天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

大津事件の時の閣僚たち

2020-06-25 | Weblog
 大津事件は、1891年(明治24年)5月11日に、
 日本を訪問中のロシア帝国皇太子・ニコライ(後の皇帝ニコライ2世)が、
 滋賀県滋賀郡大津町(現大津市)で、
 警備にあたっていた警察官・津田三蔵に突然斬りつけられ負傷した暗殺未遂事件です。
 ロシアは当時の世界の列強の中の1国で、
 当時の日本はまだ弱小国でしたから、政府首脳は真っ青になりました。

 当時の内閣総理大臣は松方正義で、第一次松方正義内閣の時です。
 外務大臣は青木周蔵で1891年5月29日に免じられ、後任に榎本武揚が就任します。
 内務大臣は西郷従道で、1891年6月1日に免じられ、後任に品川弥二郎が就任します。
 大蔵大臣は松方正義が兼務していました。
 陸軍大臣は大山巌で、1891年5月17日に免じられ、後任に高島鞆之助が就任します。
 海軍大臣は樺山資紀です。
 司法大臣は山田顕義で、1891年6月1日に免じられ、後任に田中不二麿が就任します。
 文部大臣は芳川顕正で、1891年6月1日に免じられ、後任に大木喬任が就任します。
 農商務大臣は陸奥宗光で、1892年3月14日に免じられ、
 後任に河野敏鎌が就任しますが、1892年7月14日に免じられ、
 その後任に佐野常民が就任します。
 逓信大臣は、後藤象二郎でした。

 栃木県の北部、那須を水源とする那珂川と塩原を水源とする箒川に囲まれた
 木の葉型の土地は、那須野が原と呼ばれ、
 扇状地で表流水がないため、江戸時代は、ほとんど人の住まない土地でした。
 明治政府の殖産興業政策により、
 政府の元勲たちが大規模農場方式による開拓を行います。
 特に1885年(明治18年)に完成した那須疎水が大きな力を発揮しました。
 この明治の元勲たちの開拓した大規模農場は、
 現在のこの地域に影響を残していますし、建築した別邸なども一部残っています。
 こうした大規模農場を開いた元勲たちの内、多くが松方内閣に関係していました。
 閣僚以外の華族も農場を開いていますが、
 閣僚だった人物だけを拾い出してみます。

 松方正義は、民間人が開いた那須開墾社を引き継いで、
 1888年に松方農場を開きました。
 現在の千本松牧場はその一部で、当時の別邸も残っています。
 大山巖と西郷従道は共同で1881年、加治屋開墾場を開きます。
 現在も建物の一部が残っています。
 佐野常民も1881年に佐野農場を開きました。
 青木周蔵も1881年に農場を開き、別邸を建設します。
 この別邸は、明治初期の建築家の松ヶ崎萬長が設計したもので、
 国内に残る唯一の作品で、重要文化財になって公開されています。
 現在も青木の地名が残っています。
 品川弥二郎は1883年に那須野が原の東側の現在の大田原市に
 品川農場(傘松農場)を開きます。
 現在も品川台の地名が残っています。
 山田顕義は、1888年、那須町の黒田原に 山田農場を開きます。

 松方内閣の主要閣僚たちが、
 那須野が原に大規模な農場を持った経緯は分かりませんが、
 大津事件での苦労を踏まえた連帯感があったのかも知れません。

 なお、松方内閣には入っていませんでしたが、
 山縣有朋は、1884年に矢板市に山縣農場 を開き、山林直営を行い、
 現在も農場が続いています、
 また、栃木県令や警視総監を務めた三島通庸も、1886年に三島農場を開きました。
 現在も三島の地名が残っています。
 この他、江戸時代には藩主だった、戸田氏共(旧大垣藩主)が、1887年、
 鍋島直大(旧佐賀藩主)が、1893年にそれぞれ農場を開いています。

 これらの史跡などは、2018年5月24日に、
 「明治貴族が描いた未来 ~那須野が原開拓浪漫譚~」として、
 日本遺産に選定されています。

コメント (2)
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遊行の御砂持

2020-06-05 | Weblog
 昨年11月に、神奈川県藤沢市の
 時宗総本山清浄光寺(通称 遊行寺)に行きました。
 これまで、時宗については、
 一遍上人とか、踊念仏などの知識がある程度でしたが、
 立派な伽藍などを見て、興味を持ちました。
 そして、先日桜井哲夫さんの「一遍と時衆の謎」を読んでみました。
 専門的な観点から著された良い本だと思いました。

 時宗集団の指導者に対する敬称として、遊行上人があります。
 特に開祖である一遍、二代他阿以降、
 代々清浄光寺の法主が継承していて、
 現在は74代遊行上人として、他阿真円さんがいます。

 この遊行上人が代替わりする際に、
 遊行の御砂持と呼ばれる儀式が行われます。
 行われるのは、福井県敦賀市の気比神宮です。
 1301年(正安3年)、時宗の遊行上人二世の他阿が敦賀で遊行し、
 真言宗より時宗に改宗した西方寺に入り、
 ここから氣比社(現在は氣比神宮)に参詣しました。
 その当時、西方寺から氣比社へ向かう参道には沼地があり、
 ぬかるんで参詣の妨げとなっていたため、
 他阿は宗徒・氣比の神官・民衆とともに、
 もっこを担いで海岸から砂を運び、
 沼地を埋め立て、参道を整備したと伝えられています。
 これ以降、現在でも「遊行の御砂持」神事が行われています。
 最近では、2005年(平成17年)5月に、11年ぶりに行われました。

 前述の本の著者の桜井さんもこれに参加されたとの事です。
 それによると、5月14日午後3時前に第74代真円一行が到着し、
 氣比神宮前に、2002年に建立された
 「遊行の御砂持」像の前で読経が行われます。
 氣比神宮の宮司が上人をお迎えに来て、
 宮司及び神宮氏子総代などの先導で、
 上人一行は大鳥居をくぐります。
 この時、上人一行を
 時宗寺庭婦人会(寺の就職の奥さん方の組織)が
 御詠歌で出迎えます。
 上人一行は拝殿の中に招かれて正式参拝が始まります。
 拝殿では、宮司が御砂持についての祝詞が読み上げられ、
 上人は念仏で拝礼し、
 随伴の僧侶たちによる楽器を用いた念仏踊りが行われ、
 最後に随伴の僧侶たちが「般若心経」を読経して、
 その日は終わります。
 翌15日、午前9時頃参加者は遊行上人が砂を積んだ「御砂場」に集まり、
 御砂持浄衣、一文字笠、草鞋を身に付け、そこに上人一行も加わり、
 「御砂場」に用意されていたもっこを竹で担ぎます。
 上人も、もっこを担ぎますが、
 後ろの相方は、髷をゆった袴姿の敦賀市長でした。
 午前10時過ぎに、稚児300人を含めた一行1000人の行列が出発し、
 約1時間で氣比神宮に到着しました。
 氣比神宮では、行列が到着する前から、
 檀信徒による踊念仏が奉納されていました。
 神宮に着くと、上人は沼地を埋めた後に残った蓮池に砂を撒いて、
 「遊行の御砂持」行事が終了しました。

 元禄2年(1689年)8月14日、
 松尾芭蕉は、『おくのほそ道』の旅で敦賀を訪れ、
 宿泊した出雲屋の亭主から「遊行の御砂持」の故事を聞き、
 「月清し 遊行のもてる 砂の上」と詠んでいます。
 ちょうど芭蕉が訪れた年にも御砂持が行われていたとの事です。

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