先日起きたトルコシリア地震は、まだ被害の全容がつかめていませんが、
改めて自然の力の凄まじさを見せられた思いがします。
日本列島は、地球の地殻を構成する大きな4つのプレート上に乗っています。
このプレートは、じわじわと巨大な力で動いていて、押し合いへし合いしています。
そのひずみが活断層を動かし、内陸型の地震が起こしますし、
プレート同士の接触地点では一定の周期で、海溝型の巨大地震を引き起こします。
有史以前の地震については、その堆積物の調査によって、
発生の年代や規模などが推定されています。
『日本書紀』の
允恭天皇5年7月14日(416年8月22日・グレゴリウス暦8月23日)の条項に、
「地震(なゐふる)」の記述が登場します。
いわゆる允恭地震と呼ばれています。
日本書紀の記述を訳すと、
允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていましたが、
地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ、
玉田宿禰だけがいませんでした。
玉田宿禰はこの時酒宴を開いていて、
尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れました。
允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため
捕えて殺したと記載されています。
この地震の記事は政治的事件の発端として記されていて、
地震そのものの状況や被害の様子は記されていません。
これが、記録に残る日本史上最初の地震です。
同じく『日本書紀』の推古天皇7年4月27日
(599年5月26日・グレゴリオ暦5月28日)の条項に
初めて被害が出た地震の記述が登場します。
推古地震と呼ばれ、現在の奈良県での地震だったようです。
地震が発生し建造物が悉く倒壊し、四方に命じて地震の神を祭らせたとあります。
天武天皇7年12月中(679年)に、筑紫国を中心に大地震が発生しました。
筑紫地震と呼ばれていますが、地震の発生日は不明です。
巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し、
村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、
その上にあった家は移動したが破壊されることなく
家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたとの事です。
天武13年10月14日(684年11月26日ユリウス暦11月29日)
白鳳地震と呼ばれる巨大地震が起こります。
山崩れ、河涌くとする液状化現象を思わせる記録があり、
諸国の郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊しました。
伊予湯泉(道後温泉)や紀伊の牟婁温泉(南紀白浜温泉)が埋もれて湧出が止まり、
土佐では田畑50余万頃(約12㎢)が海中に没しました。
加えて津波が襲来し、土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失しました。
有史以来、確かな記録の残る南海トラフ巨大地震と推定されていて、
日本最古の津波記録です。
『日本書紀』には、天武天皇の14年の間に、上記を含めて22件の地震が記載されています。
この時期、地震が多発していたようです。
改めて自然の力の凄まじさを見せられた思いがします。
日本列島は、地球の地殻を構成する大きな4つのプレート上に乗っています。
このプレートは、じわじわと巨大な力で動いていて、押し合いへし合いしています。
そのひずみが活断層を動かし、内陸型の地震が起こしますし、
プレート同士の接触地点では一定の周期で、海溝型の巨大地震を引き起こします。
有史以前の地震については、その堆積物の調査によって、
発生の年代や規模などが推定されています。
『日本書紀』の
允恭天皇5年7月14日(416年8月22日・グレゴリウス暦8月23日)の条項に、
「地震(なゐふる)」の記述が登場します。
いわゆる允恭地震と呼ばれています。
日本書紀の記述を訳すと、
允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていましたが、
地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ、
玉田宿禰だけがいませんでした。
玉田宿禰はこの時酒宴を開いていて、
尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れました。
允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため
捕えて殺したと記載されています。
この地震の記事は政治的事件の発端として記されていて、
地震そのものの状況や被害の様子は記されていません。
これが、記録に残る日本史上最初の地震です。
同じく『日本書紀』の推古天皇7年4月27日
(599年5月26日・グレゴリオ暦5月28日)の条項に
初めて被害が出た地震の記述が登場します。
推古地震と呼ばれ、現在の奈良県での地震だったようです。
地震が発生し建造物が悉く倒壊し、四方に命じて地震の神を祭らせたとあります。
天武天皇7年12月中(679年)に、筑紫国を中心に大地震が発生しました。
筑紫地震と呼ばれていますが、地震の発生日は不明です。
巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し、
村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、
その上にあった家は移動したが破壊されることなく
家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたとの事です。
天武13年10月14日(684年11月26日ユリウス暦11月29日)
白鳳地震と呼ばれる巨大地震が起こります。
山崩れ、河涌くとする液状化現象を思わせる記録があり、
諸国の郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊しました。
伊予湯泉(道後温泉)や紀伊の牟婁温泉(南紀白浜温泉)が埋もれて湧出が止まり、
土佐では田畑50余万頃(約12㎢)が海中に没しました。
加えて津波が襲来し、土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失しました。
有史以来、確かな記録の残る南海トラフ巨大地震と推定されていて、
日本最古の津波記録です。
『日本書紀』には、天武天皇の14年の間に、上記を含めて22件の地震が記載されています。
この時期、地震が多発していたようです。