天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

アーメンソーメン

2022-12-26 | Weblog
 「アーメンソーメン」を聞いたり使ったりした人は多いかと思います。
 「アーメンソーメン冷ソーメン」と続くのを僕は小さい頃に聞いて使いました。
 この「冷ソーメン」は地域によって異なるようで、
 「味噌ラーメン」だったり「チャーシューメン」など、
 色々なヴァリエーションがあるようです。
 ネットで調べていると、
 阪田寛夫の詩集「わたしの動物園」の中の詩
 「ああめんそうめん」が語源としているものが幾つか見つかりました。
 阪田寛夫は、1925年10月18日に生まれた
 大阪市出身の詩人、小説家、児童文学作家です。
 童謡の「さっちゃん」や「おなかのへる歌」などを作詞したことで知られています。
 「わたしの動物園」が牧羊社から出版されたのが1965年ですから、
 これ以降全国的に広がったのかも知れません。
 ちなみに、この詩は下記の通りです。

 ああめんそうめん
 ひやそうめん
 夕日にそめた
 ひやそうめん
 ぶりきたたいて
 かんからかん
 とうさんいびょうで
 死んじゃった
 ああめん そうめん
 ひやそうめん
 夕日にまっかなひやそうめん

 阪田は、幼い頃に讃美歌の言葉をおもちゃにして、
 いたずら盛りの子どもらしい歌を作っていたようですから、
 そのような幼児体験がもとになっているのかも知れませんし、
 そうだとすると「アーメンソーメン冷ソーメン」は出版以前からあったのかも知れません。

 色々調べていたら、北海道の酪農学園付属ときわの森三愛高等学校の
 2020年6月21日の日曜メッセージに、
 日本キリスト教団野幌教会牧師の福島義人さんと言う方が書かれた
 文章に行き着きました。
 「アーメンソーメン」の由来は、
 フランス人宣教師で、江戸時代末期に来日した
 マルク・マリー・ド・ロ神父(1840年3月26日~1914年11月7日)に
 あるとするものです。
 ド・ロ神父は28歳で来日しました。
 印刷技術、建築、様々な分野に長けた人で、
 禁教令が解かれる中、長崎で貧困者や海難事故で未亡人となった女性に対し、
 授産事業を行います。
 その中の1つに、日本初のマカロニ(パスタ)製造工場でもある
 「そうめん工場」を造った事があります。
 これにより、多くの人が助けられ、人々は神父に敬意をもって
 「アーメン・ソーメン」と言ったのが始まりとの事です。
 長崎では、今も神父の名を付けた「ド・ロ様ソーメン」が売られています。
 この「アーメン・ソーメン」に言葉遊びとして、韻を踏む「メン」のつく言葉が加えられて
 子どもたちが遊んだのが起源なのかも知れません。

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義経と頼朝

2022-12-13 | Weblog
 元暦2年3月24日(1185年4月25日)、壇ノ浦の戦いで平家が滅亡します。
 同年4月24日に源義経は京都に凱旋し、
 4月26日平宗盛など平氏の捕虜が、京都の義経の邸に入ります。
 5月7日、義経は平宗盛・清宗父子を連れて都を出発、鎌倉に向かいます。
 5月15日、義経一行は、相模国酒勾に到着し、
 源頼朝は、北条時政を遣わし宗盛らを迎え取り、義経の鎌倉入りを禁じます。
 5月24日、義経は、満福寺で心情を綴った腰越状を書きます。
 この手紙は公文所別当大江広元宛てに書かれ、
 頼朝へ取り次いでもらったとされていますが、
 結局義経は鎌倉入りを許されず京都へ引き返すこととなったと言うのが、
 いわば日本史の常識であると考えていました。

 最近読んだ近藤成一さんの「鎌倉幕府と朝廷」では、
 腰越状は、後世の創作であるとして、
 義経は鎌倉に入っているのが史実であると述べていました。
 腰越状については、様式や文言など、当時の普通の披露文などとは異なっていて、
 少なくても義経が書いた原文ではないとされています。
 しかし功を誇り頼朝の仕打ちを嘆き、肉親の情に訴えるさまは
 史料である『玉葉』などに残された義経の発言と一致するものがあり、
 当時の切々たる義経の心情をよく表したものとも言われています。
 また頼朝の親族への冷酷さを強調する『吾妻鏡』の幕府編纂者による
 捏造の可能性も指摘されているとの事です。

 8月16日の除目で、頼朝が知行する6か国の受領に源氏の諸将が任じられますが、
 頼朝は義経を伊予守に推薦しています。
 義経が、他の諸将と同程度の扱いに不満があったかどうかは分かりませんが。

 10月に入り頼朝・義経の叔父にあたる源行家が頼朝と離反する動きを示し、
 義経は初めこれを制止しようとしますが、
 これが叶わないと、行家に同心するようになります。
 この辺から、義経が頼朝と対立する事になったようです。
 
 少し時間を戻すと、6月9日、頼朝の命により、義経は宗盛たちを京都に護送し、
 6月21日、義経は近江の篠原で宗盛を処刑しています。
 かねてから、対立する義経に何故捕虜の護送などを任せたのか不思議でしたが、
 義経と頼朝の対立が10月以降とすると、すっきりと説明出来るような気がします。

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