昨年の12月に盛岡市に行って来ました。
街中を歩いて、とても良い街だと思いました。
訪れた場所の1つに、
「もりおか啄木・賢二の青春館」があります。
1910年(明治43年)竣工の
旧第九十国立銀行本店本館(国の重要文化財)を
使用しています。
色々な資料が展示されていましたが、その中の1点に、
石川啄木の葬儀の新聞記事のコピーがありました。
葬儀の会葬者の顔ぶれが凄かったので、記しておきます。
石川啄本は、1912年(明治45年)4月13日、
肺結核のため26歳で死去しました。
葬儀は友人の金田一京助らの手によって
浅草の等光寺で行なわれました。
等光寺は、啄木と親交のあった土岐善麿の実家です。
啄木の葬儀の模様について報道したのは
「東京朝日新聞」だけだったようですが、
それには次のように紹介されました。
●啄木氏の葬儀
東朝社員故石川啄木氏は、
十五日午前十時東京浅草松清町なる等光寺に於て執行
途中は葬列を廃して未亡人せつ子佐藤真一土岐善麿
其他の人々柩に付添ひたり
主なる会葬者は夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、
木下杢太郎、北原白秋、山本哲、佐々木信綱博士、
その他東朝社員四十五名
土岐静師導師にて形の如く読経に次いで焼香を終はり火葬せり
この内、佐藤真一は佐藤北江で、盛岡出身の人物です。
草創期の朝日新聞の編集長で、
啄木を朝日新聞の校正係に採用した人です。
土岐善麿は歌人です。
夏目漱石は、文豪と言われる小説家ですね。
森田草平は、漱石門下の作家で、
平塚たいちょうと心中未遂事件を起こした人です。
相馬御風は詩人・歌人で、
早稲田大学の「都の西北」を作詞した人です。
人見東明は、明治生まれの詩人で、昭和女子大学の創立者です。
木下杢太郎は、医者であると共に、
詩や翻訳など多方面で活躍した人です。
北原白秋は詩人ですね。
山本哲は分かりませんでした。
佐々木信綱は、歌人であり国文学者だった人です。
街中を歩いて、とても良い街だと思いました。
訪れた場所の1つに、
「もりおか啄木・賢二の青春館」があります。
1910年(明治43年)竣工の
旧第九十国立銀行本店本館(国の重要文化財)を
使用しています。
色々な資料が展示されていましたが、その中の1点に、
石川啄木の葬儀の新聞記事のコピーがありました。
葬儀の会葬者の顔ぶれが凄かったので、記しておきます。
石川啄本は、1912年(明治45年)4月13日、
肺結核のため26歳で死去しました。
葬儀は友人の金田一京助らの手によって
浅草の等光寺で行なわれました。
等光寺は、啄木と親交のあった土岐善麿の実家です。
啄木の葬儀の模様について報道したのは
「東京朝日新聞」だけだったようですが、
それには次のように紹介されました。
●啄木氏の葬儀
東朝社員故石川啄木氏は、
十五日午前十時東京浅草松清町なる等光寺に於て執行
途中は葬列を廃して未亡人せつ子佐藤真一土岐善麿
其他の人々柩に付添ひたり
主なる会葬者は夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、
木下杢太郎、北原白秋、山本哲、佐々木信綱博士、
その他東朝社員四十五名
土岐静師導師にて形の如く読経に次いで焼香を終はり火葬せり
この内、佐藤真一は佐藤北江で、盛岡出身の人物です。
草創期の朝日新聞の編集長で、
啄木を朝日新聞の校正係に採用した人です。
土岐善麿は歌人です。
夏目漱石は、文豪と言われる小説家ですね。
森田草平は、漱石門下の作家で、
平塚たいちょうと心中未遂事件を起こした人です。
相馬御風は詩人・歌人で、
早稲田大学の「都の西北」を作詞した人です。
人見東明は、明治生まれの詩人で、昭和女子大学の創立者です。
木下杢太郎は、医者であると共に、
詩や翻訳など多方面で活躍した人です。
北原白秋は詩人ですね。
山本哲は分かりませんでした。
佐々木信綱は、歌人であり国文学者だった人です。