天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

増上寺と寛永寺

2017-06-14 | Weblog
 増上寺は、空海の弟子・宗叡が武蔵国貝塚(今の千代田区麹町・紀尾井町あたり)に
 建立した光明寺が前身と伝えられています。
 その後、室町時代の1393年(明徳4年)、浄土宗第八祖酉誉聖聡の時、
 真言宗から浄土宗に改宗し、寺号も増上寺と改めていますので、
 この聖聡が、実質上の開基と考えられます。
 一方の寛永寺は、天台宗の寺院で、開基は徳川家光、開山は天海です。

 この2寺は、それぞれ徳川家の菩提寺になっています。
 増上寺が、徳川家の菩提寺となるまでの歴史は必ずしも明らかではありませんが、
 通説では1590年(天正18年)、徳川家康が江戸入府の折、
 たまたま増上寺の前を通りかかり、源誉存応上人と対面したのが、
 菩提寺となるきっかけだったとされています。
 貝塚から、一時日比谷へ移った増上寺は、
 江戸城の拡張に伴い、1598年(慶長3年)、
 家康によって現在地の芝へ移されています。

 徳川家康は死亡した後、一度駿府の南東の久能山(現久能山東照宮)に葬られ、
 一周忌を経て江戸城の真北に在る日光の東照社に改葬されています。
 2代将軍の秀忠は、家康の遺言で増上寺が菩提寺に指定されていたので、
 同寺に葬られています。
 3代将軍の家光は、自ら開基となった寛永寺で葬儀を行い、
 日光の東照宮の脇の輪王寺に埋葬されましたが、寛永寺に霊廟も造営しました。
 その後の4代家綱、5代綱吉はそれぞれ家光の子どもですから、
 父と同じく寛永寺で葬儀が行われ、霊廟が建立されました。
 将軍の葬儀には、幕府から多額の回向料が支払われますし、
 諸大名などからも香典を包みますので、莫大な収入が寺に入ります。
 6代家宣が死去した時には、
 60万石以上の大名は白銀30枚、25万石~59万石は20枚と定められていましたので、
 これだけでも相当な金額になりますが、
 更に他の幕臣などもいましたから、莫大な金額が入ったと思われます。

 寛永寺への霊廟建立が続いたため、
 増上寺は霊廟を自寺にと言う運動を猛烈に行います。
 その結果、6代家宣、7代家継も増上寺に霊廟が建立されました。
 今度は寛永寺が巻き返しを図り、
 8代吉宗は自身の意思もあって寛永寺に建立されます。
 それ以降は両寺の立場もあり、ほぼ交互に霊廟が建立される事になります。
 ただ、11代家斉は順番からすると増上寺のはずが寛永寺になりましたが、
 それ以後は、12代家慶は増上寺、13代家定は寛永寺、14第家茂は増上寺となりました。

 葬儀ばかりではなく、歴代将軍の祥月命日には、現将軍は霊廟に参詣しますし、
 江戸在府中の大名も残らず参詣します。
 これを「諸大名御跡参」と称し、
 服装は大紋の礼服で風折の烏帽子を被る、
 江戸城に登城する時のようなフォーマルな姿で参詣します。
 このため、この行列を見ようと江戸市中はもとより近在からも多くの見物人が集まり、
 黒山の人だかりとなります。
 人が集まれば、それを相手に商売する人が集まるのも当然で、
 両寺だけでなく、門前で商人も潤し、江戸経済の活性化に大きく貢献しました。

 以上、安藤優一郎さんの「大江戸お寺繁盛記」を参考にしました。

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電光影裏に・・・

2017-06-02 | Weblog
 先日、円覚寺に行って来ました。
 円覚寺は、1282年(弘安5年)に鎌倉幕府執権北条時宗が、
 元寇の戦没者追悼のため、中国僧の無学祖元を招いて創建した古刹です。

 無学祖元は、中国明州慶元府(浙江省寧波市)出身の臨済宗の僧です。
 1275年、元(蒙古)軍が南宋に侵入した時、
 温州の能仁寺に避難していた無学祖元は元軍に包囲されますが、
 「臨刃偈」を詠み、元の兵士はその気宇壮大な事に驚き、
 黙って去ったと言われています。
 その臨刃偈は、
 乾坤孤筇を卓つるも地なし
 喜び得たり 人空にして、法もまた空なることを
 珍重す 大元三尺の剣 電光 影裏に春風を斬る です。

 1279年、北条時宗の招きに応じて来日し、
 鎌倉で南宋出身の僧蘭渓道隆遷化後の建長寺の住持となり、
 時宗を始め、鎌倉武士の信仰を受け、円覚寺の開山になります。

 その円覚寺に、夏目漱石が参禅していました。
 漱石は、強度の神経衰弱、現在で言う「うつ」状態でした。
 そこで知人の紹介により、
 1894年(明治27年)12月から翌年の1月にかけて参禅しています。
 結果は芳しくなかったような感じですが、
 この時の見聞を様々な小説に使っています。
 「門」は、具体的な名前は出て来ませんが、円覚寺をモデルにしています。

 また、「吾輩は猫である」にも無学祖元の偈を取り上げた所があります。
 多彩な登場人物の中に、哲学者の八木独仙がいます。
 長い顔にヤギのような髭を生やし、西洋文明に対し批判的な人物です。
 猫の飼い主である、珍野苦沙弥先生は、この八木独仙に感化されてしまいますが、
 やはり先生の友人である美学者の迷亭にからかわれます。
 迷亭「君、近頃逢ったのかい」
 苦沙弥「一週間ばかり前に来て、長い間話をして行った」
 迷亭「どうりで独仙流の消極説を振りまわすと思った」
 苦沙弥「実はその時おおいに感心してしまったから、
     僕もおおいに奮発して修養をやろうと思ってるところなんだ」
 迷亭「奮発は結構だがね。あんまり人の言う事を真に受けると馬鹿を見るぜ。
    いったい君は、人の言う事をなんでもかでも正直に受けるからいけない。
    独仙も口だけは立派なものだがね、いざとなるとお互いと同じものだよ。」
 ~中略~
 迷亭「この間来た時、禅宗坊主の寝言みたような事を何か言ってったろう」
 苦沙弥「うん。『電光影裏に春風を斬る』とかいう句を教えて行ったよ」
 迷亭「その電光さ。あれが十年前からの十八番なんだからおかしいよ。
    無覚禅師(八木独仙のあだ名)の電光ときたら
    寄宿舎中誰も知らないものはないくらいだった。
    それに先生、時々せきこむと間違えて電光影裏を逆さまに
    『春風影裏に電光を斬る』と言うからおもしろい。今度ためしてみたまえ。」

 珍野苦沙弥は、漱石自身がモデルとされていますが、
 迷亭も、漱石自身が自らの洒落好きな性格を一人歩きさせたのではないかと
 漱石の妻であった鏡子が書いています。
 僕は、八木独仙についても
 西洋文明に否定的な考えもあった漱石の分身だったのではないかと思っています。
 そして、独仙の言い間違えは、
 漱石自身の言い間違えだったような気がするのですが、
 いかがでしょうか?

コメント (3)
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