昨年の11月28日に、仙台市の東照宮、所謂仙台東照宮に行って来ました。
その概要は下記をご覧下さい。
http://tennnennkozimitearu.seesaa.net/article/480176254.html
社殿などが重要文化財になっている立派な神社で、
石灯籠も重要文化財になっています。
この石灯籠について、下記のような説明がありました。
「重要文化財 石燈籠
昭和55年1月26日附指定
創建時には伊達家一族家臣により38基の石燈籠が奉献されていたが
寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した重臣の石燈籠は取り除かれ、
現在はその後奉献されたものを合わせて37基が境内に立ち並ぶ。
承応3年(1654)の刻銘があるもの31基、延宝8年(1680)の刻銘もの2基、
天和2年(1682)のもの4基あり、
文化財しての社殿とともに一体としてその価値を形成するものである。
拝殿前の二基は花崗岩、その他は当地産の石に彫刻作成して奉納されたものである。」
伊達騒動が神社の石灯籠にまで及んでいるのかと面白いと思いました。
どの石灯籠が取り除かれたのか、少し調べてみましたが、分かりませんでした。
しかし、一応の推測は出来ます。
伊達騒動は、
歌舞伎の「伽羅先代萩」や山本周五郎の「樅ノ木は残った」などで有名ですが、
有名なだけに、広まっている話が、必ずしも史実とは限らないような気もします。
伊達騒動は、仙台藩3代藩主の伊達綱宗が遊興放蕩三昧であったため、
1660年(万治3年)に、幕府により、21歳の綱宗が強制隠居させられ、
4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したところから始まります。
幕府が隠居させた理由は、綱宗の素行不良ばかりではないとの説もあります。
綱村が藩主になると、大叔父にあたる仙台藩の支藩である一関藩藩主の伊達宗勝などが、
藩の実権を掌握し権勢を振るうようになります。
「樅ノ木は残った」の主人公、原田宗輔(通称甲斐)は宗勝派です。
これに対し、伊達家一門の伊達宗重(涌谷伊達家)などが対立し、
幕府の裁定を仰ぐことになります。
寛文11年(1671年)3月27日に、
大老酒井忠清邸での審問の際、控え室で原田が宗重を斬殺し、自らも斬殺されたのが、
伊達騒動の寛文事件です。
事後処理では、藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、
大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、
裁定の宗勝派などが処罰され、宗勝の一関藩は改易となりました。
原田甲斐の4人の息子はすべて20代でしたが切腹となり、
男の孫2人は4歳と1歳でしたが斬首になっています。
伊達騒動は登場人物が多いため、人名は絞って書きましたが、
石灯籠を取り除かれた家としては、
改易された、伊達兵部少輔宗勝、斬殺された原田甲斐宗輔、
宗勝派の中心人物の一人で、事件後逼塞処分を受けた津田玄蕃景康辺りは
当然のような気がします。
仙台藩を二分するようなお家騒動でしたから、
他の関係者もいたのでしょう。
その概要は下記をご覧下さい。
http://tennnennkozimitearu.seesaa.net/article/480176254.html
社殿などが重要文化財になっている立派な神社で、
石灯籠も重要文化財になっています。
この石灯籠について、下記のような説明がありました。
「重要文化財 石燈籠
昭和55年1月26日附指定
創建時には伊達家一族家臣により38基の石燈籠が奉献されていたが
寛文事件(伊達騒動)後、事件に関係した重臣の石燈籠は取り除かれ、
現在はその後奉献されたものを合わせて37基が境内に立ち並ぶ。
承応3年(1654)の刻銘があるもの31基、延宝8年(1680)の刻銘もの2基、
天和2年(1682)のもの4基あり、
文化財しての社殿とともに一体としてその価値を形成するものである。
拝殿前の二基は花崗岩、その他は当地産の石に彫刻作成して奉納されたものである。」
伊達騒動が神社の石灯籠にまで及んでいるのかと面白いと思いました。
どの石灯籠が取り除かれたのか、少し調べてみましたが、分かりませんでした。
しかし、一応の推測は出来ます。
伊達騒動は、
歌舞伎の「伽羅先代萩」や山本周五郎の「樅ノ木は残った」などで有名ですが、
有名なだけに、広まっている話が、必ずしも史実とは限らないような気もします。
伊達騒動は、仙台藩3代藩主の伊達綱宗が遊興放蕩三昧であったため、
1660年(万治3年)に、幕府により、21歳の綱宗が強制隠居させられ、
4代藩主にわずか2歳の伊達綱村が就任したところから始まります。
幕府が隠居させた理由は、綱宗の素行不良ばかりではないとの説もあります。
綱村が藩主になると、大叔父にあたる仙台藩の支藩である一関藩藩主の伊達宗勝などが、
藩の実権を掌握し権勢を振るうようになります。
「樅ノ木は残った」の主人公、原田宗輔(通称甲斐)は宗勝派です。
これに対し、伊達家一門の伊達宗重(涌谷伊達家)などが対立し、
幕府の裁定を仰ぐことになります。
寛文11年(1671年)3月27日に、
大老酒井忠清邸での審問の際、控え室で原田が宗重を斬殺し、自らも斬殺されたのが、
伊達騒動の寛文事件です。
事後処理では、藩主綱村は幼少のためお構い無しとされ、
大老宅で刃傷沙汰を起こした原田家は元より、
裁定の宗勝派などが処罰され、宗勝の一関藩は改易となりました。
原田甲斐の4人の息子はすべて20代でしたが切腹となり、
男の孫2人は4歳と1歳でしたが斬首になっています。
伊達騒動は登場人物が多いため、人名は絞って書きましたが、
石灯籠を取り除かれた家としては、
改易された、伊達兵部少輔宗勝、斬殺された原田甲斐宗輔、
宗勝派の中心人物の一人で、事件後逼塞処分を受けた津田玄蕃景康辺りは
当然のような気がします。
仙台藩を二分するようなお家騒動でしたから、
他の関係者もいたのでしょう。