天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

最初の地震記録

2023-02-17 | Weblog
 先日起きたトルコシリア地震は、まだ被害の全容がつかめていませんが、
 改めて自然の力の凄まじさを見せられた思いがします。
 日本列島は、地球の地殻を構成する大きな4つのプレート上に乗っています。
 このプレートは、じわじわと巨大な力で動いていて、押し合いへし合いしています。
 そのひずみが活断層を動かし、内陸型の地震が起こしますし、
 プレート同士の接触地点では一定の周期で、海溝型の巨大地震を引き起こします。
 有史以前の地震については、その堆積物の調査によって、
 発生の年代や規模などが推定されています。

 『日本書紀』の
 允恭天皇5年7月14日(416年8月22日・グレゴリウス暦8月23日)の条項に、
 「地震(なゐふる)」の記述が登場します。
 いわゆる允恭地震と呼ばれています。
 日本書紀の記述を訳すと、
 允恭天皇は先に玉田宿禰に反正天皇の殯を命じていましたが、
 地震があった日の夜に尾張連吾襲に殯宮の様子を探らせたところ、
 玉田宿禰だけがいませんでした。
 玉田宿禰はこの時酒宴を開いていて、
 尾張連吾襲を殺して武内宿禰の墓地に隠れました。
 允恭天皇が玉田宿禰を呼び出したところ衣の下に鎧を付けて参上したため
 捕えて殺したと記載されています。
 この地震の記事は政治的事件の発端として記されていて、
 地震そのものの状況や被害の様子は記されていません。
 これが、記録に残る日本史上最初の地震です。

 同じく『日本書紀』の推古天皇7年4月27日
 (599年5月26日・グレゴリオ暦5月28日)の条項に
 初めて被害が出た地震の記述が登場します。
 推古地震と呼ばれ、現在の奈良県での地震だったようです。
 地震が発生し建造物が悉く倒壊し、四方に命じて地震の神を祭らせたとあります。

 天武天皇7年12月中(679年)に、筑紫国を中心に大地震が発生しました。
 筑紫地震と呼ばれていますが、地震の発生日は不明です。
 巾2丈(約6m)、長さ3000丈余(約10km)の地割れが生成し、
 村々の民家が多数破壊され、また丘が崩れ、
 その上にあった家は移動したが破壊されることなく
 家人は丘の崩壊に気付かず、夜明後に知り驚いたとの事です。

 天武13年10月14日(684年11月26日ユリウス暦11月29日)
 白鳳地震と呼ばれる巨大地震が起こります。
 山崩れ、河涌くとする液状化現象を思わせる記録があり、
 諸国の郡の官舎、百姓の倉屋、寺塔、神社が多く倒壊しました。
 伊予湯泉(道後温泉)や紀伊の牟婁温泉(南紀白浜温泉)が埋もれて湧出が止まり、
 土佐では田畑50余万頃(約12㎢)が海中に没しました。
 加えて津波が襲来し、土佐における被害がひどく調を運ぶ船が多数流失しました。
 有史以来、確かな記録の残る南海トラフ巨大地震と推定されていて、
 日本最古の津波記録です。

 『日本書紀』には、天武天皇の14年の間に、上記を含めて22件の地震が記載されています。
 この時期、地震が多発していたようです。

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統監道

2023-02-02 | Weblog
 先日、神奈川県の大磯町に行きました。
 バスに乗っていた時に、「統監道」と言う停留所があるのに気が付きました。
 丁度、大磯町役場の近くです。
 その後、旧島崎藤村邸に行った時に、停留所の名称由来を聞きました。
 そこで、その事について調べてみました。

 日露戦争後の1905年(明治38年)11月17日に、
 日本は大韓帝国との間で、第2次日韓協約を締結し、
 その外交権を奪い、統監が韓国の外交を管轄することを認めさせました。
 同年11月23日に統監府を置く勅令が発布されました。
 初代韓国統監には伊藤博文が就任します。
 統監府が実際に事務を始めるのは、翌年2月1日からです。

 伊藤博文は、1890年(明治23年)に、
 足柄下郡小田原町(現:神奈川県小田原市)に別邸の滄浪閣を建てますが、
 大磯の松林を気に入り、梅子夫人の病気療養もあって、
 1897年(明治30年)に中郡大磯町に同名の邸宅を建てて移転し、
 本籍も同町に移したことから、本邸となりました。

 当時の大磯駅は、山の中にあったため、
 大磯駅から滄浪閣までの道は、かなりの回り道と狭い道を行かねばなりませんでした。
 そのため、町長の発案で、線路に沿って新しい道を寄付金で造る事になりました。
 駅から線路に沿って西に向かい直角に南へ曲がって、東海道へ出るルートでした。
 この時整備された道路が「統監道」で、
 幅3.8m、長さ528mの道路で、沿道には梅と桜が交互に植えられたとの事です。
 梅と桜はありませんが、この道は現在も残っています。
 幅員がそれほど変わっていないようなので、車のすれ違いも難しそうで、
 一方通行になっています。

 当時の寄付金の額がネット上に載っていました。
 これによると、伊藤博文300円、山県有朋150円、鍋島直大300円、
 西園寺公望100円、古川虎之介700円、徳川義恕50円と、
 錚々たる名前が並んでいます。

 伊藤は、1909年(明治42年)に韓国統監を辞職した後の10月26日、
 ハルビン駅において韓国の独立運動家安重根に狙撃されて死亡しました。
 1910年(明治43年)8月29日韓国併合により朝鮮総督府が設置され、
 統監府及び所属官署は、総督府に引き継がれます。

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