天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

時山直八

2010-01-14 | Weblog
 栃木県矢板市に山縣有朋別邸があります。
 この別邸は、明治時代の建築学の大家、伊東忠太の設計によるもので、
 元々は小田原市にあったものですが、関東大震災の時に倒壊し、
 山縣家の農場のあった矢板市に移築されたものです。
 現在は、記念館として公開されています。

 記念館の中には、山縣有朋関係の資料が展示されています。
 その中には、高杉晋作が愛用した徳利などもありましたが、
 それと並んで、時山直八の遺品の杯も展示されていて、
 山縣と時山の関係の深さを知る事ができます。

 時山直八は、1838年(天保9年)
 萩藩士時山茂作の長男として生まれました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、更に江戸に出て、
 安井息軒にも師事しています。
 その後、久坂玄瑞と国事に奔走し、
 長州藩が攘夷の実行を決めると帰国して、
 奇兵隊に監軍として参加します。
 更に、馬関戦争、禁門の変、第二次長州征伐と
 長州藩の戦闘にはいずれも参加し、
 その勇敢な行動が評価されたようです。

 戊辰戦争の際には、
 北陸道鎮撫総督参謀の山縣らとともに越後へ向かい、
 越後長岡の河井継之介率いる長岡藩と
 北越戦争と呼ばれる激戦を繰り広げます。
 そして、立見鑑三郎率いる桑名藩雷神隊との
 要衝朝日山を巡る戦闘の際、顔面を銃撃され、
 戦死してしまいます。享年31歳でした。
 時山の死は、長州藩の出身者の間に波紋を起こし、
 山縣は品川弥次郎から
 「時山を殺したのはお前だ」と批難されたようです。
 山縣、時山らが越後に出発する直前、
 京都で撮影したと言われる写真が残っています。

 http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/16-20/02001tokiyama.htm
 このアドレスから、ご覧になれます。
 なお、写真の説明は左右が逆になっていて、
 向かって左から二人目のザンギリ頭で立っている洋装の人物が時山です。

 山縣は、時山の死後、
 あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風
 との歌を詠んでいます。

 また、10数年後、時山の墓に参った山縣は、時山の死を悼む詩も作っています。
 江声岳色総相知 (江声 岳色 すべてあい知る)
 路入越州思舊時 (路 越州に入り 旧時を思う)
 泉下英雄覓無処 (泉下の英雄 求めるところなし)
 蕭々故塁雨如絲 (蕭々として 故塁に雨 糸のごとし)
コメント (2)
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