天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

大塩平八郎の生存伝説

2014-06-14 | Weblog
 大塩平八郎はご承知の通り、江戸時代後期の儒学者、大坂町奉行組与力で、
 大塩平八郎の乱を起こした事で有名です。
 天保の飢饉のために疲弊した市民を救うため、
 天保8年2月19日(1837年3月25日)に門人、民衆と共に蜂起しますが、
 同心の門人数人の密告によって蜂起当日に鎮圧されました。
 大塩は戦場から離れた後、河内国を経て大和国に逃亡しますが、
 数日後、再び大坂に舞い戻って
 下船場の靱油掛町の商家美吉屋五郎兵衛宅の裏庭の隠居宅に潜伏していました。
 しかし、これが発覚し、1837年5月1日(天保8年3月27日)、役人に囲まれる中、
 養子の格之助と共に短刀と火薬を用いて自決しました。享年45歳でした。

 しかし、大塩平八郎にも生存伝説があります。
 大塩の遺体は黒こげになっていて、誰だか分からない状態だったようです。
 大塩の塩漬けの遺体は翌年磔刑に処せられますが、
 この時には風貌も分からなかったようで、この辺が生存伝説の元になったようです。
 大塩と息子格の助之助は、天草に逃れ、更に長崎から中国に渡ったとされています。
 中国からヨーロッパに逃れたとの話もありますが、
 一方、中国で太平天国の乱を起こしたとの話もあります。

 太平天国の乱は、清朝の時代の中国で、1850年に起こった大規模な反乱です。
 洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰に基づく太平天国によって起こされました。
 洪秀全は1814年1月1日に生まれたとされていますので、
 1793年3月4日(寛政5年1月22日)に生まれの大塩とは20歳近くの差があります。
 それで、洪秀全は大塩の養子の格之助であり、
 大塩は黒幕として指導したとされています。

 太平天国の乱の起こった頃の中国は、大塩平八郎の乱の頃と同じく、
 飢饉のために住民の生活はどん底の状態でした。
 飢饉の被害から住民を救うために乱を起こすと言うのは、両方の乱に共通の事です。

 しかし、太平天国がキリスト教に基づくのに対し、
 大塩は与力に在職中の1827年(文政10 年)大坂で、
 大阪切支丹一件と呼ばれる事件が起こり、この取り調べなどを行っています。
 彼は陽明学徒でしたが、キリスト教に対しては否定的でしたから、
 この話の信憑性は余りないような気がします。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする