天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

トマス・ペイン

2024-03-28 | Weblog
 トマス・ペインは、1737年1月29日に生まれたイギリス人です。
 アメリカに渡り、政治活動家、政治理論家、革命思想家として活躍しました。
 13歳から家業のコルセット作りの職人としての修行をしますが、
 16歳の頃に船乗りになるため家出をし、
 その後船員・コルセット製造・収税吏・教師と職を転々とします。
 1772年に収税吏の賃金の実情についてパンフレットを執筆し、
 文人のオリヴァー・ゴールドスミスと知り合います。
 1774年6月にロンドンでベンジャミン・フランクリンに紹介され、
 アメリカに移住し、月刊誌『ペンシルベニア・マガジン』の編集主任となります。
 1776年1月、フィラデルフィアで政治パンフレット『コモン・センス』を出版します。
 民主的平和論を説き植民地の権利を守らないイギリスの支配から脱し、
 アメリカが独立するという考えは「Common sense」(常識)であると説きました。
 これが人気を博し、15万部売れたと言われています。

 独立宣言発布直後にペンシルベニア連隊に入隊し、
 ワシントンに紹介されて2年間その下で働き、
 『危機』(Crisis)と呼ばれる一連の小冊子や論文記事を出版し続けました。
 1780年3月にペンシルベニア州議会が可決した奴隷廃止法案の前文を書き、
 1784年には、独立に対する貢献により、
 ニューヨーク州よりニューロッシェルの農園を贈られています。
 その後1787年にフランスに渡り、
 更にイギリスに戻って、1791年と翌年にかけて
 『人間の権利』を出版し、1793年までイギリスで200万部売れたとされています。
 『人間の権利』第2部で土地貴族を攻撃し
 世襲君主制への敵意を表明したためイギリス政府に追放されたため、
 フランスに戻り、1791年10月にはフランスの市民権を与えられ
 国民公会によって新憲法の草案作成委員会に加えられます。
 憲法草案の前文をペインとコンドルセが書いたといわれています。
 1793年1月15日に国民公会でルイ16世の処刑に反対する演説を行います。
 12月28日にジロンド党との共謀と敵性外国人という嫌疑により逮捕され、
 駐フランス公使ジェームズ・モンローの助力により翌年11月4日に釈放されます。
 12月8日に再び国民公会に迎えられ、
 翌年1月3日にフランス公教育委員会により顕彰されています。
 1802年に再びアメリカに渡り、ジョン・アダムズをはじめとする連邦党と対立し、
 奴隷反対を説いたため、アメリカではほとんどの友人を失い、
 1809年6月8日、不遇のうちにニューヨークで没します。

 彼の遺体は無神論者との噂がたたって教会での埋葬を拒まれて、
 ロングアイランドの共同墓地に埋められました。
 1819年、イギリスのジャーナリストで愛国者のウィリアム・コベットが
 故国に改葬しようとして強引にペインの遺骨を持ち帰ります。
 ところが、イギリスでも埋葬が許されず、
 コベットの生きている間はその家に置かれたままでしたが、
 彼の死とともに行方知らずとなったとの事です。

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最初の征夷大将軍

2024-03-12 | Weblog
 最初の征夷大将軍は、坂上田村麻呂だと思っていましたが、
 最近、そうではなく、大伴弟麻呂であった事を知りました。
 その辺の事情をまとめてみました。

 征夷大将軍は、「征夷(=蝦夷を征討する)大将軍」を指す、
 朝廷の令外官の一つです。
 唐名は大樹、柳営、幕府、幕下です。

 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、
 鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍などさまざまにありました。
 また「大将軍」については、下毛野古麻呂、大伴安麻呂、大伴旅人などが
 蝦夷征討以外の目的で任じられました。
 東国や奥州を征伐する将軍としては、
 太平洋側を進軍する征夷将軍(征東将軍)と
 日本海側を進軍する鎮狄将軍(征狄将軍)があり、
 陸奥国に置かれた軍政府である鎮守府の長官として鎮守府将軍がありました。

 征夷将軍(大将軍)は、「夷」征討に際し任命された将軍(大将軍)の一つです。
 「東夷」に対する将軍としては、
 709年(和銅2年)に陸奥鎮東将軍に任じられた巨勢麻呂が最初です。
 720年(養老4年)には、多治比縣守が持節征夷将軍に任じられ、
 同日、「北狄」に対する持節鎮狄将軍に阿倍駿河が任じられました。
 737年(天平9年)に、藤原麻呂が持節大使に任じられますが、
 「大使」はまた別に「将軍」とも呼ばれていました。

 「征東将軍」の初見は、784年(延暦3年)に任命された大伴家持であり、
 「征東大将軍」の初見は、788年(延暦7年)に任命された紀古佐美です。
 延暦10年(791年)7月13日に、大伴弟麻呂が征夷大使に叙任されます。
 延暦11年(791年)11月に一旦征夷大使の辞表を提出しますが、認められません。
 延暦13年(794年)正月に
 弟麻呂は征夷大将軍として節刀を賜与されたとの記述が、
 『日本紀略』に、「征夷将軍の大伴弟麻呂に節刀を賜うた」とあり、
 「征夷将軍(征夷大将軍)」の初見とされています。
 同年6月には副将軍の坂上田村麻呂が蝦夷征討で大きな戦果を挙げます。
 延暦14年(795年)正月に節刀を返上し、
 その後、蝦夷征討の任務は
 延暦16年(797年)に征夷大将軍となった坂上田村麻呂に代わります。
 田村麻呂は胆沢の蝦夷のアテルイを撃破し、
 捕虜として京へ送るなどの活躍をします。

 しかし、その後の征夷の将軍は、次の文室綿麻呂は征夷将軍に任ぜられ、
 征夷大将軍への補任の例は途絶えました。

 源頼朝は平氏政権や奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始し、
 朝廷へ「大将軍」の称号を望み、朝廷は征夷大将軍を吉例として任じました。
 以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である
 征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が、
 一時的な空白を挟みながら続いた訳です。
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