明治天皇が、白粉を塗り、お歯黒を付けていた事は、
イギリスの外交官パークスとともに明治元年に拝謁した
アーネスト・サトウにより目撃されています。
その父親の孝明天皇は、1869年(慶応2年)当時、
直衣、直垂とおぼしき服を着て、
描き眉、白粉、頬紅、口紅を付けていた事も、
やはりイギリスの外交官ミッドフォードの証言があります。
この姿は典型的な公家の装束で、
この服装が「唐制」であり、中古から明治まで続いていると認識されていました。
明治4年8月25日、明治天皇は下記の勅を下します。
「朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ
國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス
今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス
朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ
天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク
神武創業 神功征韓ノ如キ今日ノ風姿ニアラス
豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ
朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ
祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス
汝等其レ朕カ意ヲ体セヨ」
上記を意訳すると、
「今の衣冠の制度は、中古の唐制を模倣したまま現在に至り、
軟弱のありさまとなっている。
朕は、はなはだこれを嘆く。
そもそも神州を武によって治める事は、もとから久しく行われて来たところである。
天子が自ら元帥になれば、民衆もそのありさまを真似する事であろう。
神武天皇の日本統一や神功皇后の征韓のときは、
決して今日の姿ではなかった。
どうして一日たりとも軟弱な姿をもって天下に示す事が出来ようか。
朕は、今、断然として服飾を改め、その風俗を一新し、
皇祖以来の武を尊ぶ国体を立てようと思う。」
この後、9月4日には天皇の服装を定めるため、
兵部省に諸外国の国王の軍服制度を調査させたとの事です。
明治天皇は、明治2~3年頃から既に洋服(軍服)を着用されていたようですが、
明治5年5月23日から大阪並びに中国・西国巡幸は洋服姿で行います。
近世までの行幸では、宸儀は鳳輦や御輿に隠され、
庶民は拝見することができませんでしたが、
この時の行幸は、軍服姿で騎馬で行いましたので、
多くの庶民は驚いたと伝えられています。
この時期、明治天皇は結髪でした。
洋服着用の時は、髻を隠して韮山帽や軍服用の帽子を被っていました。
西国巡幸の時もまだ髻が付いたままでしたが、
明治6年3月2日「皇太后・皇后、黛・鉄漿を廃し」ていましたが、
明治6年3月20日に、明治天皇は断髪しました。
この日、いつものように髪を結い上げて御学問所に出御された天皇が、
その還りにはすっかり散髪していたので、
女官たちが大いに驚いたと伝えられています。
明治天皇の断髪は、洋装に合わせての事だったと思いますが、
民衆の髷への執着を薄れさせることに大きく貢献したとされています。
イギリスの外交官パークスとともに明治元年に拝謁した
アーネスト・サトウにより目撃されています。
その父親の孝明天皇は、1869年(慶応2年)当時、
直衣、直垂とおぼしき服を着て、
描き眉、白粉、頬紅、口紅を付けていた事も、
やはりイギリスの外交官ミッドフォードの証言があります。
この姿は典型的な公家の装束で、
この服装が「唐制」であり、中古から明治まで続いていると認識されていました。
明治4年8月25日、明治天皇は下記の勅を下します。
「朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ
國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス
今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス
朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ
天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク
神武創業 神功征韓ノ如キ今日ノ風姿ニアラス
豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ
朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ
祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス
汝等其レ朕カ意ヲ体セヨ」
上記を意訳すると、
「今の衣冠の制度は、中古の唐制を模倣したまま現在に至り、
軟弱のありさまとなっている。
朕は、はなはだこれを嘆く。
そもそも神州を武によって治める事は、もとから久しく行われて来たところである。
天子が自ら元帥になれば、民衆もそのありさまを真似する事であろう。
神武天皇の日本統一や神功皇后の征韓のときは、
決して今日の姿ではなかった。
どうして一日たりとも軟弱な姿をもって天下に示す事が出来ようか。
朕は、今、断然として服飾を改め、その風俗を一新し、
皇祖以来の武を尊ぶ国体を立てようと思う。」
この後、9月4日には天皇の服装を定めるため、
兵部省に諸外国の国王の軍服制度を調査させたとの事です。
明治天皇は、明治2~3年頃から既に洋服(軍服)を着用されていたようですが、
明治5年5月23日から大阪並びに中国・西国巡幸は洋服姿で行います。
近世までの行幸では、宸儀は鳳輦や御輿に隠され、
庶民は拝見することができませんでしたが、
この時の行幸は、軍服姿で騎馬で行いましたので、
多くの庶民は驚いたと伝えられています。
この時期、明治天皇は結髪でした。
洋服着用の時は、髻を隠して韮山帽や軍服用の帽子を被っていました。
西国巡幸の時もまだ髻が付いたままでしたが、
明治6年3月2日「皇太后・皇后、黛・鉄漿を廃し」ていましたが、
明治6年3月20日に、明治天皇は断髪しました。
この日、いつものように髪を結い上げて御学問所に出御された天皇が、
その還りにはすっかり散髪していたので、
女官たちが大いに驚いたと伝えられています。
明治天皇の断髪は、洋装に合わせての事だったと思いますが、
民衆の髷への執着を薄れさせることに大きく貢献したとされています。