天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

九連環

2023-04-25 | Weblog
 江戸時代の音楽文化は、身分制や家元制に縛られた窮屈なものでした。
 庶民の楽器であった三味線を武士が弾いたり、
 虚無僧の法器とされた尺八を百姓町人が吹くことは、許されませんでした。
 そうした中で、享保年間(1716年~1735年)に、清楽が入って来ます。
 清の中国支配が始まり、清国との貿易で長崎には多くの清国商人が渡来し、
 彼らが清国の戯曲や民謡といった民間音楽を伝えます。
 清楽は、例外的に、江戸時代の身分制度から自由であった事から、
 町人も武士も、男も女も、身分の上下や性別を超えて、
 合奏や合唱を楽しむことができました。

 清楽が入って来る前に、やはり中国から、明楽が入って来ていましたが、
 明楽は、宮廷音楽的、雅楽的要素が強かったのに対し、
 清楽は、俗曲の色彩が強く、市井に受け入れやすかったようです。
 清楽の歌詞は中国語で、江戸時代の日本人は、
 中国語の発音をカタカナで写し、これを「唐音」と言って、そのまま唱いました。
 現代の日本人が、ギターを弾きながら、英語の歌を唄うように、
 江戸から明治にかけての日本人も、清楽の楽器である月琴を奏でつつ
 唐音で中国語の歌詞を唄っていました。
 坂本龍馬とその妻の楢崎龍も、月琴の名手であったと言われています。

 清楽の中でも特に有名なのが「九連環」でした。
 九連環は、チャイニーズリングと言われる、古典的な知恵の輪の一種で、
 9個の環から成るものです。
 1820年(文政3年)の春、
 長崎の人が難波・堀江の荒木座で「唐人踊」の興行を行います。
 これは、唐人の扮装をした踊り手が、
 「九連環」の替え歌と、鉄鼓、太鼓、胡弓や蛇皮線などの伴奏で踊るもので、
 その後、「唐人踊」は名古屋や江戸にも広まって大流行となります。
 流行の過熱のあまり、1822年(文政5年)には禁令が出るほどでした。
 その後も庶民の間では、「看々踊」や、
 その歌である「かんかんのう」が歌い継がれます。
 古典落語の「らくだ」には、死人に「かんかんのう」を躍らせる話が出て来ます。

 また、明治から昭和初期にかけて法界屋が門付で、
 月琴などを演奏しつつ歌った「法界節」も、原曲は「九連環」でした。
 「九連環」の歌詞の中で「ホーカイ」という語句を繰り返すことから、
 「ホーカイ節」の呼称が生まれました。(「法界」は当て字です)
 法界節は、一説によると、明治20年ごろ、
 長崎の花街・丸山新地で
 「丸山芸者はなぜ遅い 来るとそのままお雛さん ホーカイ 
  そのくせ気軽に転びます 三味線枕」という法界節が流行り、
 これをきっかけに1年もたたないうちに全国に広まったとの事です。
 この「法界節」を元に、
 後に演歌「新法界節」、「さのさ節」、「むらさき節」、
 新民謡「鴨緑江節」など、さまざまな歌に発展して行きました。

 YouTubeに「かんかんのう」や「九連環」がありましたので、
 宜しければご覧ください。
 https://www.youtube.com/watch?v=J4r1elop6a8

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貞観の治

2023-04-06 | Weblog
 中国の唐の二世皇帝である太宗について、次のような話があります。
 法を重くし民の盗を厳しく取り締まるよう上書した者がいました。
 ところが太宗は、
 「民が盗をなすのは賦役が重く、官吏は貪欲、
  民は飢寒に迫られて廉恥などを考えている暇がないからである。
  朕まず奢を去り、税金賦役を軽くし、簾吏を登用するようにすれば、
  当然民の衣食は余りあることになり、どうして盗みを働くものか。
  厳罰主義をとるつもりは毛頭ない。」と語り、
 更に、
 「君は国に依り、国は民に依る。
  民を苦しめて君に奉ずるなどと言うのは、
  己の肉を割いて空腹を満たすようなもの。
  満腹するかわりに、身まず斃れるに決まっている。」
 その結果がどうなったかと言うと、宋の司馬光編する「資治通鑑」によると、
 「数年の後、海内升平、路、落ちたるを拾わず、
  外戸、閉ざさず、商旅、野宿す」とあるとの事です。

 太宗の治世の時代は、元号の貞観(627年 - 649年)を使って、
 貞観の治と呼ばれ、中国史上最も良く国内が治まった時代と言われ、
 後世に政治的な理想時代とされてきました。
 もっとも、太宗は皇帝の位に就くため、兄を殺害しています。
 かなり理想化されている感じはしますが。
 しかしながら、太宗の語録は「貞観政要」としてまとめられ、
 教養人の必読書として、中国では後の歴代王朝の君主が愛読し、
 日本にも平安時代に古写本が伝わり、
 北条氏・足利氏・徳川氏ら政治の重要な役にあった者に愛読されてきました。

 日本でも貞観の治と呼ばれる時期があります。
 平安時代、清和天皇の代に貞観という元号がありました。
 この時代は、前の天皇、文徳天皇朝で太政大臣に就任した
 藤原良房とその養子(甥)の藤原基経が、
 初期摂関政治等藤原氏の権勢を固めた時代でした。
 疫病の流行、富士山の爆発、貞観地震と呼ばれる大地震や応天門の変等
 不安定要素も抱えながらも、
 開墾奨励策や貞観格式の編纂、貞観永宝の鋳造等
 積極的な政策が採られ、政治は安定していました。

 唐においても日本においても、
 元号の語源は、『易経』の「天地之道、貞観者也」からとの事ですが、
 日本の元号を定めた際、唐の「貞観の治」が念頭にあったような気もします。
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