天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

天皇は土の上を歩かない

2018-12-15 | Weblog
 宮本常一の「旅人たちの歴史」シリーズの第一冊「野田泉光院」を読むと、
 色々な面白い話が出て来るのですが、
 その中に、江戸時代、天皇は土の上を歩かなかったとの話が出て来ます。

 毎年、朝廷から日光東照宮に例幣使が派遣されます。
 例幣使については、悪評が多くて、例えば強請りの語源などについて、既に書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/fb0cf9eaf08756831f93a174a1e35c03

 その例幣使が通る例幣使街道の芝に本陣があって、
 その玄関が異様に広いのは、例幣使の場合、座敷から輿に乗るためだったからであり、
 輿を担ぐ人は、新しい草鞋を履いて降りて行くとの事でした。
 大名の場合は、玄関の前に駕籠をつけて、そこまで歩いて駕籠に乗るので、
 例幣使の場合と異なり、普通の玄関で良かった訳です。
 何故違っていたかと言うと、それは天皇が土の上を歩かなかったからと説明しています。
 天皇の名代である例幣使は、三位以上の公卿が任じられるのですが、
 四位以下でも例幣使である期間は三位以上の待遇を受けます。
 天皇と同じように土の上を歩かなかったため、
 そのような本陣の構造になったとの事です。

 寺院とか神社などで、おき石と呼ばれる石が敷いてありますが、
 それは土の上を歩かないためで、
 三位以上はその石の上を歩き、四位以下は脇の土の上を歩くとの事です。
 江戸時代の天皇で、土の上を歩いたのは孝明天皇だけだと語っています。

 宮本が語った芝がどこなのか分かりません。
 例幣使は、中山道を進んで来て、倉賀野宿で中山道と分岐し、
 太田宿、栃木宿を経て、楡木宿で、壬生通り(日光西街道)と合流して、日光に至ります。
 この例幣使街道には、柴と名がつく宿場が現在の伊勢崎市にありました。
 宮本の著作は、講演した内容を文章に起こしたものなので、
 あるいは、文章を書いた人が字を間違えたのかも知れません。

 この柴に、近世の武家住宅に店舗的要素を加えた
 一種独特の機能を有する建物があったとの事です。
 1971年(昭和46年)に主屋が、翌年長屋が解体されたとありますので、
 宮本が見た本陣が、この建物だったのかどうか分かりませんが、
 可能性はあるような気がします。

 天皇が土の上を歩かなかった事が事実なのかどうか、色々とネットで検索しましたが、
 中々そのような事を書いてあるのに行き当たりませんでした。
 1つだけ、「天皇家の装束と神職の装束」と題する講演を
 元宮内庁書陵部職員で國學院大学非常勤講師の鈴木眞弓さんが行った報告の中に、
 「江戸時代には陛下は土を踏まないとされております。」との記述を見付けました。
 これは何の説明もなく、サラっと書いてあるだけなので、経緯等は分かりません。

 どうして天皇は土を踏まないとされたのか、
 それはいつ頃を起源とするものなのか、
 もう少し調べたいと思いますが、
 ご存知の方がいたら教えて下さると助かります。

コメント (2)
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