちを探そうと私は考えたのです。誰一人そのような司祭が見つからず困惑していた中で、私はベネディクト会の “フォンゴンボーの聖母大修道院” のドン・ロワ(Dom Roy)大修道院長に面会し、この修道院の雰囲気の中で神学生たちがそのような一年を過ごす可能性について話し合いました。司教区当局から来るだろう妨害にも幾つかの言及がなされましたが、親切にもこの原理はドン・ロワによって受け入れられたのです。」
ちょうどその時、大司教は自分を支援したいとの意志を表明する2名の司祭から申し出を受けた。一人は、サンタ・キアラでかつて生徒だったモーリス・ゴットリープ(Maurice Gottlieb)神父で、彼は聖レジェ司祭会(St. Léger)の友人であり、シャートルの補佐司祭でもあった(さらに当時彼はフリブールを訪問中であった)。そしてもう一人は、ジャック・マソン(Jacques Masson)神父で、モー(Meaux)の小神学校で先生をしていた。大司教に会うためにこのマソン神父はロモン通り(Rue Lhomond)に来てその熱意を明かした。ただし、彼らの決定的申し出 は1970年5月末にようやく実現した。同様に、ルフェーブル大司教がローマに短い滞在をしている間に、クロードゥ・ミシェル(Claude Michel)神父の受け入れも決まった。
フォンゴンボーとの交渉の成果を待たずに、ルフェーブル大司教は1970年復活祭のロザンヌの大会でロヴェ(Lovey)弁護士と面会し、御自分の夢である霊性学の一年を彼と話し合った。5月24日、大司教はポール・オラニエを伴って再度エコンに戻ると、ロヴェ弁護士やマルセル・ペドゥローニ、その他からの熱烈な歓迎を受けた。
「大司教様」ロヴェは言った。「私たちがリッドの小教区主任司祭を招く許可をいただけませんでしょうか?」
「おお!どのような主任司祭なのですか、彼は? 彼が私たちの仕事の邪魔をしないと言えますか?」
「とんでもない、この主任司祭ならそのような危険など何もありません。彼は他の主任司祭らとは違います。」
近くにあるレストランで、例の訪問客二人とピエール・エピネ神父、さらにエコンの所有者である5人の友人は会食した。食事の終わりに、意味ありげな沈黙を保っていたアルフォンス・ペドゥローニがその重い口を開いてまさに予言となる言葉を語り出したのだ。
「実は大司教様、あなたにお伝え致します。何時の日か、世界中で人々はエコンの神学校の話をするでしょう。」
神学生たちの入居に必要とされる改築をするかどうかの最終決定は、大司教によるフォンゴンボー訪問の計画が否定的な結果 となった6月24日に下された。大司教は、賃貸料という形で、十分な援助の金額を(後援者の協力を得て)支払うと彼らに約束した。
しかしながら、解決されていない重要な問題が最後に一つ残っていた。それは料理と洗濯をしてくれる人たちを見つけることであった。こんな隔離された地方のどこで見つけ出せるのか? シャボイユの姉妹会(Sisters of Chabeuil)への訪問が無駄に終わった後、これをますます心配していた大司教は“良き老司祭ベルト神父とその修道女たち”、つまり聖霊の聖ドミニコ修道会(the Dominicans of the Holy Ghost)の事を思いついた。それでローマ出発前に大司教は彼らにSOSを送ったのである。
ルフェーブル大司教はこう言う。
「ところで、9月3日、ローマ滞在中、私は電話口から前向きな返事をいただきました。その日は聖ピオ十世の祝日だったのです。御摂理と、聖教皇の取次ぎと、ポンカレックの女子修道院長様との御厚意を通して途方も無い心尽くしを頂いたのです!」
【聖ピオ十世司祭兄弟会 (FSSPX) 創立者 ルフェーブル大司教 伝記 目次】
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1968年の5月から1969年2月までに9ヶ月が過ぎていた。天主の御摂理はルフェエーブル大司教をエコンへと導いたのである。ルフェーブル大司教の言葉を聞いてみよう。
「ローマで何かをする可能性は低くなっていた。・・・私には聖母の騎士会に相談するという考えを思いついた。それはこの騎士団の後援者であるミション(Michon)司教様に従属することになる騎士司祭たち(priest-knights)に関する計画であった。私はこの案について、騎士団総長ジュアン・ド・パンファンタニョ大佐へ知らせた。返事はなかなかもらえなかったのだが、最終的にこの案件についてのドン・ラフォン(Dom Lafond) の援助とともに、考察と熟考の末に頂いた返事は、この計画が実現不可能であることをはっきりと示した。しかしながら、この騎士団総長はとても親切に、ヴァレ州の騎士たちが神学校として使えそうな建物を所有していたので、コンタクトを取ってみるといい、と提案してくれた。私は更なる情報を求めてヴァレに向かうことを決意した。」
彼の友人であり、フランス人神学校における元同級生のアンリ・ボンヴァン(Henri Bonvin)というヴァレのフュリ村(Fully)で教区司祭を務める神父を介して、大司教は1969年の3月の末、モンテ(Monthey)での四旬節の黙想会と、フュリでの初聖体準備黙想会の指導に自分を招いてくれないかと依頼した。フュリにつくと 、ボンヴァン神父に自分の神学校についての計画を説明した。フリブールでの神学校創立の開始に関して依然として決心がつかないことや、ヴァレにある家屋について聞いた事などである。アンリ・ボンヴァンはそれを聞くと直ぐそれがエコンの事だと分かったのである。翌日、御ミサの終わりに、御聖体を授けながら、拝領直後の教区信徒ロジェ・ロヴェ(Roger Lovey)の前を通り過ぎる時、彼にささやいて言った:「御ミサの後司祭館に来てください!」
彼は司祭館に来たロヴェに言った:「ここにルフェーブル大司教がいらっしゃるのですが、ご自分の神学生たちを収容する家を探しています。エコンがそれにふさわしくと思いませんか?」
ロジェ・ロヴェは、既にあの騎士団総長から、大司教が土地を探している事を聞いていたのだろうか? 御摂理の計画が彼にとって常に光り輝いた。天主はこの友人5人が成し遂げていた気高い信仰の行いに満足された。天主は彼らの自発性を誘因したのであり、今や彼らは、自分たちが描いてきた非常に途方も無い夢を超える業を遂行する道具となって、不屈の希望を達成させるだろう。
大司教とシオンの(Sédunois)ロジェ・ロヴェ弁護士は間もなく初対面することになり、こうしてルフェーブル大司教は、1969年聖週間のある日、エコンを初めて訪問することになる。
彼がそこで見出したものは、乾燥して岩だらけの葡萄園の丘と境をなす頑丈な土手によって、近くを行く奔流から守られた杏子の花咲く樹林のオアシスだった。
夏を迎えると、この土手にはアンシリス(マメ科‐anthyllis)やローズベイ・ウィローハーブ(アカバナ科‐rosebay willowherb)、そしてコクシグルー(スミレ科‐coquesigrue/Ononis natrix)などの野草が咲き並ぶ。
エコンでは、この春、ロザンヌの大会の後、シオンのアダム司教が出席して称える聖母の騎士会の総会が開かれ、その参加者を喜んで歓迎していた。エコンの家は、シオン・プレチェプトラート(聖母の騎士会の一支部)の本部であったし、プレチェプトール(騎士団支部長)のフランソワ・ラニョ(François Lagneau)氏は、集まった総会参加者に言った。
「勝利に酔いしれるのはもう止めようではありませんか!私はこの家をベルト神父に委ねます。天国にいる神父がその高みから私たちの為に最善を尽くしてくださいますように!ここに、そう、この地に、つまり聖人たちの地に私たちはいるからです!」
ロジェ・ロヴェは友人の騎士グラシアン・ロシスをエコンに招いた。さらにマルセル・ペドゥローニという、頼まれた事は人を手配して片付けてしまう実に役に立つ男を招待した。ロヴェ氏はルフェーブル大司教にエコン周辺の案内をした。そして大司教はといえば、エコン周辺の人気のない静けさと家屋からにじみ出る修道院的な厳格さにたちまち魅了された。
見学後、大司教は言った:「主要な街からとても離れているエコンが、神学校に適した所だとはそれ程考えませんでしたが、修練院には最適な場所でした。加えてアダム司教閣下に尋ねると 、そこに神学校が建てられる事を好んでおられなかったし 、御自分の裁治権の外にあることを望まれていたのです。それで私は考える時間をくれるようこの紳士諸君にお願いすると共に、できるならば一年の間は待ってほしいと頼みました。すると彼らは、1970年の10月まで待つと快く聴きいれて下さったのです。」
しかしながら、大司教の言うように、“霊性学による(神学生養成の)開始年を設けるという夢” が1969年の夏に具体化し始める。9月3日に彼はヴェルノール・ミール(Vernor Miles)宛に、そのことについて手紙を書いた。
「ヴァレの家についてでありますが、私の意向は、この家屋を霊性学と典礼の養成からなる最初の一年目に使おうと考えています。「修練院」という名こそ無いけれど、又そのような法的な現実もないけれど、一種の広義の意味の修練院です。さらにそこでは非宗教的な学問から教会的な学問への間の移行期の一年となるでしょう。私はヴィエンヌ(Vienne)地方で五つの教区を持つ非常に優れた司祭たちの小さなグループに期待しているところなのです。」
大司教は自分の計画の展開をこう言い続けている。
「1970年から71年学年度の第一学期の間、この願望は、私にとって絶対不可欠だと思えました。そこで自分に協力してくれる司祭たちを探そうと私は考えたのです。誰一人そのような司祭が見つからず困惑していた中で、私はベネディクト会の “フォンゴンボーの聖母大修道院” のドン・ロワ(Dom Roy)大修道院長に面会し、この修道院の雰囲気の中で神学生たちがそのような一年を過ごす可能性について話し合いました。司教区当局から来るだろう妨害にも幾つかの言及がなされましたが、親切にもこの原理はドン・ロワによって受け入れられたのです。」
ちょうどその時、大司教は自分を支援したいとの意志を表明する2名の司祭から申し出を受けた。一人は、サンタ・キアラでかつて生徒だったモーリス・ゴットリープ(Maurice Gottlieb)神父で、彼は聖レジェ司祭会(St. Léger)の友人であり、シャートルの補佐司祭でもあった(さらに当時彼はフリブールを訪問中であった)。そしてもう一人は、ジャック・マソン(Jacques Masson)神父で、モー(Meaux)の小神学校で先生をしていた。大司教に会うためにこのマソン神父はロモン通り(Rue Lhomond)に来てその熱意を明かした。ただし、彼らの決定的申し出 は1970年5月末にようやく実現した。同様に、ルフェーブル大司教がローマに短い滞在をしている間に、クロードゥ・ミシェル(Claude Michel)神父の受け入れも決まった。
フォンゴンボーとの交渉の成果を待たずに、ルフェーブル大司教は1970年復活祭のロザンヌの大会でロヴェ(Lovey)弁護士と面会し、御自分の夢である霊性学の一年を彼と話し合った。5月24日、大司教はポール・オラニエを伴って再度エコンに戻ると、ロヴェ弁護士やマルセル・ペドゥローニ、その他からの熱烈な歓迎を受けた。
「大司教様」ロヴェは言った。「私たちがリッドの小教区主任司祭を招く許可をいただけませんでしょうか?」
「おお!どのような主任司祭なのですか、彼は? 彼が私たちの仕事の邪魔をしないと言えますか?」
「とんでもない、この主任司祭ならそのような危険など何もありません。彼は他の主任司祭らとは違います。」
近くにあるレストランで、例の訪問客二人とピエール・エピネ神父、さらにエコンの所有者である5人の友人は会食した。食事の終わりに、意味ありげな沈黙を保っていたアルフォンス・ペドゥローニがその重い口を開いてまさに予言となる言葉を語り出したのだ。
「実は大司教様、あなたにお伝え致します。何時の日か、世界中で人々はエコンの神学校の話をするでしょう。」
神学生たちの入居に必要とされる改築をするかどうかの最終決定は、大司教によるフォンゴンボー訪問の計画が否定的な結果 となった6月24日に下された。大司教は、賃貸料という形で、十分な援助の金額を(後援者の協力を得て)支払うと彼らに約束した。
しかしながら、解決されていない重要な問題が最後に一つ残っていた。それは料理と洗濯をしてくれる人たちを見つけることであった。こんな隔離された地方のどこで見つけ出せるのか? シャボイユの姉妹会(Sisters of Chabeuil)への訪問が無駄に終わった後、これをますます心配していた大司教は“良き老司祭ベルト神父とその修道女たち”、つまり聖霊の聖ドミニコ修道会(the Dominicans of the Holy Ghost)の事を思いついた。それでローマ出発前に大司教は彼らにSOSを送ったのである。
ルフェーブル大司教はこう言う。
「ところで、9月3日、ローマ滞在中、私は電話口から前向きな返事をいただきました。その日は聖ピオ十世の祝日だったのです。御摂理と、聖教皇の取次ぎと、ポンカレックの女子修道院長様との御厚意を通して途方も無い心尽くしを頂いたのです!」
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