天然居士のとっておきの話

実生活には役に立たないけど、知っていると人生が豊かになるような話を綴りたいと思います。

秋の詩

2010-09-25 | Weblog
 秋の日の ヴィオロンの ため息の
 身にしみて ひたぶるに うら哀し

 秋になるとこの詩を思い出し、
 口ずさむ方も多いと思います。
 ヴェルレーヌの「秋の詩」と言う有名な詩で、
 上田敏の名訳で知られています。

 この詩は、意外な場面でも使われました。
 第二次世界大戦の際、
 連合国軍のフランス本土への上陸作戦の
 開始を知らせる暗号として使われたのです。
 1944年当時、フランスなどヨーロッパ各国は
 ナチス・ドイツに占領されていました。
 これを解放するため、
 後にアメリカ大統領となるアイゼンハワー将軍を
 最高司令官として、
 イギリス軍・カナダ軍・自由ヨーロッパ軍、
 そしてアメリカ軍47個師団による上陸作戦が企画されました。
 作戦の名称は、正式には「オーバーロード作戦」でした。
 上陸軍を支援するため、上陸用舟艇など6,000隻を超える艦船、
 12,000機の航空機が用意され、
 参加兵士300万人に達する、正に史上最大の作戦だった訳です。

 1944年6月6日に実施されました。
 作戦のポイントである、上陸地点については、
 ナチス・ドイツ軍の目をくらますため、
 様々な陽動作戦がとられました。
 また、この作戦の成功のためには、
 後方撹乱を行ったフランス国内のレジスタンスの活躍が必要でした。
 そして、このレジスタンスへの連絡として、
 この詩が使われ、イギリスのラジオ放送で流されました。

 第一節の「秋の日の ヴィオロンの ため息の」が流されれば、
 上陸作戦が開始される予告、
 「身にしみて ひたぶるに うら哀し」まで流せば、
 それから24時間以内に作戦が開始されることを
 意味していたと言われています。

 この上陸作戦は、映画「史上最大の作戦」、
 「プライベートライアン」などでも描かれていますし、
 多くの書物も出版されており、
 その内容を承知されている方も多いと思います。
 上陸後、連合軍はフランス国内で、ドイツ軍と激戦を繰り返し、
 8月25日にパリを解放する事になりました。
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正力松太郎

2010-09-11 | Weblog
 正力松太郎は、読売新聞社の経営者のみでなく、
 日本のプロ野球、テレビ、原子力の導入を推進したことでも有名です。
 1885年(明治18年)、 富山県に生まれ、
 旧制高岡中学、第四高等学校を経て、
 東京帝国大学法学部独法科を卒業します。
 同級生には、重光葵、芦田均、石坂泰三などがいます。
 大学卒業後、内閣統計局に入り、更に高等文官試験に合格して、
 1913年(大正2年)警視庁に入庁し、
 順調な内務官僚の道を歩みます。
 その間、1923年(大正12年)6月の日本共産党第1次弾圧や、
 同年9月の関東大震災に乗じた
 社会主義者弾圧を指揮したとされています。
 そして、やはり同年、警視庁警務部長に就任しますが、
 ここで大事件に遭います。
 大逆事件の1つ虎ノ門事件です。
 同年12月27日、難波大助が虎ノ門で国会に向かう
 摂政・皇太子裕仁親王のお召車にステッキ状の銃を発砲し、
 現行犯で逮捕された事件です。
 この事件の責任を問われ、山本権兵衛内閣は総辞職しますが、
 それだけではなく当時の警視総監をはじめ、
 警備の責任者である警務部長の正力松太郎も懲戒免官となりました。

 浪人中の正力のところに、
 経営困難に陥っていた読売新聞の経営権の委譲の話が舞い込みます。
 今の大新聞である、朝日新聞も毎日新聞も大阪から起こった新聞社です。
 関東大震災直後で疲弊した東京の新聞業界に、
 朝日、毎日が進出を始めた事により、
 東京の新聞社は太刀打ちできなかった訳です。
 読売新聞は、1874年(明治7年)に創刊され、
 創刊当時の名称を使っている、日本最古の新聞です。
 正力は、山本内閣の内務大臣であった後藤新平の力を借りて、
 資金の手当てをして、読売新聞の経営権を手に入れます。
 しかしながら、内務官僚であった事が嫌われたのでしょう、
 当時の読売新聞の編集局の幹部が
 辞表を提出して辞めてしまいます。
 そのため、正力は警視庁時代の気心の知れた部下数人を
 読売に引き抜いて、この急場を凌ぎます。
 その後、正力は優れた経営感覚を発揮し、
 ラジオ版の導入や、紙面の刷新等を行い、
 読売新聞を発展させます。
 読売新聞の記者だった本田靖春さんの
 「我、拗ね者として生涯を閉ず」には、
 漫画のようなワンマンぶりも出て来ますが、
 正力の時代の先を読む力は凄いものがあったと思います。
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東照宮の謂れ

2010-09-01 | Weblog
 東照宮の祭神は、御存知の徳川家康です。
 家康は、1616年(元和2年)4月17日、
 駿河城(静岡県)で死去しました。
 死期を悟った家康は、
 「遺体は、駿河国の久能山に葬り、
 江戸の増上寺で葬儀を行い、三河国の大樹寺に位牌を納め、
 一周忌が過ぎたら、日光山に小堂を建てて勧請せよ。」との
 遺言を残したとされ、
 この遺言に基づき、日光に遺骸は遷されます。

 その前に、東照大権現と言う神号が宣下されます。
 幕府から朝廷に神号の宣下を願い出たところ、
 二条関白昭実と菊亭大納言晴季は、
 「日本」、「霊威」、「東光」、「東照」の4案を示し、
 幕府側が「東照」を選択したようです。
 豊臣秀吉が死後、豊国大明神と言う神号を宣下されますが、
 その例を考えて、明神ではなく権現になったようです。

 「明神」と「権現」の違いと言うのは、
 詳しく述べると、説明が長くなりますが、
 「明神」が吉田神道に基づく、神の名称に対して、
 「権現」は仏教の色濃い山王一実神道における神号です。
 明治の廃仏毀釈まで、仏教と神道は、本地垂迹説に見られるように、
 それほど明確な区分はありませんでした。
 日光においても、二社一寺と言いますが、
 江戸時代は、東照宮と二荒山神社、輪王寺は
 一体となっていたような感じです。
 現在の日光東照宮は、家康を敬慕した3代将軍家光が大改造したもので、
 1634年(寛永11年)11月着工、1636年(寛永13年)4月に完成しています。
 1年5ヶ月の短期間のうちに東照宮23棟の建造物が完成されました。
 当時の政府が全力を上げて造営したものです。
 素晴らしさはご理解頂けると思います。

 その後、1645年(正保2年)宮号が宣下されます。
 これによって、初めて「東照宮」と言う名前が完成します。
 神社の名称は、神宮・宮・大社・神社などの種類があります。
 土地の神を祀る社が神社で、その内大きなものが大社です。
 神宮や宮は、皇室の祖先の神を祀る神社に使われるもので、
 天皇の臣下に当たる人物を祀る神社で宮号を称するのは、
 菅原道真を祀る「天満宮」と「東照宮」だけです。
 これ以降、家康を祀る神社は全て「東照宮」と呼ばれるようになります。
 そして、江戸幕府のご機嫌を取ろうとしたのでしょう、
 各大名は、競って東照宮を自分の領地に勧請します。
 これによって、全国各地に東照宮が存在する事になります。
 以上、東照宮にお勤めの高藤晴俊さんが書かれた、
 「日光東照宮の謎」に載っていました。
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