武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

大阪徘徊図(色鉛筆作品紹介714)と ローマの哲学者の生死感

2022-12-28 21:31:09 | Weblog

左上に“UMEDA”と書きこまれているのは、阪急梅田駅のことでしょう。

大阪へは、阪急電車に乗って行きます。

駅を降りて、散歩をしている風景図といったところ。

風景画ではなく、地図もしくは、図だと思う。

右中央の人物は、自身だろう。

あっちへこっちへと歩いて、街を見ている自分だ。

それと、自分の名前“ヒロクニ”を何と多く書き込んでいることから、

自分が行ったところを記しているのだろうと。

猫がマーキングしているかのような感じもして、可笑しい。

右上は、都会を象徴する女性だ。

街っぽい。

武内は、犬派か猫派かといえば、猫派だ。

飼い主のいうことをあまりきかない。

ちょっと、ブラックジョーク。

 

朝、狭い我家にある短い廊下で、ヒロクニさんと鉢合わせになりお互い顔を見合わせる。

お互いにじゃまな・・という顔。

すかさず、「まあ、こんな所で会うなんて!わたし達は仲がいいのね。」と言い、

「すりすりしましょう!」と言い、ハグした。

「おお、君。こんな所に居たの?」と、わたしの背中を叩く。

じゃまな・・、の気配が吹き飛び、大げさな行動をすることで、

一気に陽気で可笑しなゲームをしている2人になり、わたし達って懲りないな・・と思う。

まあ、とにかくこんな感じで、陽気にやっていける時は、陽気にやっていきたい。

朝、思ったことです。

 

今年もあとわずかになり、年月が経つのが早いと思う。

おせち料理の写真を見ながら、今年はどんな風にしようか?と思う。

掃除もせねば、と思いながら出来ていない。

最終の買い物はいつ行こうとか、思いながら冷蔵庫の中身を点検する。

買い物の大半は、すましていて、

正月になると高くなるもの、海老とか肉はもう冷凍庫に入っているわけです。

正月だからという理由で買ったタラの干物。

これは、塩を抜いてあぶって食べてもいいのですが、

タラの塩見が効いたタラとじゃが芋のコロッケを作りたいと強く思っている。

熱々のコロッケに焼酎か?

まあ、想像するのは簡単だが、思ったイメージ通りになるかはやってみてのところ。

コロッケは、チーズ風味にパルメチザンチーズを入れると合うかな?とか、

着物も着よう!とか、あれこれ思い浮かべ、妄想する。

 

その妄想の近くに、違う妄想がある。

先回のブログの内容で、キケロ著「老年について」を要約して、

『老人になっても身体も使い続け、頭も使い続ける。使えば使う程、生ける屍にはならない。』

『老人になればなるほど、蓄積されたものがあるから重宝される。』

と書きました。

後半は、『死について』『神について』の考察になり、

とても興味深い部分がありました。

■一部を抜粋

*ピュータゴーラス(ピタゴラスのこと)とピュータゴーラスの徒といえば、

 かつてイタリア哲学派と呼ばれていたぐらいだから、

 同国人と言ってよいほどだが、

 彼らは、人間が宇宙の神的精神から流出した魂を持つということを断じて疑わなかった

 とよく聞かされたものだ。

 さらにアポローンの神託によって最高の知者と判定された彼のソクラテース(ソクラテス)が、

 この世を去る日に魂の不死性について論じた事柄も、よく解き明かしてもらった*

引用終わり

この文章の、下線した部分は、わたしが最近、漠然とそうなんだろうと思っていることが、

この紀元前100年頃に語られているので驚いたのです。

宇宙は、物質から生まれ、そして有機物が生まれ、植物が・・、そこから生命体が・・、

そして、人間が生まれ、人には心というものまである。

自然を見ると植物には植物の法則がある。

動物にも遺伝子があり、環境によって進化したりする。

それにも法則を感じます。

人にも遺伝子があり、心というものから精神が発揮され、頭脳を駆使し今の生活がある。

その人間は、倫理観や道徳感を持ち、より良い生活を送れるように工夫をしている。

それは、やはり善なるもので支えられていると思う。

それでも、人は愚かで間違いも起こす。

そういう時、宇宙が作り出した法則を人間に伝えてくれる存在を、神様と呼ぶのだろうか?

このローマ時代の哲学は、今の哲学の基礎となっている。

それを考えると簡単に「神様なんて、そんなの可笑しいって。」と笑い飛ばしたりは出来なくて、

わたしは、この時代の哲学者に直観力の凄さを感じ、聡明さに驚くばかり。

このように感心していても、わたし自身は変わらないでしょう。

やはり、自分で決めた努力、それも小さな努力をコツコツとすることで、

変化する、大げさに言えば「向上する」のでしょうね。

来年も、「主人に優しく」は、項目に入れておきます。

(これが、難しいのだよ。)

ちなみに、日本はローマ共和国があった頃、弥生時代になります。

そして、日本の神様のイメージは、清々しく清らかなで、あまり飾り気がなく、スッキリした風貌を思い浮かべます。

山の頂上に立ち、透き通った眼差しで、見渡している姿を思い浮かべます。

日本の祖霊を手前勝手に、思い浮かべました。

こうやって、想像を広げてしまう癖があります。

困ったものです。

 

 

我家の庭は、花がない時期に入りました。

そんな時、自生している宿根スミレを見て見ると、

↑このように花を付けていました。

これを何とかアレンジしてと思い、

↑花を飾ってみました。

花の付いている株を2本摘み取り、そのままカップへ。

下の方から見ないと、花が見えないのですが、野性的な雰囲気を出しています。

葉っぱばかり目に付きますが、

「これも素敵じゃん。」とヒロクニさんは言ってくれます。

地味なんですが、これもありという事にしています。

↑育苗中のビオラ。

花色が分ってから、鉢に移します。

リボンで色分けしているのは、あまり役に立っていません。

 

 

引用したキケロの文章は、わたしが長い時間をかけて、そうともいえるか・・・????と思うことが、

そのままズバリの表現で表されていましたので、

わたしの思うことの長い道のりを思い浮かべていました。

しかし、どういうふうに書いていいかが、分らず、

午前9:00頃から、用事をしながらですが、今まで午後9:30までかかってしまいました。

同じように思う人も、いるには違いないと思います。

きっと、少数だけど。

わたしにとっては、意外な良書でした。

ヒロクニさん、推薦の本、読んでみるものだと思いました。

ヒロクニさんは、「現代的でしょ。キケロは。」と言います。

夫に1本取られたと思いながら、いつもこうだといいのにと思ったりして。

今日は年末あれこれでした。

文章がごった煮状態で、すいません。

(あれこれでなく、あれもこれも状態だー。)

お読み下さったかた、本当にありがとうございます。

良いお年を迎えられますように!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

冬枯れ(作品紹介713)と ストーブの前で

2022-12-21 17:27:11 | Weblog

こういう気持ちになるのかな?と思いながら見ています。

冬枯れの線路道の横を、精神崩壊したかのような人がさすらう。

寂しい冬の風景である。

この絵は、「こういうのも取り上げてみてよ。」と渡されました。

ドローイングのような線(茶色の部分)と動き回る赤い線。

そして、季節と場所を思わせる描写が、鉛筆で出来上がっている。

茶色の線の部分は、油絵具を使用していて、

紙に油が滲む効果が気に入っているらしく、

家には油絵具で描かれたメモ(小さいドローイング)がよく貼ってあります。

この絵を見た時、ドッキリしました。

落書きのような絵で、作品だったの?と。

気を取り直し、まだまだ見続けていると、人気のない播州の田舎の風景を思い出しました。

山陽電鉄に乗って、駅を降りても静かで、店も少ない駅です。

駅を降りて、歩いている内に、こんな所に私は住めるかなという思いが湧き、

「寂しいところだね。」と武内に言うと、

「美しいと思わない?播州のこういう風景は好きだよ。」と言う。

寂しがりなのに、こういう所が好きなのに驚き、

風景よりその言っている顔を見てしまった。

寂しがりやは、さびしいところも好きなのか・・・、

毒をもって毒を制す的なのかな、と思い意外でした。

この絵の冬枯れを見ていると、そんな播州の風景を思い出す。

そして、夕日に向かって進み、歩いた道のりを。

この絵、寂しい絵なのですが、線が遊んでいるので、そこに救いを感じます。

線や描画から楽しんで描いてある部分を見ると、

寂しさのにも楽しさを発見し、妙な気持ちになる。

ムムム・・?と変な感覚ですが。

「播州をさすらった時期」というのが武内にはあると聞いているので、

そんな片鱗を感じました。

 

 

そんなわたし達の日常を。

雑用のとぎれることのない毎日。

やっとレントゲンを取ったかと思えば、

念の為にということで、CTスキャンの検査を進められたヒロクニさん。

レントゲンで影があったので、確認の為に、明日も病院。

その影のことを、何も言われてないのに自分で判断して「肺がん」と思いこんだりして、

「医者は、何て言ってたの。」という質問を何度もする。

人の話、この場合は医者の話を聞いていない模様。

「先生は、肺がんなんてこれっぽちも言ってないよ。」と言うが、

「いやぁ、煙草は長年すっているから、自分のせいだ。しょうがない。」とブツブツ。

そして、「自業自得だ。」とやっている。

「しょうがない。」と言いきれる所が、凄いなーと思いつつ夕食の準備。

台所に居座るヒロクニさん。

準備の横で、ミュージシャンのYOSHIKI氏がテレビに映っていた。

70年代ロック喫茶(VOXヒコーキ堂)をやっていたヒロクニさんだが、

YOSIKIとかは全く知らない。

そして、テレビを見るヒロクニさんの顔、表情が異様だ。

テレビを切らないで、見続けている。

顔が見知らぬ宇宙人を眺めているような顔。

警戒しているような表情。

横で笑いをこらえるわたし。

テレビを見ながら、観察して分ってくることを逃さず感知しようという感じが、

蛇が獲物を狙うような感じだ。

目を画面から離さず、「一家言持っとる。」と言った。

次に、YOSHIKIさんが、自分というのは、

「YOSIKIというプロデューサーにプロデュースされているのがYOSIKIなのか、

 また別のYOSIKIがいるのかは、自分でも分らない」と言っているのを聞いて、

「こんな言い方が出来る人なんだね。」とポツリ。

最後は、「変わっている。」と。

変人が、変わっていると、言い切ったのが、可笑しくて笑ってしまった。

宇宙人のように思っているのが分った。

ヒロクニさんのことを「最所、宇宙人かと思いました。言っていることが全然分らなくて。」と、

聞くことが多いわたし。

宇宙人VS宇宙人だと、こんな関係になるのか・・、と思って可笑しい。

ヒロクニさんの顔の表情も鑑賞し甲斐があった。

蛇にならなくてもいいよなぁーと思いつつ。

わたしは、60代のための化粧の仕方に励んでいたので、

YOSIKIさんの口元、リップの塗り方にプロの技を感じていました。

ヒロクニさんは、後から、「この人の曲、もう忘れてしまった。

この人もまだまだじゃない。これからじゃない?」と言う。

ヒロクニさんにかかったら、皆、これからにされるのです。

自分のことも「これから。」なので。

 

そして、食事を終え、デザートにりんごを食べながら、わたしは本を取り出し読み始めた。

「何を読んでいるの?」と聞かれ、

「キケロの『老年について』」と答えると、

「そんな重苦しいもの読むのやめろよ。寒いのに。」と言われる。

「この本は、わたしに読めって、あなたが進めた本で、部屋に置いていったのは自分だよ。」と言う。

「ローマ時代の歴史に詳しくなったし、あの頃の哲学が凄いというのが分ってきたから読んでいるの。」

ヒロクニさんは、「それ、徳とか出てくるでしょ。」と言いながら、

「そんなもの読んでもしょうがないよ。」と来る。

自分が意味深に薦めたくせに、しょうがないとくるりと意見を変える。

気分屋な人です。

気分屋じゃないわたしは、毎回、「前言っていたことは、何なの?」となる。

気を取り直し、「これ、読み始めだけど、老人になっても衰えないっていう内容だよ。」と言うと、

「野蛮な頃の話だ。」と反撃してくる。

「そんなことないって。今でもプラトンの哲学は生きているし、この時代の叡智はあるって。

 プラトンのあの図形が出てくる考えも、何のことかはっきり分らないけど、

 原子の構造が今分っている時代からすると、意味があると思えてくるもの。

 はっきり分らないけど。」

はっきり分らないの部分で、笑ったヒロクニさんの顔が近づいてくる。

「何で、顔が近づいてるの。」と言い、押しやる。

まだ途中なのですが、今のところ、

『老人になっても身体も使い続け、頭も使い続ける。使えば使う程、生ける屍にはならない。』

『老人になればなるほど、蓄積されたものがあるから重宝される』

この2点を強調しています。

こんな内容とは思いませんでした。

確か、ヒロクニさんは、「こういう本でも読んで、自分を高めなさい。」と、

いうようなことを言っていたと思うのですが、

いきなり「読むの止めちまえ。」に驚いたのでした。

寒くなったので、ストーブの前にいることが多くなって、会話が多くなりました。

いつも痴話げんか的になり、犬猫がじゃれているような感じになります。

まあ、こうだと寂しくはない。

 

そんな時、焼いてみたどら焼き。

↑家でも簡単に作れるのですね。

ホットプレートを使うとうまくいくみたい。

油を引かず、焼くとこんがり茶色に。

買ってきた出来合いのこしあんと、バターを挟みました。

はちみつが入っているのが、ホットケーキとの違いだと知りました。

手軽に出来るようなので、気にいっています。

自分用のは、バターをたっぷり入れて、スペシャルに。

美味しかったですよ。

 

 

ストーブの前に集まってしまって、会話が多くなりました。

喧嘩に発展しないように気をつけなければなりません。

良人は、ムッとすることを言う天才。

キケロの「老人について」は、興味深い。

また、ブログに書くかもしれません。

本当に寒くなってしまって、19日は部屋でもダウンジャケットを着て過ごしました。

明日は、CTスキャンの検査の付き添いです。

雑用が、次から次に増える年末。

もう、師走に突入しているような感じ。

今日も、相変わらずの私たち夫婦の日常をお読み下さり、ありがとうございます。

(それでも、横に居て、絵の方は進化していると思っています)

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜の街角(作品紹介712)と “さびしさ”はどこから?

2022-12-14 16:21:52 | Weblog

赤と青の対比が強烈な作品です。

「ああ、街だ。」と、わたしは即座につぶやく。

人、建物、その間を縫うようにある暗がり。

人はだまし絵のように、組み込まれている。

また、路地を思わせる交差した青色の線。

そして、黄色の灯かり。

建物にあるひしめく窓。

やはり、ネオンを感じさせる色合いで、都会を思わせる。

2003年作となっているので、もう19年前に描いたものだ。

月日が流れるのが早いと感じる今日この頃。

作品を見ても、同じことを思います。

 

今日の朝は、若山牧水の「幾山河越えさり行かば寂しさの終てなむ国ぞ今日も旅ゆく」で始まりました。

ヒロクニさんは、この句を3度繰り返して、言った。

“寂しさ”の部分が、頭に残り、ヒロクニさんらしいと思った。

「よく覚えているねぇ~。」と言うと、

「中学で習ったからね。」と。

(あまり中学校へは行かなかったと聞いているが、文章は好きだったのかもしれません。)

ヒロクニさんは、やたら「さびしい」という言葉を言う人で、

秋になると「ああ、さびしい。」を連発し、

風が冷たくなるのを感じても、「さびしい。」とよく言います。

よく例で上げられる、木の葉が散っても“さびしいねぇ”を地でいきます。

ひらがなで“さびしい”と書きましたが、

ヒロクニさんのさびしいは、「寂しい」「淋しい」とどちらになのか?

また、ニュアンスの似たものでは、「侘しい」という感じもするのです。

わたしの中で有名な武内の言葉は、『淋しいと何するかわからん』というもの。

寂しさのあまり、何をしでかすか分らないという意味。

この言葉のせいか、あまり淋しい思いをさせると碌な事をしないのだろうと思いこみ、

内心ハラハラするわたしです。

そのせいか、“さびしい”と言っているのを聞くと、同調するのではなく、

“碌な事をしない”に怯え、行動を見張ったりしている。

警戒態勢に入る。

そうでない時は、

「“さびしい”って言うけれど、そのさびしさはどんなもので、

 自分の心の中のどんなところからくるのかな?それ、考えたことがある?」と、聞きます。

「そんなこと考えたことがない。」という返事。

以下会話

わたし  「それは、何か自分の中に在るわけだから、それを知らないと“さびしさに支配されている”だけじゃない?」

ヒロクニさん「そんなふうに思ったことがない。」

わたし   「まあ、人は平家物語じゃないけど、『諸行無常の鐘がなり』って、

       無常感というものを持っているらしいけど、

       そういう“さびしさ“に近い?」

ヒロクニさん「よくわからん。夕方に思いは強く抱くことが多いけど。」

わたし   「人は、人類は滅亡するって思い込みもするでしょ。

       子供の教室でも、人類滅亡の図を描いた6年生がいたくらいよ。

       やはり、永遠がなく、滅びるということに傾きやすい傾向が人にはあるって。」

ヒロクニさん「人類は、滅亡するの?」

わたし   「太陽が消滅したら、終わりじゃない?」

ヒロクニさん「俺、今すごく胸がドキドキした。そしたら、どうするの?」

わたし   「そんな時まで生きてないから、考えたことがないわ。」

      「そういえば、恩師のO氏が『祇園精舎の金がなるの鐘が、俺に鳴ったんよ。』って、

       顔面蒼白で言われた時、

       わたしどう言えばいいのか、言葉が見つからなくて、困ったことがあったわ。

       思いこんでいるようで、何を言っても今はダメだと思ったことある。

       思い込みはいけないと思わない?

       人は悪い方には、強烈に思いこむ癖があると思う。

       あなたも。否定の感情の方が人の心には食い込み易いのよ。

       安心という事の方が、人の心にとっては難しいと思わない?」

ヒロクニさん「いやぁ、太陽がなくなることの方が気になるなぁ~。」

わたし   「科学が発達して、月に移住とかするから大丈夫よ。知らんけど。」

ヒロクニさん「太陽の話が、ショックだったねぇ~。」

こうやって、話があらぬ方向へ行った。

太陽の消滅の話が、脳にどんなショックを与えたかわからないが、

この話の後、機嫌が良くって、にこやかでした。

“さびしい”に支配されるのを防ぐことが出来たようです。

さびしそうにする姿って、どんなふうかと言うと、

何か小さくなって、ちぃ~とした感じで、ぶつぶつ言う感じかな。

そして、機嫌が悪く、何かとわたしの行動を注意したりする。

さびしそうな雰囲気が大げさで、わざとらしい。

たぶん、かまって欲しいのだと思う。

主婦業というのも、細かくやりだしたらキリがないものだし、

ケーキやお料理も工夫しだすとすることが多いもので、わたしはけっこう忙しいのです。

それで、掃除がおざなりになっている。

机の上も置いた物で一杯になっていて、机の上にのったピピちゃんが、

置いた物をグチャグチャにして、トイレットペーパーの紙で遊んだらしく、紙が山に。

また、猫の手でクイッと鉛筆を転がして、下へ落としたりとしている。

拾ってない・・、そのまま。

さすがに、来週から、年末の掃除を初めようと思っています。

このところ、忙しさは止まず、もう1つ1つ用事をこなすことにしました。

一気に用事を片付けようと、掛け持ちしようとするとおかしくなるようです。

探し物に時間がかかったりと。←これ悲しい

トホホ・・。

 

 

食卓の花

↑買い足したビオラは、白っぽい色を2色。

花びらに薄い水色があるものでビオラにしては大きい花のもの。

もう1つは、ブッチがしっかり入った薄い黄色いもの。

庭では、ジニアとビオラしかないので、それをコップに。

来年の春は、白色が基調になった花が多くなるなぁ~と思いながら見ています。

 

 

寒くなりました。

寒さが苦手な良人と一緒にいるので、我家はあまり寒くありません。

灯油代、ガス代には寒くなるでしょう。

「主人は、秋になると、この葉が散っても“さびしい”っていうんです。」とある人に言ったら、

「ご主人、素敵な感受性を持っていらしゃって、素晴らしいですよ。」と言われたことがあります。

そんなふうに言われて、ギクッとしたこともある。

目からうろこが落ちた感じでした。

確かにこういうふうに捉えた方がいい。

頭ではそうだと思っても、なかなか切り替えがうまくいきません。

もうすぐクリスマスですが、クリスマスを通り越して、気持ちは正月に向かっています。

清らかで清々しい日が迎えられることを祈って。

おかしな夫婦の会話などを読んで下さった方、あまり尊敬出来ない2人ですが、

これからもよろしくお願いします。

 

 

 

 

 

 

     

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

歩く人(作品紹介711)と 不安は不安を呼ぶ。

2022-12-07 12:37:28 | Weblog

ウォークマンと書き込まれているので、

音楽を聴きながら歩いている人なのかと、思っていましたが、

「歩いている人」なんだと思い直しました。

同じ方向に歩いている群衆と思うと、

通勤ラッシュやいっせいに信号を渡る群衆を思い浮かべます。

ここに描かれている人?この“P“の形にも見える歩いている記号は、

それぞれ違い同じものはない。

表情があるので、人格があって人間のように思えてきます。

また、中央にある記号に目がどうしても行き、

これが主人公のように、わたしには見える。

右に見える斑点模様の“P”は、子供のようで可愛い。

とぼけた表情が無垢な感じ。

水色の背景が春を思わせ、楽しい場所に行くのだったらいいなぁ~と眺めています。

色鉛筆の使い方が今と違い、水溶性色鉛筆でガランダッシュのスープラカラーを使用しています。

決して、水は使わないのが武内流。

 

ここのところ、雑用が積み重なってブログを決めた日に更新ができなかった。

市役所、銀行周り、ケーキ作り、ヒロクニさんの言いつけ事で手一杯。

その上うっかりミスが続出。

マイナンバーの申し込みでは、年金手帳を持っていくが、

ヒロクニさんの手帳を持っていっていて、また出直し。

支払いの用紙をまとめて置いて、「よし!」と思って出かけると、置いたままに。

うっかりミスがあまりにも多いので、今は満月か?

徒労に終わることが続くので、そんな事が思い浮かぶ。

その上、お出かけして女友達に会う予定もあり、出来なかったことは、のびのびに。

お出かけした帰り道、月を見ると満月でした。

そういうことなのかな?と思いながら自転車を走らせていました。

わたしが出かけるとなると、

「85歳の老人が一人で家にいるのは危険なんだ!何でこんな時に出かけるのだ。」

と、のたまうヒロクニさん。

瀕死の状態になるとは思われない。

元気そう。

「危険って何?いつもと同じじゃない?」

「だけど、何日も前に行ってもいいか聞いたでしょ?もう、無理。」

「女どうしで話がしたいのォ。女性に会いたいの。分った?」

もう、無理やり分らせる為に、語尾に“分った”を付けるようになり、

そう言い放ったら、わたしの中では分ったに違いないと思いこむことが出来る。

出る直前になると「じゃあ、色鉛筆を買ってきて。せっかく出るのだから。」と言われ、

紙に色鉛筆の色が丸く塗ってあって、番号が振られているメモを渡される。

横に2本とか本数があり、10Bを10本とかが、大きな文字で書き込まれている。

そのメモを見ると、独特な雰囲気で絵みたいなので、ちょっと含み笑いをしてしまう。

「ハイ、ハイ。」と言って、やっと玄関のドアを開ける。

そして自転車に乗り、100mぐらい行くとどっと疲れが押し寄せ、何とか突破したと安堵する。

お天気もよく、散歩日和でした。

その間、ヒロクニさんのことは心配しません。

心配や不安を持っていると、それが実現しそうだから。

反対に、ヒロクニさんはわたしが外出している間、取り越し苦労の心配をしています。

ちょっと遅いと、「何かあったのか?」という具合に。

それも行き過ぎると、不愉快で、

「どうしてそんな悪い事を想像するの?」となり、

「わたしのことじゃなくって、つまるところ自分の心配をしてるのじゃないの?」と言ってしまう。

わたしのことを思って心配するエネルギー、負の思いの波長が届いて、

本当に心配が起る可能性が高くなるのではないか?と思うのです。

「不安は不安を呼ぶ。」こんな感じでしょうか。

例えば、試験でもなんでもいいのですが、とても不安だとする。

ずっと不安な心を持ったまま勉強をしていたとする。

その不安がずっと持っているということは、心的エネルギーがかなり不安で消費されているということだ。

その分、集中できなくて、思ったより頭に入っていない。

試験に臨む。

頭に入っていないので、やはり「よし!」という気持ちにはなれないし、試験を受けながらも不安。

そして、やはり結果はバツ。

「よし!」という気持ちになれることが、まず大事だと思うのです。

「よし!」という気持ちには、潔さがあって、結果が悪くても次に望める可能性が秘められている。

ちょっと強くなったという感じ。

ヒロクニさんは、不安になり出したら、その不安を吐露しますが、

同じところをグルグルまわっているようなのです。

話が長くて、難しい言い回しが多いので、そこから逃れるために、このように筋道を立てて考える癖がつきました。

そして、1つの思考に行き着いたわけです。

「不安は、不安を呼ぶ。」と。

それに、不安や心配の発しているエネルギーは、あまりよくない。

わたしも不安というのはありますが、「それは何か?」「何故、そうなるのか?」と問うことにし、

先ほどの例のように、考えてみることにしています。

芸術家との生活は、不安になり出したら物凄く多くて、あれもこれもとなります。

それより、可能性のほうに気持ちを持っていく方が楽しいので、そうしてる。

もう、苦肉の策。

ヒロクニさんのおかげで、いろいろ考える妻になりました。

しかし、絵に関しては猛烈に「よし精神」が発揮されているようで、何を言われてもたじろぎません。

その妙な自信の根源はどこからくるのか?

時々、見ていて呆れるぐらいなんです。

 

しかし、うっかりミスが続出で見事な空回りは、自分であきれました。

普段、感じたことありませんが、あまりにもひどかったので、満月説を思い出た。

頭がまともに働いていなかったのかもしれません。

今日も、雑用に挑みます。

 

 

雑用の1つのケーキ作り。

↑サワーチェリーのタルト。

これをオーブンに入れます。

チェリーをキルシュワッサーに漬け込み、アーモンドクリームの上にのせ焼きました。

出来上がるとチェリーはやや下の沈みました。

キルシュワッサーに漬け込みすぎたのか、生地はやや水分を含んで、重い仕上がりに。

一度、しっかり冷やしてから食べた方が美味しいのが分りました。

 

芸術家の妻だからか、変なことをよく考えているようです。

芸術家に不安は付き物だとは思いますが、その不安芸術と関係ないのじゃない?というものもあり、

それには厳しいわたし。

そんな夫から、「不安は不安を呼ぶ。」という答えを出しました。

他の人が夫から、「今日はゆっくりしておいで。」と言われているのを知ると、

なんと羨ましい!とよく思います。

それ、言われてみたい!

今日も、お読み下さった方ありがとうございます。

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする