天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ルイ14世とスイス傭兵

2019-04-27 | Weblog
 ルイ14世は、ブルボン朝の第3代のフランス王国国王で、
 王朝の最盛期を築き、太陽王と呼ばれました。
 中央集権と重商主義政策を推進し、王権神授説を掲げて絶対君主制を確立しました。
 1643年5月14日、僅か4歳で即位し、1715年9月1日に死去するまで在位し、
 在位期間は72年に及びますが、
 中世以後の国家元首として最長の在位期間を持つ人物として
 ギネス世界記録にも認定されています。

 実際にルイ14世が親政を行ったのは54年間ですが、
 その内34年間は戦争を行っていたと言われています。
 ルイ14世は、軍制の改革を行い国王直属の士官の人数を増やして、
 連隊長だった貴族を牽制し、国王民兵制による貴族を経由しない軍事力の獲得で、
 フランス軍の質量両面の増強を成し遂げ、
 30万人の近代化された常備軍を擁する事になりました。
 しかし、軍隊の総てがフランス人であった訳ではなく、その半数は外国人の傭兵であり、
 特にスイス傭兵が重要な役割を担っていました。

 スイス傭兵は、15世紀からヨーロッパ各国の様々な戦争に参加していました。
 国土の大半が山地で農作物があまりとれずめぼしい産業が無かったスイスでは、
 州政府単位で雇用主と契約にあたることに特徴があり、
 傭兵稼業は重要な産業となっていました。

 ルイ14世は、特にスイス傭兵を信頼していましたが、
 それは、王が子どもの頃池に落ち、危うく溺れそうになったのを、
 スイス人の護衛兵に助けられたからとの話があります。

 ルイ14世が信頼を寄せていた事から、ブルボン家とスイス傭兵の結び付きは強く、
 1792年のフランス革命の際にも、テュイルリー宮殿に殺到する民衆に対して、
 王家の防衛に当たり、最後の一兵まで退かなかったと言われています。
 スイスのルツェルンには、ルイ16世とその家族を守って死んでいった
 スイス傭兵達の悲劇をテーマに扱ったライオン記念碑が今も残されています。

 以上、最近読んだ菊池良生さんの「傭兵二千年史」を参考にしながら、調べてみました。
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運命の2銭銅貨

2019-04-11 | Weblog
 1908年(明治41年)6月22日に、
 赤旗事件と呼ばれる社会主義者弾圧事件が起こります。
 東京神田の映画館「錦輝館」に社会主義者数十名が集り、
 封建的家族制度を痛烈に批判する論考「父母を蹴れ」を平民新聞に寄稿したため、
 新聞紙条例違反の罪に問われ、1年2か月ほど服役していた山口孤剣の
 出獄歓迎会が開催されました。
 歓迎会の散会間際に、荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎らが、
 突如赤地に白の文字で「無政府共産」「社会革命」などと書かれた旗を翻し、
 革命歌を歌い始め、「無政府主義万歳」などと絶叫しながら錦輝館を飛び出しました。
 このため、歓迎会開催に当たり現場で待機していた警官隊ともみ合いになり、
 荒畑寒村、宇都宮卓爾、大杉栄、村木源次郎、佐藤悟、徳永保之助、森岡栄治、百瀬晋、
 大須賀里子、管野スガ、小暮礼子、神川松子が検挙され、
 またこれを止めに入った堺利彦と山川均も同じく逮捕されました。
 裁判の結果、無罪となった神川と管野、執行猶予の付いた徳永と小暮は釈放されますが、
 大杉には重禁錮2年6ヶ月、堺、山川、森岡には重禁錮2年、
 荒畑、宇都宮には重禁錮1年6ヶ月が科せられました。

 しかし、何が幸いするか分からないのが、人生です。
 第2次桂太郎内閣による社会主義者の取締り強化の中で、
 1910年に大逆事件(幸徳事件)が起こります。
 幸徳秋水、宮下太吉、管野スガ、新村忠雄、古河力作の5名が、
 明治天皇の暗殺を計画したとして逮捕され、
 さらに、共同謀議の名目で、全国の社会主義者や無政府主義者が逮捕・起訴され、
 死刑や禁固刑になった事件です。
 幸徳秋水の他、管野スガ、森近運平、宮下太吉、新村忠雄、古河力作、奥宮健之、
 大石誠之助、成石平四郎、松尾卯一太、新美卯一郎、内山愚童の12人が刑死しています。
 赤旗事件で投獄されていた者は社会主義運動の中心人物でしたが、服役中だったため、
 社会主義者の絶滅を狙った桂内閣も大逆事件の共同謀議に加える事が出来ず、
 処刑から逃れています。
 管野スガは、無罪放免となっていたため、大逆事件で処刑されてしまいました。

 山川均の自伝に、「運命の2銭銅貨」と題する一文があり、
 赤旗事件に巻き込まれた経緯を述べていると、
 淮陰生の「1月1話」に載っていました。
 これによると、山川は赤旗事件の会場となった錦輝館に行く前に、
 大隈重信の演説会があるのを知り、錦輝館の方は中座して行こうとしますが、
 ガマ口に2銭銅貨きりなくて、大隈の演説会の入場料20銭が支払えず、
 錦輝館に残ったとの事です。
 「もしあの2銭銅貨が20銭銀貨だったら、私は赤旗事件に引っかからないですんだ。
  そのかわり、明治43年の大逆事件に連座しなかったろうという保証は少しもない。」
 と書いてあるとの事です。
 
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