天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

高尾太夫・・・

2010-01-25 | Weblog
 江戸時代の吉原の太夫で、高尾太夫がいます。
 吉原の太夫と言うのは、
 有り体に言えば高級売春婦なのですが、
 とてもそのようには言えない権威を持っていました。
 幼い頃から、歌舞音曲はもちろん古典、歴史など、
 ある意味で実生活には縁のない教養を
 身につけるように純粋培養されていましたので、
 その当時の社会では一番の知性と美貌を備えた最高の女性でした。
 そのような女性は、主として大名や豪商の相手をし、
 1両あれば庶民ならば1年過ごせると言う時代に、
 1晩一緒に過ごすのに30両近くの費用が必要でした。
 しかも、太夫から振られる人もいたのですが、
 その事で苦情を言おうものなら、野暮の極みとして、
 江戸中の笑いものにされたので、
 例え振られても黙って引き下がざるを得ませんでした。

 そうした権威を持っていた高尾太夫ですが、
 名跡として名を継がれ、10人を超える高尾太夫がいたようです。
 いずれの太夫も、吉原の大籬三浦屋のお抱えでした。
 吉原の太夫と言うのは、今のアイドルなどよりも人気があり、
 紺屋高尾など数々の伝説を生み出し、
 落語などで語り継がれて来ました。

 仙台高尾もその一人で、
 仙台藩主伊達綱宗に身請けされたのですが、
 彼に靡かなかったため、
 屋形船に連れ出されて惨殺されると言う落語があります。
 この綱宗は、伊達政宗の孫に当たりますが、
 豊かな仙台藩の財政の中で放蕩三昧の生活を送り、
 幕府から目に余るとして、21歳の時に隠居させられます。
 このことが、歌舞伎の「伽羅仙台萩」や
 山本周五郎さんの「樅の木は残った」の題材となった
 伊達騒動に繋がって行きます。
 高尾太夫が綱宗に贈ったとされる句が残されています。

 君はいま 駒形あたり ほととぎす

 しかしながら、この句は、
 他に山形の尾花沢の紅花商人鈴木清風に
 贈ったとの話もあるようで、
 あるいは、良い客へのプレゼントだったのかも知れません。
 綱宗に惨殺されたはずの高尾太夫ですが、
 身請けされて仙台に行って一生を終えたと言う話もあります。
 いずれにしても、台東区東浅草の春慶院と言うお寺には、
 高尾太夫の墓があり、
 仙台藩からの内命により建てられたとの事です。
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時山直八

2010-01-14 | Weblog
 栃木県矢板市に山縣有朋別邸があります。
 この別邸は、明治時代の建築学の大家、伊東忠太の設計によるもので、
 元々は小田原市にあったものですが、関東大震災の時に倒壊し、
 山縣家の農場のあった矢板市に移築されたものです。
 現在は、記念館として公開されています。

 記念館の中には、山縣有朋関係の資料が展示されています。
 その中には、高杉晋作が愛用した徳利などもありましたが、
 それと並んで、時山直八の遺品の杯も展示されていて、
 山縣と時山の関係の深さを知る事ができます。

 時山直八は、1838年(天保9年)
 萩藩士時山茂作の長男として生まれました。
 吉田松陰の松下村塾に学び、更に江戸に出て、
 安井息軒にも師事しています。
 その後、久坂玄瑞と国事に奔走し、
 長州藩が攘夷の実行を決めると帰国して、
 奇兵隊に監軍として参加します。
 更に、馬関戦争、禁門の変、第二次長州征伐と
 長州藩の戦闘にはいずれも参加し、
 その勇敢な行動が評価されたようです。

 戊辰戦争の際には、
 北陸道鎮撫総督参謀の山縣らとともに越後へ向かい、
 越後長岡の河井継之介率いる長岡藩と
 北越戦争と呼ばれる激戦を繰り広げます。
 そして、立見鑑三郎率いる桑名藩雷神隊との
 要衝朝日山を巡る戦闘の際、顔面を銃撃され、
 戦死してしまいます。享年31歳でした。
 時山の死は、長州藩の出身者の間に波紋を起こし、
 山縣は品川弥次郎から
 「時山を殺したのはお前だ」と批難されたようです。
 山縣、時山らが越後に出発する直前、
 京都で撮影したと言われる写真が残っています。

 http://www.city.hagi.lg.jp/hagihaku/hikidashi/jinbutu/hito/16-20/02001tokiyama.htm
 このアドレスから、ご覧になれます。
 なお、写真の説明は左右が逆になっていて、
 向かって左から二人目のザンギリ頭で立っている洋装の人物が時山です。

 山縣は、時山の死後、
 あだまもる 砦のかがり 影ふけて 夏も身にしむ 越の山風
 との歌を詠んでいます。

 また、10数年後、時山の墓に参った山縣は、時山の死を悼む詩も作っています。
 江声岳色総相知 (江声 岳色 すべてあい知る)
 路入越州思舊時 (路 越州に入り 旧時を思う)
 泉下英雄覓無処 (泉下の英雄 求めるところなし)
 蕭々故塁雨如絲 (蕭々として 故塁に雨 糸のごとし)
コメント (2)
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小倉百人一首

2010-01-01 | Weblog
 小倉百人一首を選んだのが、藤原定家であることは、
 中学校の歴史にも出て来る事だと思います。
 その選んだ経緯に、宇都宮市ゆかりの人物が関係していました。
 その人物の名は、宇都宮頼綱です。

 宇都宮氏は、元々は藤原北家からの一族で、藤原道兼の曾孫藤原宗円が、
 前9年の役の功により下野守護職と宇都宮別当職に任じられたました。
 その孫の朝綱の代から、宇都宮氏を名乗ったようです。
 そして、頼綱は朝綱の孫に当たる人で、1172年(承安2年)に生まれました。
 1189年の奥州藤原氏の征討で功績を上げますが、
 朝綱の公田横領事件に連座して、一時土佐国に流されます。
 その後、許されて、執権北条時政の娘を娶ります。
 しかし、鎌倉幕府内の畠山重忠の事件への関与を疑われ、
 実信房蓮生と号して出家して嫌疑から逃れます。
 出家した後、法然上人の弟子となり、
 更に和歌に秀でていたため、藤原定家とも親交を結びます。
 定家の息子為家に蓮生の娘を娶せていますので、姻戚関係にもなります。

 蓮生は京都の嵯峨野の二尊院近くの小倉山に山荘を造り、
 そちらに多く住んでいたようです。
 この山荘の障子に貼る歌の色紙を選ぶよう、蓮生が定家に頼んだのが、
 小倉百人一首として今に残る事になったのです。
 定家は「百人秀歌」という草稿を作って、蓮生に送ったことが、
 定家の記した「明月記」に残っています。

 定家は「新古今和歌集」の撰者でしたが、
 これを命じた後鳥羽上皇と不仲になり、
 必ずしも思ったような歌集にすることができなかったと言われています。
 この『百人秀歌』については、
 親戚の頼みですから、気楽に選んだのだと思います。
 百人一首の中には、43首の恋の歌が入っていて、
 定家の嗜好を知る事ができます。
 この『百人秀歌』は戦後発見されましたが、
 この歌がほぼ現在の百人一首とおなじ(97首が一致)しているので、
 間違いないと言われています。
 その当時、京都と鎌倉の歌壇に加えて宇都宮歌壇が有力でした。
 この基礎を築いたのが、蓮生であった訳であり、
 孫の景綱の代までの100年に渡って栄えました。
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