天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

ナポレオンを驚かせた沖縄の話

2021-05-19 | Weblog
 淮陰生の「一月一話」の中に、「ナポレオンを驚かせた沖縄の話」があります。
 これによると、
 1817年8月11日から14日までの間、
 イギリス軍艦ライラ号がセント・ヘレナ島に寄港しました。
 この船の船長はバジル・ホールです。
 バジル・ホールは、清に通商を迫るために中国に向かった
 イギリス全権大使アマーストら外交団を北京に送った後、
 朝鮮半島西岸、琉球諸島への調査航海を行いました。
 言葉も通じず、徹底した海禁政策のため拒絶的応対を受けた朝鮮と違い、
 琉球では中国語のできる官吏の真栄平房昭を通事に得て交流を深め、
 1か月余り滞在して、琉球に対して非常に良い印象を抱いたとされています。

 琉球諸島からイギリスに帰国する途中で、セント・ヘレナ島に寄った訳です。
 ナポレオンがワーテルローの戦いに敗れ、
 この島に送られて来たのが1815年10月です。
 バジル・ホールはナポレオンに会見を申し込み許可されました。
 バジル・ホールは沖縄からの帰途でしたから、当然沖縄の話となり、
 ナポレオンに対して、沖縄には武器が一切ないと説明します。
 ナポレオンは驚き、
 「武器とは大砲の事だろう?小銃くらいは持っているだろう?」と尋ねます。
 これに対し、「いえ、小銃も持っていないのです。」と答えます。
 ナポレオンは
 「それでは槍くらいは持っているだろう? 弓矢はどうなのだ?」と尋ねますが、
 バジル・ホールは 「それが槍も弓矢も持ってないのです。」と答えます。
 ナポレオンは大声で叫び、
 「信じられない!武器も持たずにどうやって敵と戦うというのだ?」と言います。
 バジル・ホールは、
 「沖縄の人々は戦争をしたことがないばかりか
  外敵も内敵もなく平和に暮らしているのです。」と答えると、
 ナポレオンは、冷笑するように眉をひそめ、
 「太陽の下、そんな戦争をやらぬ民族などがいるはずもない。」と言ったとの事です。
 いかにもナポレオンらしい話だと思います。

 この話、バジル・ホールが著した「航海記」に載っているとの事です。
 当時の沖縄は、1609年の薩摩藩侵攻以来、
 薩摩藩の支配下に置かれて刀狩りにあい武器を一切取り上げられていたそうです。
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仏舎利

2021-05-04 | Weblog
 仏舎利とは、入滅した釈迦が荼毘に付された際の遺骨を指します。
 釈迦入滅の地クシナガラの統治部族マッラ族は当初仏舎利の専有を表明し、
 仏教を国教とする周辺国との間に仏舎利を巡って争いが発生する事態となったため、
 8等分され、それに、容器と残った灰を加えて
 周辺内外の10か所の寺院に奉納されました。
 200年後、インドの敬虔な仏教徒であったマウリヤ朝のアショーカ王は
 インド統一を果たした後、全国8か所に奉納されていた仏舎利のうち
 7か所の仏舎利を発掘し、遺骨は細かく粉砕し、一粒一粒に分け、
 灰燼は微量ずつに小分けする作業を行って、
 最終的に周辺国も含めて8万余の膨大な寺院に再配布を実施しました。

 仏教が後年に伝来する中国では、
 多くの僧が仏舎利の奉納されたインドやタイに赴き、
 仏舎利の収められたストゥーパの前で供養した宝石類を
 「仏舎利の代替品」として持ち帰り、それを自寺の仏塔に納めました。
 ストゥーパとは仏舎利を納骨する円すい形の仏塔の事で、
 日本の卒塔婆のモデルであり語源でもあります。
 この宝石を仏舎利の代用として奉納する手法は日本でも行われていたようです。
 日本に現存する最古のストゥーパである法隆寺五重塔の解体調査を行った
 東京大学名誉教授の関野克によると、
 法隆寺五重塔の心礎(心柱の礎石)に掘られた穴に
 納められていた仏舎利の正体はダイヤモンドであったとの事です。
 わが国には崇峻天皇元年(588年)3月に百済王が仏舎利を献じて以来、
 鑑真が仏舎利3000粒、空海が80粒、円行が3000余粒を中国から招来するなど、
 多数の舎利が伝来しています。
 現在、「仏舎利」を奉祀している社寺は全国に200ヵ所ほどあるとも言われています。
 こうした仏舎利が中国経由であった事から考えると、
 上記のような宝石類と考えられるのかも知れません。

 日本には本当の仏舎利が1粒だけあるようです。
 イギリスのビクトリア女王がインド女王として君臨していたころの1898年、
 地方行政官であったイギリス人ウイリアム・C・ペッペが、
 インドのネパール国境近くに位置するピプラハワ村にあった仏塔を発掘し、
 一枚岩をくりぬいた砂岩製の大石櫃(132×82×66cm、696kg)を発見しました。
 その中には水晶製舎利容器(1個)と滑石製舎利容器(4個)、
 それに数百点の金銀宝玉や装身具類が収められていました。
 骨片を収めた滑石製の舎利容器のひとつに、
 紀元前数世紀の文字で
 「これは釈迦族の仏・世尊の遺骨の龕であって、
  名誉ある兄弟ならびに姉妹・妻子どもの奉祀せるものである」と刻まれていて、
 学界に一大センセーションを引き起こすことになりました。

 ペッペはそれらの発掘品をイギリス政府に寄贈し、政府は検討の結果、
 釈尊の遺骨は仏教国であるシャム(現在のタイ)の王室に寄贈し、
 シャムのラーマ5世は、更にビルマ(現在のミャンマー)、
 セイロン(現在のスリランカ)、および日本の仏教徒に分与することに決めました。
 このため、日本の仏教界は大騒ぎになりました。
 激しい議論が行われましたが、結果的に
 愛知県名古屋市千種区法王町に、超宗派の寺院覚王山日泰寺を創建し、
 現在は、本堂のある境内からやや離れた「奉安塔」の中に安置されているとの事です。
 「覚王」とは釈迦の別名で、「日泰」は、日本とタイ王国を表しています。
 どの宗派にも属していない日本で唯一の超宗派の寺院であり、
 各宗派(現在19宗派が参加)の管長が、3年交代で住職を務めています。

 ペッペが発掘した遺物が本物なのかどうか、
 特にアショーカ王の事績とどう関係するのか調べられませんでした。
 この辺、もう少し調べてみたいと思います。

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