天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

徳川吉宗の日光社参

2018-09-29 | Weblog
 日光社参は、江戸時代に将軍家が日光東照宮を参拝する行事です。
 将軍あるいは大御所・大納言(将軍家の嫡子)による日光社参は
 合計19回実施されました。
 その内、特に家光の代には10回と歴代将軍の中では最多です。

 日光社参は、家康の命日である4月17日に参拝するように実施されました。
 江戸城を発つと、まず日光御成街道を進み、初日は岩槻城に宿泊しました。
 さらに次の日は、幸手宿近くで日光街道に入り、
 2日目は古河城に宿泊、3日目は宇都宮城に宿泊した後、4日目に日光に到着しました。
 日光には連泊し、復路は往路を逆に辿る合計8泊9日の行程でした。
 家綱の頃までの復路では、今市宿から日光西街道に入り、
 宇都宮城の代わりに壬生城に宿泊することもありました。

 家光は、家康を尊敬する気持ちの強かった人でしたから、
 社参の回数が多いのも、もっともな事だと思います。
 社参には、莫大な経費が掛かるため、
 家綱の後、幕府の財政に余裕が無くなると、その頻度は低下しました。

 享保13年(1728年)4月、8代将軍吉宗が日光社参を挙行します。
 将軍の日光社参は、家綱の寛文3年(1663年)以来65年ぶりのことでした。
 吉宗が将軍に就任したころは幕府財政が逼迫していましたが、
 享保の改革が行われ、幕府財政は、黒字に転じていました。
 しかしながら、依然として幕府財政は厳しいものがある中で社参を行う事は、
 吉宗の並々ならぬ決意がありました。
 享保時代は開幕以来、泰平の100年が過ぎ、
 特に、5代将軍綱吉の「生類憐みの令」によって、武士の文弱化が進んでいました。
 吉宗は、人心を一新し、武士としての原点に立ち返らせる必要があると考えたのでしょう。
 将軍の軍事指揮権の発動であり、大名への軍役動員となる日光社参は、
 将軍への忠誠心を強化し、幕府権威の復活を目指すものでした。

 この時の規模は、供奉者13万3千人、関八州から徴発された人足22万8千人、
 馬32万頭といわれています。
 譜代大名の20数家をはじめとする多くの大名、旗本が完全軍装で参加しました。
 出発当日、4月13日は大雨でした。
 奏者番秋元但馬守喬房が午前0時に先駆け、
 同じく奏者番日下村領主本多豊前守正矩が続きます。
 吉宗は2千人の武士に守られて午前6時に発駕しました。
 最後尾の老中松平左近将監乗邑が江戸城を出たのは午前10時でした。

 御成道筋の庶民には、
 「男は家内土間に、女は見世にまかりあり、随分不作法にならぬように」との
 お達しがあり、庶民は家中で謹慎し、商売も開店休業のありさまでした。
 社参の最中に、何らかの不祥事が起らないよう、厳戒態勢がとられますが、
 これは街道筋だけではなく、全国に及んでいました。

 以上、9月22日に放送された、NHKのぶらタモリで宇都宮が取り上げられ、
 日光社参が宇都宮の町づくりに影響を与えたとの話がありましたので、
 吉宗の社参について、調べてみました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝廷の石高

2018-09-16 | Weblog
 江戸時代の公家の窮状については、以前、「例幣使」や「強請り」について書きました。
 例幣使 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/de62e1ba46bd4d7fe7a3c433e9bfef56
 強請り https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/fb0cf9eaf08756831f93a174a1e35c03

 そうした公家がどの位の石高を受けていたのか、
 最近読んだ野口武彦さんの「異形の維新史」に載っていたので、抜き書きしておきます。

 江戸時代、幕府が朝廷に与えていた領地は10万石でした。
 内、約3万石は皇室の経費で、残り7万石を全ての公卿に配分されました。
 配分は、家格に応じて不均等に行われ、
 摂家では、近衛家2,860石、鷹司家1,500石です。
 三条・西園寺・徳大寺などの清華家では高低があって、1,600石から300石まで。
 大臣家は、概ね500石でした。
 下層公卿の窮迫は半端ではなく、
 楊枝を削ったり、花札の絵を描いたりの手内職で、生計を助けていました。
 中山忠能は、明治天皇の外祖父でしたが、僅かに200石でした。
 469石の三条実美や150石の岩倉具視などは、
 邸をこっそり博打場に貸し、寺銭を収入源にしていました。

 それより身分の低い下層公卿の困窮は甚だしく、素行不良の者も多かったようです。
 例えば、文箱割りと言って、
 公卿の使いが菊の紋章の付いた文箱を持って道を走り、
 わざと人に当たって落として割り、
 「大切な文箱を割ったので屋敷に帰れないから旅に出る。」と言って、
 旅費を取ったり、
 年が越せないから自分の屋敷に火を付けると風下の町家を脅し、
 100両の金を巻き上げた話もあるとの事です。

 こうした公家たちの窮状のところに持ちあがったのが、
 日米修好通商条約の勅許の問題です。
 幕府は勅許を得るため、かなりの金を使います。
 これを目当てに、騒いだ公卿たちも多かったのかも知れません。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本最初の僧

2018-09-01 | Weblog
 日本の最初の仏教者は、僧ではなく尼であり、
 最初の尼は善信尼である事は、以前書きました。
 https://blog.goo.ne.jp/tennnennkozi/e/ef83c8c892013b4774d227e5b822a374

 では、最初の僧は誰だったのか、気になるところです。
 日本書紀の記述によると、最初の僧は徳斉法師との事で、俗名は鞍作多須奈です。
 多須名の父は継体天皇の頃(6世紀初)に、
 中国南朝の梁から帰化したと伝えられる司馬達等です。
 善信尼も司馬達等の娘ですから、
 兄妹か姉弟になる訳ですが、その関係は分かりません。
 多須名は、法隆寺金堂釈迦三尊像の光背裏に「司馬鞍首止利」と名前が残っている、
 止利仏師、即ち鞍作鳥の父親です。

 多須名は、熱心な仏教信者で蘇我氏と密接な関係を持ち、
 587年(用明2年)、用明天皇が病に罹ると、
 「臣、天皇の奉為(おほみため)に出家して修道せむ。
  また丈六の仏像と寺とお造り奉らむ。」と誓願をたてました。
 現生における天皇の治病延命を願い、
 また後生における天皇の追善供養を誓いました。

 その言葉通り、用明天皇没後に出家して徳斉法師と称します。
 僧となったのは、帰国した善信尼が多くの尼を出家させた時の事です。
 徳斉法師は、大和国高市郡南淵に坂田寺(後の金剛寺)を建立するとともに、
 木彫の丈六薬師三尊像を造ったといわれています。
 この仏像は、日本書紀には、伝存すると記述されていますので、
 日本書紀が成立した720年(養老2年)の時点までは、伝わっていたようです。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする