先日、小長谷正明さんの『ローマ教皇検死録』を読みました。
その中に「ローマの友達」との表現が出て来ました。
ローマの友達はマラリアの事です。
マラリアはいまだに制圧できていない
世界3大感染症(HIV感染症・結核・マラリア)の一つであり、
年間2億人以上の罹患者と40万人以上の死亡者があるとされています。
マラリアは熱帯・亜熱帯の感染症と考えがちですが、
かつては欧州や米国、日本にも土着のマラリアが存在しました。
マラリア(mal-aria)は「悪い空気・空間(ariaはオペラなどのアリアと同義)」で、
ラテン語圏の病名です、
色々な別名を持っていますが、「ローマ熱」とも呼ばれ、
古代のローマにも土着していました。
現在のバチカン宮殿あたりは低い沼地だったようで、
ハマダラ蚊が生息して多くのローマ人やキリスト者の命を奪いました。
しかし、ローマ人の命を奪うだけではなく、ローマを他民族からの侵略も防いで来ました。
古代ローマが崩壊した後、イタリアは今日に至るまで、大国になりませんでした。
410年、ゲルマン民族の1つ、西ゴート族がローマを攻略しました。
西ゴート族の最初の王だったアラリック1世は、3度ローマを包囲し侵略しますが、
嵐によって艦隊が破壊されたことで、北に戻る帰途、
マラリアらしい熱病を発病して病没します。
962年、それまで何度かローマに侵攻していたオットー大帝が、
ローマ皇帝となり、神聖ローマ帝国が成立します。
オットー大帝は、ローマに政治権力を打ち立てようとしますが、それが叶わず、
彼の後を継いだオットー2世は28歳の若さで、さらにその子のオットー3世は21歳で、
それぞれマラリアに罹って死去します。
1077年にカノッサの屈辱と言われる、
教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリッヒ4世の対立がありました。
1081年ハインリッヒ4世がローマに侵攻し、グレゴリウス7世を追い出しますが、
ローマを落とすことはできませんでした。
やはり、マラリアの影響で、
春までは良いのですが、夏になるとやはりローマから撤退せざるを得なくなりました。
1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、
ローマ劫掠と呼ばれる事件が起こります。
ドイツ、スペインの傭兵部隊が5月に侵攻しますが、夏は勢いをなくし、
11月には傭兵の数が激減し、最終的にローマから撤退します。
このようにマラリアがローマを守って来たとも考えられます。
マラリアをローマの友達と呼んだのは、
フランク王国のカール大帝の相談役を務めた神学者のアルクィンとの事です。
アルクィンは師のエゼルバートと共に、写本を探すためにローマを訪れていますが、
ローマでマラリアに罹患します。
ドイツに戻ってきて、時々マラリアの発作が起こります。
その時に、自分に執拗に再発をくり返す熱病へ皮肉を込めて、
「またローマの友達が来た」と言っていたとの事です。
その中に「ローマの友達」との表現が出て来ました。
ローマの友達はマラリアの事です。
マラリアはいまだに制圧できていない
世界3大感染症(HIV感染症・結核・マラリア)の一つであり、
年間2億人以上の罹患者と40万人以上の死亡者があるとされています。
マラリアは熱帯・亜熱帯の感染症と考えがちですが、
かつては欧州や米国、日本にも土着のマラリアが存在しました。
マラリア(mal-aria)は「悪い空気・空間(ariaはオペラなどのアリアと同義)」で、
ラテン語圏の病名です、
色々な別名を持っていますが、「ローマ熱」とも呼ばれ、
古代のローマにも土着していました。
現在のバチカン宮殿あたりは低い沼地だったようで、
ハマダラ蚊が生息して多くのローマ人やキリスト者の命を奪いました。
しかし、ローマ人の命を奪うだけではなく、ローマを他民族からの侵略も防いで来ました。
古代ローマが崩壊した後、イタリアは今日に至るまで、大国になりませんでした。
410年、ゲルマン民族の1つ、西ゴート族がローマを攻略しました。
西ゴート族の最初の王だったアラリック1世は、3度ローマを包囲し侵略しますが、
嵐によって艦隊が破壊されたことで、北に戻る帰途、
マラリアらしい熱病を発病して病没します。
962年、それまで何度かローマに侵攻していたオットー大帝が、
ローマ皇帝となり、神聖ローマ帝国が成立します。
オットー大帝は、ローマに政治権力を打ち立てようとしますが、それが叶わず、
彼の後を継いだオットー2世は28歳の若さで、さらにその子のオットー3世は21歳で、
それぞれマラリアに罹って死去します。
1077年にカノッサの屈辱と言われる、
教皇グレゴリウス7世と皇帝ハインリッヒ4世の対立がありました。
1081年ハインリッヒ4世がローマに侵攻し、グレゴリウス7世を追い出しますが、
ローマを落とすことはできませんでした。
やはり、マラリアの影響で、
春までは良いのですが、夏になるとやはりローマから撤退せざるを得なくなりました。
1527年5月、神聖ローマ皇帝兼スペイン王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻し、
ローマ劫掠と呼ばれる事件が起こります。
ドイツ、スペインの傭兵部隊が5月に侵攻しますが、夏は勢いをなくし、
11月には傭兵の数が激減し、最終的にローマから撤退します。
このようにマラリアがローマを守って来たとも考えられます。
マラリアをローマの友達と呼んだのは、
フランク王国のカール大帝の相談役を務めた神学者のアルクィンとの事です。
アルクィンは師のエゼルバートと共に、写本を探すためにローマを訪れていますが、
ローマでマラリアに罹患します。
ドイツに戻ってきて、時々マラリアの発作が起こります。
その時に、自分に執拗に再発をくり返す熱病へ皮肉を込めて、
「またローマの友達が来た」と言っていたとの事です。