天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

乃木希典が失った連隊旗

2022-04-27 | Weblog
 1877年(明治10年)、西南戦争が起こります。
 薩摩軍が大挙して熊本県内に進出したため、
 熊本城の鎮台司令の干城少将は、小倉の歩兵第14連隊に救援を命じます。
 14連隊の連隊長が乃木希典でした。
 彼は、2月20日に久留米を出発し、熊本に入っています。
 2月22日夕刻、熊本県植木町(現・同県熊本市植木町)付近において、
 薩摩軍との戦闘になります。
 乃木が直率していた将兵は200名ほどに過ぎず、
 薩摩軍は400名ほどだったと言われていています。
 乃木は寡兵をもってよく応戦し3時間ほど持ちこたえましたが、
 午後9時頃後方の千本桜まで随時後退することとします。
 その際に、連隊旗を保持していた河原林雄太少尉が討たれ、
 薩摩軍の村田三介の部下の岩切正九郎に連隊旗を奪われてしまいます。
 薩摩軍は、乃木隊から奪取した連隊旗を見せびらかして気勢を上げたとの事です。
 この事を乃木希典は重く受け止め、
 戦争終結後、割腹自殺しようとしますが、
 児玉源太郎に説得されて思いとどまっています。
 しかし、その後も連隊旗を奪われた事は乃木の心に重く残り、
 1912年(大正元年)9月、明治天皇崩御のあと夫人と共に自刃殉死した遺書には、
 連隊旗紛失の時のことが最初に記載されていました。

 この連隊旗、西南戦争後に見付かっていたとの話が、
 田中貢太郎の「日本怪談実話」に載っていました。
 発見したのは赤木義彦と言う人物です。
 警視庁から派遣されて西南戦争に従軍しますが、
 戦争後も鹿児島に残り、按摩に扮して市内を探索しました。
 ふとしたきっかけで、村田三介の部下の折田三介に行き会い、
 彼から、3月11日、鍋田で村田三介が戦死した際に連隊旗を預かり、
 村田三介の夫人に届けた話を聞きます。
 そこで赤木は部下と共に村田宅を家宅捜索し、連隊旗を発見します。
 この日がいつだったのかは分かりませんでした。
 赤木は鹿児島屯営参謀部に知らせ、数日後参謀の川村景明に渡します。
 赤木は、1878年4月に東京に戻りますが、
 いつまで経っても恩賞などの連絡がありませんでした。
 参謀本部に行って、山縣有朋や川村景明と交渉しますが埒があきませんでした。

 1878年1月、歩兵第14連隊は新たな軍旗を拝受しました。
 赤木が連隊旗を発見し、陸軍に届けたのはその直後だったようで、
 陸軍省に届けられたものの、陸軍省では処置に困り、
 木箱に納めて倉庫に保管しました。
 参謀本部が赤木に対して曖昧な態度に終始したのも
 そのような事情なのかも知れません。
 連隊旗が発見された事が乃木希典に伝えられたのかどうかも分かりません。
 発見されたとしても、1度奪われた事実は変わりませんが。
 この連隊旗の存在はその後忘れられていましたが、
 1925年(大正14年)7月、
 陸軍省大臣官房に勤務していた歩兵中尉が発見しました。
 その後、連隊旗がどうなったかは分かりませんでした。

 赤木義彦は、1881年11月に新潟県警察に転出し、
 1882年8月には高田警察署長に任命されます。
 1883年3月20日に、新潟県高田・頸城地方(現在の新潟県上越市)で、
 自由党員らを対象とした自由民権運動に対する弾圧事件、高田事件が起こります。
 赤木はその捜査指揮を取りましたが、
 逮捕された自由党員の大部分が冤罪でした。
 その後、赤木は新潟県の副典獄に転出し、
 典獄の改革に相当の功績を果たしています。
 更に、兵庫県警察に転任するなどして、東京に戻りそこで逝去しています。

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廃仏毀釈余話

2022-04-09 | Weblog
 大政奉還後に成立した新政府は、1868年4月5日(慶応4年3月13日)に、
 通称神仏分離令と呼ばれる太政官布告を発布します。
 神仏分離は、神仏習合の弊害を緩和し、神道と仏教、神と仏、神社と寺院とを
 はっきり区別させることを目的としたもので、
 仏教を弾圧するものではありませんでした。
 しかし、これをきっかけに全国各地で廃仏毀釈が起こり、
 各地の寺院や仏具への乖離・破棄が行なわれました。
 この時期に歴史的・文化的に価値もある多くの文物が失われたと言われています。

 この廃仏毀釈について、
 先日読んだ田中貢太郎著「日本怪談実話」に面白い話が載っていました。
 愛知県の下津具村(現在の設楽町)では、
 仏教を嫌って神道に改宗する者が多かったとの事です。
 江戸時代の寺請制度によって、庶民は寺院に縛られていましたので、
 その反発もあり、全国的に仏教から離れる人が多かったと言われています。
 そうした時、この下津具村のある家で主人の姉妹がなくなりました。
 その家は神道に改宗していましたので、神葬祭で葬式を行い、墓に埋葬しました。
 それから間もなく、
 その家の墓地から人魂が出て家の方に飛んで行くとの噂が出ました。
 噂は広まり、やがて、神道で葬式をしたので、仏がうかばれず、
 自分の家に知らせに行くのだと言う者まで出て来ました。
 その家の長男は豪胆な人物で、知り合いの槍が得意な浪人と一緒に、
 真相を確かめるため、墓地で張り込みしました。
 すると、ある男が現れ、鼠花火に火を点け、家の方に投げました。
 鼠花火ですから、尾を引いて飛んで行きます。
 それが人魂に見えた訳です。
 投げた男を捕らえて話を聞くと、
 下津具村の旦那寺の和尚が、檀家を脅して改宗を防ぐため、
 隣村の阿弥陀堂の堂守に依頼した事が分かったとの事でした。

 廃仏毀釈によって、苦境に立たされた寺院は色々な対策を行っていたようです。

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