天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

日本最初の女流写真家

2023-06-23 | Weblog
 先日、栃木市立美術館の開館記念展「明日につなぐ物語」に行きました。
 田中一村の絵画を観るのが一番の目的でしたが、
 そこで、栃木市出身の幕末から明治にかけての画家であり写真家の
 島霞谷(しま かこく)を知りました。
 霞谷は、1827年(文政10年)に生まれ、椿椿山に絵を習った後、
 1856年(安政3年)蕃書調所が設立されると、そこで翻訳に従事しました。
 このころ外国人から写真術を修得し、江戸下谷で写真館を開業しました。
 出展されていた絵画は、写真をやっていたからなのでしょうか?
 極めてリアルな絵でした。
 霞谷は、1870年(明治3年)、44歳で熱病により死去してしまいます。

 霞谷は、隆(りゅう)と言う女性と結婚しました。
 隆は、1823年(文政6年)に桐生市で生まれ、
 18歳の頃、一橋家の祐筆になるため江戸に上ります。
 そこで通訳などの仕事で同家に出入りしていた島霞谷と結婚しています。
 霞谷から写真術を学び、女流写真師として営業していましたが、
 霞谷と死別した後は桐生で開業します。
 このとき、霞谷の遺品など全てを持ち帰ったとの事です。
 上記の展覧会には、隆の写真も出ていました。
 やせ型の意思の強そうな人のように見えました。
 隆は、1899年(明治32年)に死亡しました。

 1988年(昭和63年)に子孫宅の土蔵から、
 隆が持ち帰った霞谷の膨大な遺品の数々がそのままの状態で発見され、
 霞谷夫妻の全貌が明らかになっただけでなく、
 江戸幕末期の状況を多角的に考察できる
 第一級の史料を今日に提供することになったとの事です。

 女性の写真家養成については、
 やはり幕末から明治にかけての写真家である鈴木真一が、
 1902年(明治35年)に、牛込西五軒町に女子写真伝習所を設立していて、
 明治期において、女性に写真術を教える唯一の教育機関であったとの事です。
 そうした事からすると、島隆の先駆性は、特筆すべき事のような気がします。

 霞谷も1869年(明治2年)大学東校の書記官となり、
 そこで教科書を印刷するために独自の鉛鋳造活字を完成させるなど、
 才能豊かな人だったようです。
 霞谷についても、また調べてみたいと思います。

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板倉勝静の脱出

2023-06-05 | Weblog
 先日、岡山県の高梁市に行って来ました。
 現在も備中松山城が残る城下町です。
 幕末、備中松山藩の藩主だったのが板倉勝静(かつきよ)です。
 第6代備中松山藩主板倉勝職(かつつね)に子がなかったため、
 桑名藩松平家より、松平定信の孫を養子に迎えますがそれが勝静です。
 松平定信は、第8代将軍徳川吉宗の孫ですから、
 勝静は吉宗の玄孫になります。
 この事が、勝静が最後まで幕府軍と行動を共にする理由のような気がします。

 勝静が藩主となった頃、備中松山藩は巨額の財政赤字に苦しんでいました。
 それを、山田方谷を登用する事により借金を解消しただけでなく、
 軍備の洋式化を進め、農民を兵士とするなど軍備の改革も行います。
 こうした事が評価されたのでしょう、勝静は寺社奉行に登用され、
 一時井伊直弼と対立して罷免されますが、直弼の死後復帰し、老中に昇格します。
 1868年(慶応4年・明治元年)、戊辰戦争が開始されます。
 鳥羽伏見の戦で、幕府軍が敗退すると、
 徳川慶喜は大阪湾に停泊中の幕府の軍艦に、
 勝静や会津藩主松平容保等をしたがえて乗り込み、海路江戸へ遁走します。

 朝敵となった備中松山藩征討が岡山藩をはじめ中国地方の諸藩に命じられます。
 勝静との音信が絶え、藩主不在の備中松山藩を征討軍が取り囲みます。
 山田方谷は降伏を決め、無血開城しました。

 一方江戸では、慶喜が朝敵とされたことから、勝静は1月29日に老中職を辞し、
 2月19日に逼塞処分を受け、3月には下野日光山に屏居となります。
 さらに新政府によって宇都宮藩に移され、英巌寺の庫裏に軟禁されます。
 英巌寺は、宇都宮藩主の戸田氏の菩提寺です。
 1868年5月11日、(慶応4年4月19日)、
 土方歳三等が指揮した旧幕府軍の前軍は宇都宮城下の南東から攻め入り、
 宇都宮城を落城させます。
 新政府軍に就いていた宇都宮藩は城に放火して退却しますが、
 この戦いの際、旧幕府軍は英巌寺に放火し堂宇はほとんど焼失しました。
 庫裏に幽閉されていた勝静と息子の勝全は旧幕府軍によって救出され、
 勝静はその後旧幕府軍と行動を共にし、箱館まで行きます。

 備中松山藩では、山田方谷が勝静を隠居させた事にし、
 第5代藩主の弟の子である板倉勝弼を新藩主に迎えていました。
 しかし、旧藩主が旧幕府軍にいる事が分かり新政府は態度を硬化させます。
 このため、方谷は、1万ドルという大金を積んで、
 板倉勝静と旧知の仲だった横浜在留プロシア商船長のウェーフに
 勝静連れ戻しを依頼します。
 ウェーフは、箱館に行き、陣中見舞いと称して勝静を船中に招待し、
 乗船後そのまま軟禁して江戸に向かいます。
 江戸に着いた勝静は一連の事実を知って、新政府に自首します。
 勝静父子は、支藩である安中藩に、終身禁固の御預けの身となりますが、
 その後赦免されて、上野東照宮の祠官となり、
 方谷の弟子たちの協力を得て第八十六国立銀行(現在の中国銀行)の
 設立を行ったりして、1889年(明治22年)、67歳で没しています。

 山田方谷は、岩倉具視から、会計局(大蔵省)へ出仕を依頼され、
 大久保利通や木戸孝充などからも乞われますが固辞して
 残りの生涯を、地元の若い人への教育に捧げます。
 1875年(明治8年)春、備中高梁を訪れた勝静は、
 方谷と会い、永年の感謝を述べ謝罪します。
 勝静は城下から三里離れた方谷の旧屋敷の一軒家を訪れ、
 三泊四日を過ごし語り明かしたとの事です。
 良い話だと思っています。

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