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大津皇子鎮魂の二上山(産経新聞「なら再発見」第90回)

2014年09月16日 | なら再発見(産経新聞)
産経新聞奈良版・三重版ほかに好評連載中の「なら再発見」、少し時間が経ってしまったが、(9/6付)の見出しは「二上山麓 悲劇の大津皇子に思いはせ」、執筆されたのはNPO法人「奈良まほろばソムリエの会」監事の露木基勝さんだ(桜井市出身・在住)。露木さんは飛鳥でガイドをされるが、葛城地方にもお詳しいのだ。まずは全文を紹介する。
※トップ写真は、大津皇子の「本当の墓」との説が有力な鳥谷口古墳=葛城市染野

 二上山は大阪と奈良の県境にあり、雄岳(おだけ)と雌岳(めだけ)の二つの峰が印象的な山だ。古くは「ふたかみやま」とも呼ばれ、聖なる山として万葉の時代から崇(あが)められてきた。古代の大和では、死者の魂は二上山の彼方(かなた)へ去り、そして三輪山からの日の出とともに生まれ変わると信じられてきた。
 二上山は、悲劇の皇子と称される大津皇子(おおつのみこ)の鎮魂の場所だ。天武天皇の皇子の中で、皇位継承の有力候補は天智天皇の娘である大田(おおたの)皇女(ひめみこ)を母とする大津皇子と、その実妹・鵜野(うのの)皇后(後の持統天皇)を母とする草壁(くさかべの)皇子であった。



二上山雄岳山頂にある「大津皇子二上山墓」(以下の写真は私の撮影 09.11.3)

 大田皇女はやがては皇后となる可能性があったが、大津皇子の幼少期に死去してしまう。そのため大津皇子は後ろ盾が乏しかったが、日本書紀や懐風藻(かいふうそう)の記述によると、文武両道に優れ、人望も厚かったという。
 わが子を皇位につけたいと切望する鵜野皇后にとって、大津皇子は目の前の巨大な障壁と感じたに違いない。天武天皇が亡くなるや否や、皇后は大津皇子に謀反(むほん)の罪を負わせ葬り去ったとの説が伝わる。
      ※   ※   ※
 日本書紀によると、686年10月2日に謀反の疑いで、大津皇子と加担者30余人が捕えられた。処分は早く、翌日には皇子は磐余(いわれ)にある訳語田(おさだ)(現在の桜井市戒重)の自宅で、24歳の若さで死を賜(たまわ)った。
 一方、加担者は一部を除きみな許された。大津皇子の重罰にくらべ、加担者に対する余りにも寛大な対応から、仕組まれた陰謀(いんぼう)だったという疑惑が浮かぶが、全ては闇の中で知る由(よし)もない。しかし草壁皇子は即位することなく2年後に28歳の若さで死去してしまう。鵜野皇后の落胆はどれほどのものだっただろうか。
 大津皇子の姉・大伯(おおくの)皇女が弟の死を歌に残している。
 うつそみの 人なる我や 明日よりは 二上山(ふたかみやま)を弟世(いろせ)と 我が見む (巻2-165)
 この万葉歌には「大津皇子の屍(かばね)を葛城の二上山に移し葬(はふ)る時、大伯皇女の哀しみ傷(いた)む御作歌(みうた)」という題詞(だいし)が付けられている。「移し葬る」という言葉が、皇子の遺体を二上山に改葬したことを物語る。
      ※   ※   ※
 現在、雄岳山頂には宮内庁が管理する大津皇子の墓がある。一説によると、この場所に決定されたのは、大伯皇女の歌を参考にしただけで、根拠はないという。いくら皇族とはいえ、奈良盆地のどこからでも見える二上山の頂上に反逆者と目された人物の墓を築造することは、常識的にはあり得ないだろう。



これら3点は鳥谷口古墳(方墳)

 二上山山麓に鳥谷口(とりたにぐち)古墳という古墳時代終末期(7世紀後半)の古墳がある。この古墳こそが大津皇子の本当の墓だとの説が有力だ。石室は成人を埋葬したとは思えない小空間であり、火葬墓または改葬墓の可能性が高い。しかも石室の石の一部には石棺の蓋石(ふたいし)が転用されており、特異なつくりの墓だ。大津皇子の祟(たた)りを恐れて、大急ぎで石棺を転用した石室を作り改葬したのだろうか。



 そんな思いでこの古墳を眺めると、鳥谷口古墳こそ大津皇子の改葬墓としてふさわしく思えてくる。大津皇子に思いをはせながら、鎮魂の舞台となった二上山麓を散策されてはいかがであろうか。
 奈良まほろばソムリエの会ではウオーキング・ツアー「まほろばソムリエと巡る大和路」を実施している。大津皇子を偲んで鳥谷口古墳を訪れる「當麻ロマン街道」など全10コースが用意されている。詳しくは、会のホームページ内のサイト(http://sguide81.blog.fc2.com/)。(NPO法人奈良まほろばソムリエの会 露木基勝)



私も二上山を訪ねたことがある(近畿文化会「二上山を登る」)。雄岳山頂あたりは、1541年(天文10年)に木沢長政が築いた山城の二の丸があった場所なので、もし大津皇子の墓があったら、破壊されていたはずである。鳥谷口古墳については、『奈良まほろばソムリエ検定 公式テキストブック』(山と渓谷社刊)によると、

鳥谷口古墳 (葛城市染野)
二上山雄岳の東麓に所在する。土取り工事中に偶然発見され、墳丘の約半分は破壊されていたが、墳形は方墳で、墳丘の規模は一辺七・六㍍に復元される。墳丘には、大型の割石を敷き詰めた精緻な貼石を施す。埋葬施設は、横口式石槨である。石槨は、八石の二上山の凝灰岩を組み合わせたもので、底石・天井石および北側石に加工途中の家形石棺の蓋石を利用していた。
築造は七世紀中ごろ。加工途中の石棺石材を大量に使用していることから、被葬者については、非業の死をとげ、二上山に葬られたという大津皇子の墓とする説がある。


と慎重な表現ながら「鳥谷口古墳=大津皇子墓」説を紹介しており、これが現在のところ最有力な説である。

露木さんがお書きの通り、奈良まほろばソムリエの会ではウオーキング・ツアー「まほろばソムリエと巡る大和路」を実施している。お好きな日を選んで予約する2人以上のグループ向けのツアーだ。基本的にはお1人300円で、奈良まほろばソムリエの会のガイドを呼べる。「當麻ロマン街道…大津皇子と中将姫、鎮魂と伝承の舞台を行く」コースは、

美しい山容を誇る二上山は、「ふたかみやま」と呼ばれ、生と死の世界を分ける山として古代より崇められてきました。その聖なる山の麓には、「大津皇子の悲話」や「中将姫伝説」が今も語りつがれています。そんな古代ロマンあふれる當麻の里を巡るコースです。

・集合:近鉄南大阪線二上神社口駅10時
・解散:当麻寺駅15時45分(予定)
(コース)コース内容は、ご相談に応じます。半日コースの設定も可能です。 近鉄南大阪線二上神社口駅 ⇒ 加守廃寺 ⇒ 石光寺 ⇒ 傘堂 ⇒ 鳥谷口古墳(付近で昼食)⇒ 當麻山口神社 ⇒ 大伯皇女・大津皇子の歌碑 ⇒ 當麻寺(三堂拝観を含む) ⇒ けはや塚 ⇒ 當麻寺駅  (歩行距離:6.2Km)

(みどころ)
①加守廃寺:大津皇子の鎮魂のために建立されたとされ、処刑後、当初はここに埋葬されたとの説があります。
②二上山:古代の人々は、二上山に沈む夕日を眺め、彼方に極楽浄土があると信じました。
③石光寺:中将姫ゆかりの「染の井」と、糸を掛けた「糸掛け桜」があり、「染寺」とも呼ばれます。寒ぼたんの名所。
④鳥谷口古墳:大津皇子の本当の墓ともいわれている古墳。古代史ファンは必見!
⑤大伯皇女の歌碑:大津皇子を偲んで姉の大伯皇女が詠んだ歌は、今も胸をうちます。
⑥當麻寺:中将姫が、蓮の糸で織ったと伝わる當麻曼荼羅(国宝)を本尊としていることで名高い寺。境内には白鳳から天平時代にかけて創建された本堂(国宝)や日本で唯一創建以来現存する東西二つの三重塔(国宝)が建ち並びます。


まさに古代ロマンあふれる二上山・当麻寺周辺に、ぜひ足をお運びください!露木さん、興味深いお話を有難うございました!


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