ニコライの本名は、イワン・ドミートリエヴィチ・カサートキンで、
幕末の日本に来てロシア正教の布教を行った修道司祭・宣教師で、
日本ハリストス正教会の主教となった人です。
何よりも東京の神田駿河台のニコライ堂に
名を残しているので有名かも知れません。
1861年(文久元年)に
函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任して後、
2回ロシアに一時帰国した以外、
終生日本国内各地で、精力的に正教の布教に努めました。
彼が、来日する途中、
アラスカでロシア正教の宣教師をしていた
インノケンティ師と出会い、
布教をするためには、
その土地の文化を尊重するよう教えられます。
そんな事から、ニコライは函館に到着後から、
様々な人々から日本語を学びました。
その中の一人に、
同志社大学の創始者として知られる新島襄がいます。
現在の群馬県の安中藩士だった新島は、
海外渡航を目指していました。
少年期に江戸で蘭学、英学を学び、
欧米の文化とキリスト教に強い関心を持つようになりました。
そして、1864年(文治元年)江戸の英語塾を辞めて函館に渡り、
航海術を学ぼうと、武田斐三郎の塾に行き、
その留守居役の菅沼精一郎から
英語の先生としてニコライを紹介されます。
ニコライもまた、日本語の先生を探していたので、
二人の意向が一致し、
眼病を患っていた新島に医者を紹介すると共に、
領事館の一室を貸します。
新島は日本語を教えると共に、二人で「古事記」を読み、
ニコライからは英語と世界情勢を教えられます。
気心が知れたところで、
新島はニコライに海外渡航の希望を伝えます。
当時は海外に渡ろうとすると、打ち首の時代ですから、
よほど肝胆相照らす仲になったのだと思います。
ニコライは新島の才能を知り、
ロシア正教の弟子にしようとしたのかも知れません、
新島を引き止めます。
しかしながら、新島の決意は固く、
同年7月17日夜、箱館大町築島(現函館市大町)の波止場から
1隻の小舟に乗り、
湾内に停泊中のアメリカ商船ベルリン号にたどり着き、渡米します。
10年後、新島は帰国しキリスト教の布教に携わりますが、
不可解なことに、帰国以後死去するまでの15年間、
日本伝道に従事していたニコライに会おうとしていません。
一方のニコライは時に日記に新島の動向を書き記しています。
幕末の日本に来てロシア正教の布教を行った修道司祭・宣教師で、
日本ハリストス正教会の主教となった人です。
何よりも東京の神田駿河台のニコライ堂に
名を残しているので有名かも知れません。
1861年(文久元年)に
函館ロシア領事館附属礼拝堂司祭として着任して後、
2回ロシアに一時帰国した以外、
終生日本国内各地で、精力的に正教の布教に努めました。
彼が、来日する途中、
アラスカでロシア正教の宣教師をしていた
インノケンティ師と出会い、
布教をするためには、
その土地の文化を尊重するよう教えられます。
そんな事から、ニコライは函館に到着後から、
様々な人々から日本語を学びました。
その中の一人に、
同志社大学の創始者として知られる新島襄がいます。
現在の群馬県の安中藩士だった新島は、
海外渡航を目指していました。
少年期に江戸で蘭学、英学を学び、
欧米の文化とキリスト教に強い関心を持つようになりました。
そして、1864年(文治元年)江戸の英語塾を辞めて函館に渡り、
航海術を学ぼうと、武田斐三郎の塾に行き、
その留守居役の菅沼精一郎から
英語の先生としてニコライを紹介されます。
ニコライもまた、日本語の先生を探していたので、
二人の意向が一致し、
眼病を患っていた新島に医者を紹介すると共に、
領事館の一室を貸します。
新島は日本語を教えると共に、二人で「古事記」を読み、
ニコライからは英語と世界情勢を教えられます。
気心が知れたところで、
新島はニコライに海外渡航の希望を伝えます。
当時は海外に渡ろうとすると、打ち首の時代ですから、
よほど肝胆相照らす仲になったのだと思います。
ニコライは新島の才能を知り、
ロシア正教の弟子にしようとしたのかも知れません、
新島を引き止めます。
しかしながら、新島の決意は固く、
同年7月17日夜、箱館大町築島(現函館市大町)の波止場から
1隻の小舟に乗り、
湾内に停泊中のアメリカ商船ベルリン号にたどり着き、渡米します。
10年後、新島は帰国しキリスト教の布教に携わりますが、
不可解なことに、帰国以後死去するまでの15年間、
日本伝道に従事していたニコライに会おうとしていません。
一方のニコライは時に日記に新島の動向を書き記しています。