天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

明治天皇の服装

2022-08-31 | Weblog
 明治天皇が、白粉を塗り、お歯黒を付けていた事は、
 イギリスの外交官パークスとともに明治元年に拝謁した
 アーネスト・サトウにより目撃されています。
 その父親の孝明天皇は、1869年(慶応2年)当時、
 直衣、直垂とおぼしき服を着て、
 描き眉、白粉、頬紅、口紅を付けていた事も、
 やはりイギリスの外交官ミッドフォードの証言があります。
 この姿は典型的な公家の装束で、
 この服装が「唐制」であり、中古から明治まで続いていると認識されていました。

 明治4年8月25日、明治天皇は下記の勅を下します。
 「朕惟フニ風俗ナル者移換以テ時ノ宜シキニ随ヒ
  國体ナル者不抜以テ其勢ヲ制ス
  今衣冠ノ制中古唐制ニ模倣セシヨリ流テ軟弱ノ風ヲナス
  朕太タ慨之夫レ神州ノ武ヲ以テ治ムルヤ固ヨリ久シ
  天子親ラ之カ元帥ト為リ衆庶以テ其風ヲ仰ク
  神武創業 神功征韓ノ如キ今日ノ風姿ニアラス
  豈一日モ軟弱以テ天下ニ示ス可ケンヤ
  朕今断然其服制ヲ更メ其風俗ヲ一新シ
  祖宗以来尚武ノ国体ヲ立テント欲ス
  汝等其レ朕カ意ヲ体セヨ」

 上記を意訳すると、
 「今の衣冠の制度は、中古の唐制を模倣したまま現在に至り、
  軟弱のありさまとなっている。
  朕は、はなはだこれを嘆く。
  そもそも神州を武によって治める事は、もとから久しく行われて来たところである。
  天子が自ら元帥になれば、民衆もそのありさまを真似する事であろう。
  神武天皇の日本統一や神功皇后の征韓のときは、
  決して今日の姿ではなかった。
  どうして一日たりとも軟弱な姿をもって天下に示す事が出来ようか。
  朕は、今、断然として服飾を改め、その風俗を一新し、
  皇祖以来の武を尊ぶ国体を立てようと思う。」
 この後、9月4日には天皇の服装を定めるため、
 兵部省に諸外国の国王の軍服制度を調査させたとの事です。

 明治天皇は、明治2~3年頃から既に洋服(軍服)を着用されていたようですが、
 明治5年5月23日から大阪並びに中国・西国巡幸は洋服姿で行います。
 近世までの行幸では、宸儀は鳳輦や御輿に隠され、
 庶民は拝見することができませんでしたが、
 この時の行幸は、軍服姿で騎馬で行いましたので、
 多くの庶民は驚いたと伝えられています。

 この時期、明治天皇は結髪でした。
 洋服着用の時は、髻を隠して韮山帽や軍服用の帽子を被っていました。
 西国巡幸の時もまだ髻が付いたままでしたが、
 明治6年3月2日「皇太后・皇后、黛・鉄漿を廃し」ていましたが、
 明治6年3月20日に、明治天皇は断髪しました。
 この日、いつものように髪を結い上げて御学問所に出御された天皇が、
 その還りにはすっかり散髪していたので、
 女官たちが大いに驚いたと伝えられています。
 明治天皇の断髪は、洋装に合わせての事だったと思いますが、
 民衆の髷への執着を薄れさせることに大きく貢献したとされています。

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巨樹・巨木

2022-08-18 | Weblog
 今朝の下野新聞で、
 「巨樹巡礼」との企画物のシリーズが始まりました。
 1988年から巨樹の写真を撮っている高橋弘さんが、
 毎週1本の巨樹を紹介するとの事です。

 巨樹といえば縄文杉と言われるほど有名ですが、
 縄文杉よりも幹周りが太い木があります。
 巨木の定義は、環境省によると、3m以上に達したものを言います。
 環境省では巨木の定義を定めただけですが、
 巨樹と呼ぶにはもう少し風格があった方が良いと感じるのでしょうか、
 5mを超えるものを巨樹と呼ぶことが多いようです。
 下野新聞のシリーズでも5mを超えるものと定義していました。

 幹周りの計測方法に国際的な基準はありません。
 測る位置も、根回り、胸高(120cm)、目通り(150cm)と色々あります。
 ヨーロッパでは、日本人よりも背が高い関係から、
 胸高を4フィート3インチ(130cm)としています。
 木にはコブ、空洞などの凹凸もありますから、同じ計測方法で測らなければ、
 全国的な比較、樹種別・地域別の比較などができません。
 環境省の「巨樹・巨木林データベース」の調査方法は、
 地上から130cmの高さで、計測しています。

 日本で巨樹となる代表的な樹種は、スギ、クスノキ、ケヤキ、イチョウのほか、
 スダジイ、イチイガシ、カツラ、ナラ、マツ、ムクノキ、エドヒガンなどで、
 南北に長い日本の地形と、
 温暖で湿潤な気候が豊富な種類の巨樹の生育を支えています。

 全国に幹周り3m以上の巨木は、1988年(昭和63年)の
 巨樹・巨木林調査では55,798本が確認されています。
 その後も調査が進み、新発見の巨木も多くあり、
 1999年・2000年の調査では64,479本を数えました。
 その内、幹周り5m以上あるものが約9千本あるといわれています。
 また幹周り10m以上のものは464本が数えられています。
 まだ、未発見の巨木も多く、
 日本には10数万本の巨木があると推定されているとの事です。

 日本一の巨樹がどこにあるのか気になります。
 それは、鹿児島県姶良(あいら)市にあります。
 蒲生八幡神社に鎮座する大クスがそれで、
 樹高30m、根回り33.5m、幹周り24.22m、
 推定樹齢は1500年です。
 地元の人は親しみを込めて、おおくすどん(大楠殿)と呼んでいるとの事です。
 その蒲生の大クスは、古くから注目され、
 1913年(大正2年)の「大日本老樹番附」で、
 堂々と「東の正横綱」に位置づけられているとの事です。
 100年前の1922年(大正11年)3月8日に国天然記念物に、
 1952年(昭和27年)3月29日には国特別天然記念物に指定されています。
 1123年(保安4年)に、ここ蒲生の地に移ってきた
 初代領主蒲生舜清が八幡神社を建立した時には、
 既に神木とされていたことが伝えられているとの事です。

コメント (2)
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翻訳・・・

2022-08-04 | Weblog
 日本は古代以降、中国の文献を翻訳し、文化を向上させて来ましたが、
 1774年、杉田玄白らによる『解体新書』の翻訳出版を一つのきっかけとして、
 18世紀後半以降、盛んにヨーロッパの科学文献が翻訳されるようになります。
 『解体新書』刊行後、医学が発展したことはもちろんですが、
 オランダ語の理解が進み、
 鎖国下の日本において西洋の文物を理解する下地ができたことは重要です。
 翻訳の際に「神経」「軟骨」「動脈」「処女膜」などの語が作られ、
 それは今でも使われています。
 例えば、日本語の「神経」は杉田玄白らが解体新書を翻訳する際、
 神気と経脈とを合わせた造語をあてたことに由来しています。
 これは現在の漢字圏でもそのまま使われています。

 この翻訳はオランダ語から行われていましたが、
 明治維新が起こると、オランダ語のみならず英語やフランス語など
 西洋の諸言語から膨大な翻訳が行われるようになります。
 この翻訳においてはさまざまな訳語が漢語の形で考案され、
 いわゆる和製漢語として盛んに流通するようになり、
 この新漢語は新しい概念を表すのに好都合であったため、
 一部は中国に逆輸入されて使用されるようになりました。

 新漢語は2種に分けられます。
 1つは「科学」「哲学」「郵便」「野球」など
 新しく漢字を組み合わせて作った、文字通り新しい語です。
 もう1つは「自由」「観念」「福祉」「革命」など、
 古くからある漢語に新しい意味を与えて転用・再生した語です。

 江戸時代末期、洋学の移入以来、先人たちの示した訳語創造能力には、
 驚くべきものがあると思っています。
 そしてその恩恵に浴して日々過ごしているのだと思っております。

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