天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

追腹一件

2023-09-20 | Weblog
 主君が討ち死にしたり、敗戦により腹を切ったりした場合、
 家来達が後を追って討ち死にしたり切腹したりする風習が戦国時代にありました。
 江戸時代に入ると戦死する機会が少なくなったこともあり、
 自然死の場合でも家臣が殉死をするようになったと言われています。
 1607年(慶長12年)に松平忠吉が病死した際の殉死が最初であるといわれ、
 同年の結城秀康病死後に万石取りの重臣らが後を追いました。
 徳川秀忠や家光の死に際しては老中・老中経験者が殉死しています。

 4代将軍徳川家綱から5代綱吉の治世期には、
 幕政が武断政治から文治政治へと移行しつつあり、
 1661年(寛文元年)、水戸藩主徳川光圀が徳川頼房への殉死願いを許さず、
 その年には会津藩主保科正之が殉死の禁止を藩法に加えています。
 当時の幕閣を指導していた保科正之の指導の下、
 1663年(寛文3年)の武家諸法度の公布とともに、
 幕府は、殉死は「不義無益」であるとしてその禁止が各大名家に口頭伝達しました。

 ところが、これに反する殉死が宇都宮藩で行われ、追腹一件と呼ばれています。
 1668年3月31日(寛文8年2月19日)、
 宇都宮藩主奥平忠昌が、江戸汐留の藩邸で病死します。
 忠昌の世子であった長男の奥平昌能は、
 忠昌の寵臣であった杉浦右衛門兵衛に対し「いまだ生きているのか」と詰問し、
 これが原因で杉浦はただちに切腹しました。
 4代将軍徳川家綱の下で文治政治への転換を進めていた江戸幕府は、
 昌能と杉浦の行為をともに殉死制禁に対する挑戦行為ととらえ、
 奥平家に対し2万石を減封して出羽山形藩9万石への転封に処し、
 殉死者杉浦の相続者を斬罪に処するなど厳しい態度で臨み、
 これにより、殉死者の数は激減したといわれています。
 殉死の禁止は、家臣と主君との情緒的人格的関係を否定し、
 家臣は「主君の家」に仕えるべきであるという
 新たな主従関係の構築を意図したものと考えられています。

 余談ですが、忠昌没後14日目に、宇都宮の興禅寺で法要が行われた際、
 奥平家重臣の奥平内蔵允が、法要への遅刻を
 同僚の奥平隼人に責められたのをきっかけに2人が口論となり、
 内蔵允が隼人に斬りつけ、両名が私闘に及ぶという事件が起こります。
 この事件への昌能の裁定に対して、藩士間では不満が渦巻き、
 内蔵允の子の奥平源八らによって
 江戸牛込浄瑠璃坂での隼人への仇討ち事件が起こります。
 この事件は、浄瑠璃坂の仇討と呼ばれ、
 伊賀越の仇討ち(鍵屋の辻の決闘)と、赤穂浪士の討ち入りと合わせて、
 江戸三大仇討ちと呼ばれています。

コメント (1)
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桑茶政策

2023-09-05 | Weblog
 江戸は歴史的経緯から、都市面積の6割を武家地が占めていましたが、
 1868年(明治元年)、これらの土地・屋敷の大部分は新政府により接収されました。
 この土地・屋敷は政府官員の住居などとして活用されましたが、
 一方で荒廃した土地も多くあったため、
 初代東京府知事となった大木喬任は、
 こうした土地に桑・茶を植え付けることにより、
 市中の失業者対策および殖産興業に役立てようとしました。
 この政策により、武家地面積の約1割にあたる102万5207坪が
 農地として開墾されました。

 幕末には百万人を超えていた江戸の人口は、
 1869年(明治2年)には、50万3700余人と、半減してしまいます。
 理由は、幕府瓦解によって、俗にいう旗本八万騎が江戸からいなくなったり、
 各藩の武士が帰藩した事などによるものであり、
 都市の人口が急速に縮小したことによって、
 江戸には下級武士、武家屋敷の奉公人などと共に、
 都市に取り残された下層民などの窮民が多く生じていました。
 当時の当局者にとって、
 府下における確かな生業を持たない都市住民の存在は
 それ自体が懸念の種であり、
 こうした住民に何らかの仕事を与えることが求められていました。

 1869年(安政6年)の自由貿易開始にともない、
 生糸および茶は、当時の日本の主要な外貨獲得手段となっていました。
 このような背景から、大木喬任は、
 武家地を農地に転用し、希望する者に貸し付けること、
 また、植え付ける作物として、桑と茶を推奨しました。
 1869年(明治2年)には東京府および日本政府より「桑茶政策」が布告されました。
 また、この政策を実行する機関として物産局が設立され、
 郭外の土地については入札による払下げが行われました。
 また、貸付けや払下げにより得た資金は、
 救貧院の設置をはじめとした都市下層民の救済事業に用いられました。

 しかし、明治2年の冬から翌年の春にかけて、
 桑茶政策により植え付けられた桑・茶の7割から8割が枯死し、
 また、生産された桑・茶が輸出の軌道に乗ることはありませんでした。
 東京の復興が次第に進みはじめたことにより、府内の土地の農園化は、
 都市としての東京が発展する支障となることが予期されました。
 1871年(明治4年)、3代東京府知事の由利公正は、
 植え付け作物の制限を解き、物産局の諸事業を廃止しました。

 大木は、後にその著書の『奠都当時の東京』の中で、
 桑茶政策の失敗を認めています。
 しかし一方で、桑茶政策は、それまで東京(江戸)の面積の多くを占めていた、
 武家以外は居住すら許されなかった地域を、
 経済活動の場へと変容させたとの評価もあるようです。

コメント (2)
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