天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

お歯黒

2019-03-21 | Weblog
 度々「東遊雑記」の話で恐縮ですが、
 古川古松軒など巡検使の一行が会津田島の近くを通っていた時の記述に、
 「この辺、婦人の風俗なおなお賤しく、色の黒き女の四十までは眉も落とさず。
  歯も染めざる容体、ことさらひなびたりき。」とあります。
 東北地方を回った古松軒は、各地でお歯黒をしない女性を見て、
 その地の貧しさを感じていました。
 少なくても江戸時代には、お歯黒をするのが普通で、
 それが出来ないのは貧しいからだとの認識があったようです。

 お歯黒の起源は明らかになっていませんが、
 初期には草木や果実で染める習慣があり、
 後に鉄を使う方法が鉄器文化とともに大陸から伝わったようです。
 古墳に埋葬されていた人骨や埴輪にはお歯黒の跡が見られるとの事であり、
 753年(天平勝宝5年)に鑑真が持参した製法が東大寺の正倉院に現存するとの事です。

 お歯黒については、『源氏物語』、『堤中納言物語』にもあり、
 平安時代の末期には、第二次性徴に達し元服・裳着を迎えるにあたって
 女性のみならず男性貴族、平氏などの武士、大規模寺院における稚児も行ったようで、
 特に皇族や上級貴族は袴着を済ませた少年少女も
 化粧やお歯黒、引眉を行うようになり、皇室では幕末まで続ききました。

 室町時代には一般の大人にも浸透しましたが、
 戦国時代に入ると、一部の戦国武将は戦場に赴くにあたり、
 首を打たれても見苦しくないようにするため、
 女性並みの化粧をし、お歯黒まで付けたとの事です。
 戦国時代までは戦で討ち取った首におしろいやお歯黒などの死化粧を施す習慣があり、
 これは首化粧、首装束と呼ばれ、戦死者を称える行為でした。
 桶狭間の合戦で、今川義元が織田信長に討たれますが、
 義元はお歯黒をしていた事から、文弱の将であるように言われています。
 しかし、義元は海道一の弓取りと称された武将であり、
 北条氏や武田氏との合戦を行って来た歴戦の武将です。
 お歯黒をしていたからと言って、文弱の将とは言えないと思います。

 江戸時代以降は皇族・貴族以外の男性の間ではほとんど廃絶しますが、
 そして老けた感じになることが若い女性から敬遠されたこともあり、
 既婚女性、未婚でも18~20歳以上の女性、及び、遊女、芸妓の化粧として定着しました。
 1870年3月5日(明治3年2月5日)、
 政府から皇族・貴族に対してお歯黒禁止令が出され、
 それに伴い民間でも徐々に廃れ、大正時代にはほぼ完全に消えたとの事です。

 お歯黒は、歯を目立たなくし、顔つきを柔和に見せる効果があるとの事です。
 谷崎潤一郎も、日本の伝統美を西洋的な審美観と対置した上で、
 お歯黒をつけた女性には独特の妖艶な美しさが見いだされることを強調しています。
 また、歯科衛生が十分に進歩していなかった時代には、
 歯並びや変色を隠すだけでなく、
 口腔内の悪臭・虫歯・歯周病に予防効果がありました。

 お歯黒の主成分は鉄漿水(かねみず)と呼ばれる
 酢酸に鉄を溶かした茶褐色・悪臭の溶液で、これを楊枝で歯に塗った後、
 五倍子粉(ふしこ)と呼ばれる、タンニンを多く含む粉を上塗りし、
 これを交互に繰り返すと鉄漿水の酢酸第一鉄がタンニン酸と結合し、
 非水溶性になると共に黒変するとの事です。
 歯を被膜で覆うことによる虫歯予防や、成分がエナメル質に浸透することにより
 浸食に強くなるなどの実用的効果もあったとされています。
 毎日から数日に一度、染め直す必要があったようで、
 鉄屑と酢で作れる鉄漿水に対し、ヌルデの樹液を要する五倍子粉は
 家庭での自作が難しく、商品として莫大な量が流通したようです。

 現在のテレビの時代劇などでは、お歯黒をした女性はほとんど出て来ません。
 時々、老婆や悪役の公家などがお歯黒をしている事もありますが、
 現在では、審美観の変化から、大多数の人がお歯黒を美しいものと感じないため、
 伝統演劇や花柳界以外では美的な要素よりも
 醜悪さや滑稽さを演出する道具として用いられることが多いためだとの事です。

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巡検使

2019-03-05 | Weblog
 巡見使は、江戸幕府が諸国の大名・旗本の監視と情勢調査のために派遣した上使の事です。
 大きく分けると、公儀御料(天領)及び旗本知行所を監察する御料巡見使と
 諸藩の大名を監察する諸国巡見使がありました。

 1615年(元和元年)、
 徳川家康は武家諸法度・一国一城制が遵守されているかを確かめるために、
 3年に1度諸国の監察を行う「国廻り派遣」の方針を打ち出しましたが、
 会津地方への監察が1度行われたのみに終わりました。
 徳川家光が親政を始めて1年後の1633年(寛永10年)に、
 慶長日本図の校訂を理由として「国廻り派遣」を行うことを決め、
 1度6名の譜代大名格を正使として各地に派遣しましたが、
 その後この制度は途絶えました。

 徳川家綱の代に入った1664年(寛文4年)に、
 全ての大名に対して領知朱印状が交付され、
 同年に宗門改が全ての領主に対して義務付けられた事により、
 それらの実施状況を確かめる事を名目として、
 1667年(寛文7年)に諸国巡見使の制が導入されました。

 この制度では、責任者を若年寄としてその指揮監督にあたり、
 若年寄の支配下にあった使番1名を正使、
 同じく小姓番と書院番からそれぞれ1名ずつを副使として派遣することとしています。
 彼らは従者を連れて管轄する諸国の監察を行い、
 諸藩及び公儀御料の政治の実態を「美政・中美政・中悪政・悪政」などと格付けした他、
 キリスト教禁止令などの幕府法令の実施状況、
 領内の物価や相場、船舶や海防についてなどを調査しました。

 続いて徳川綱吉が将軍職についた翌年の1681年(天和元年)にも諸国巡見使が派遣され、
 以後新将軍が就任してから1年以内に
 巡見使発遣令と実際の発遣が行われることとなりました。
 また、全国を8の区域に分割して管轄区域を定めています。
 以後、幼少で没した徳川家継を例外として、
 寛文・天和の制度に則って将軍の代替わりの恒例行事として制度化されました。

 寛文7年の巡見では、実際に島原藩の高力隆長が改易処分にされるなど、
 「悪政」と評価された大名には処罰の可能性があり、各藩ではとても恐れました。
 そのため、諸藩は巡見使の機嫌を取ることに気を配り、
 巡見使に対して過度とも言える接待が行われ、
 巡見使が通過する村々に対して負担が命じられました。
 更に「巡見扇」などと呼ばれる想定質疑集も作成されています。

 「東遊雑記」を著した古川古松軒は、
 徳川家斉の就任後、1787年5月14日(天明7年3月27日)に発令され、
 翌年に派遣された、陸奥・出羽・松前の3国を担当する巡検使の随員となりますが、
 この時の正使は藤波要人で、川口久助と三枝十兵衛が副使で、
 古松軒は、三枝十兵衛の随員となりました。
 どの位の規模であったかは、はっきりしませんが、
 山形県西村山郡河北町に残る資料によると、
 天明8年(1788年)6月19日に泊まった人員は、
 藤波が45名、川口が41名、三枝が32名となっていて、計118名となっています。
 各地に派遣された巡検使は、各使者が40名程度の従者を連れていたようなので、
 概ね120名程度の大きな行列となっていたような感じです。
 これらの人々が、大きな城下町などに泊まるのはともかく、
 30軒程度の小さな集落に泊まる時もあり、宿割りなど大変だったと思いますが、
 それについては、「東遊雑記」には記述がありません。

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