武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

ボールのように(作品紹介758)と 脳の変革

2023-12-30 13:27:05 | Weblog

この絵は冊子にされています。

見開き2ページ分から抜粋。

「クリスマスの絵ありますか?」とお尋ねがあり、

クリスマス的な絵を紹介した絵の一枚になります。

クリスマスの仕事は、武内と相性が悪く、

絶望状態な中、クリスマス的と称してむりくり選ぶことに。

そして、もちろん話もまとまりません。

しかし、わたしはこの絵の右の青いページには思い入れがあり、

気に入っているので取り上げることにしました。

個人的なカードを作ったことがありまして、

とても気に入っていたのです。

この絵を厚手の紙、インクジェット用で印刷すると水で落ちなくなる紙に印刷して、

その周りを切り取り、2つに折るとカードになります。

丁度、表紙と裏表紙のようになり、カードに最適だった。

それにおめでたい感じもして、良かったのでした。

そして、カードの存在そのものを愛でていて、

また何かあったらコレを利用しようと思っていたのです。

この冊子は、厚手の水彩紙の表と裏に両面に絵が描かれていて、

10ページぐらいの絵本のような感じなので、非売品のように存在しています。

ばらばらに出来ない。

ページの裏の絵も見開きが続いているのです。

画材は、マジックと鉛筆、アクリル絵具。

脈略がない冊子なので、色と形が呼応しているだけの冊子ですが、

わたしは好きで、ファイルを開くと手を止めて見入ってします。

ある意味、一番自由さを感じるものなのです。

意味というものを考えさせない所があります。

右の部分だけだと、

↑こんな感じに。

青い部分に文字を入れれば、年賀状にも使えそう。

これは、カードの表紙にもなったわけですが、いろいろ使えそうなデザイン。

この冊子は、武内よりもわたしの方が大切にしているような気がします。

武内の「意味不明なキュートさ」が、炸裂しているから好きなのです。

 

 

上の文は、27日に書き、今は30日。

その間、実家に所用がありブログの更新が遅れてしまいました。

街には、正月用の素材や料理が並び、賑やか。

近くに百貨店もあり、いろいろ見て回る。

しかし、百貨店というのはお値段が高い。

目を楽しませることのみに終わりました。

ヒロクニさんは、引っ越しで梱包されていた絵を引っ張り出し、

「こういうのも描いていた頃があったんだね。」と、20号の油絵をしげしげ見て、

「これは、売りたくないな・・・。」等と言っている。

また、アクリル板で作った額に納められている絵を見て、

「アクリル板というのは、いいねぇ。」というから、

「それ、額代が高くついていると思うよ。」とわたしは答えた。

2人して、「そんな高い額に入れるゆとりがあったことが驚きだ!」と言い、

「今じゃ、考えられないね。」と時間の流れを振り返る。

店頭の商品がだんだん小さくなっている現象と考え合わせると、

わたし達も考えや思う事が小さくなってきているのではないか?と危惧する。

正月の買い物も、あとは“生もち”ぐらい。

冷凍庫もパンパンに食料が詰まっている。

そして、明日31日に、煮しめや卵のふくさ焼きをして、

ゆとりがあれば“鯛のサラダ”を作るつもり。

わたしという人は、いつも「食べ物」のことを考えている人間なんだとつくづく思う。

あれこれ食品の食べ方、料理を思い浮かべている。

どういう頭の構図になっているのか?と。

脳を違うことに使ってもいいのでは?

人にも“食べ物”の話をついしているようで、「あ、またやってしまった!」と思うことが多い。

来年は、脳の変革として違う知識を入れてみては?と、

自分に問いかけます。

 

冬に入り、ヒロクニさんは相変わらず「寒い。」「寒いのは嫌だ!」と言って、

かなり機嫌が悪くなり、不平不満を言う。

寒いのはわかるけれど、だからと言って「怒る。」ので始末に悪い。

その形相は、邪気すら帯びている。

そして、部屋の温度は、温室の如く。

そこまで暖かくして、

文句を言うとは「何事じゃ!弛んでいる奴じゃ!」とわたしは思うわけです。

それに、その文句を浴びていると、穢れてくるような気も。

お清めのようなものは、ないかしら?と思い、思いついたことが・・・。

「水垢離(みずごり)」

寒い日に文句を言っているヒロクニさんを尻目に、

風呂を沸かし、湯に入る前に水を浴びた。

初めてした時は、頭からかぶると頭が“うぬっ“とうめいた。

する前は、洗面器の水を持ち上げては、何度おろしたことか。

しかし、一瞬頭の働きが止まるというか、不思議な感覚があって、

かぶり終わると“しゅわしゅわ”としたしびれのような感じで、何かが軽くなる。

それで、嫌だけれどして良かったと思ったのです。

これをヒロクニさんに報告して、その感覚を伝えると、

「意外としたら何ともないのでしょう?」とか言うのです。

わたしは、「そんなことない。崖から飛び降りるような勇気が入った。やっぱり嫌だなと思うもん。」と言うと、

ヒロクニさんは押し黙ってしまった。

それからは、ヒロクニさんが「寒い。」という度に、

「わたし、水浴びてますから。」と言うと、

冷えって顔して、押し黙るようになったのです。

バリヤーが出来たみたい。

水垢離をしている人には、受け入れられないことだと言う、ガードが出来たようです。

それよりいい事は、“胆力“が付きそうなだということ。

そういうわけで、入浴前に水垢離をしています。

ヒロクニさんのいう事や、行動に右往左往することが多い、わたしだ。

“胆力”というのは、ないよりあった方がいい。

そう思って、入浴前の儀式として取り入れました。

やり方としては、後で湯で温もってもいいのかどうか?それはよく分からないのですが、

風邪を引いても困るしなと思って、この方法になっています。

これは、冬にするのがいいのだそうです。

水垢離は、先ほど書いた“脳の変革”に効果はありそう。

こうことを書いて、思い出した冗談があります。

ご年配の男性が、「来年の豊富として、妻と言う字を、“毒”とかかないようにします。」と言っていて、

わたし凄く受けてしまいました。

ヒロクニさんにとって、だんだんBlackな妻の要素になっていったりして。

必要な“毒”ってあるよね。

 

最後は、なんとか花を付けていっている我家のビオラ。

種を継いで言っているものです。

↑黄色と茶色のビオラ。

この好きなパターンのビオラは健在です。

しかし、ただの黄色に変化してしまうものもあります。

 

↑こちらは、濃い紫色だけの花が咲く予定だったのですが、

中央に濃い黄色が出ました。

受粉の段階で、違う花の花粉がつくとこうなる。

花に蜂とか虫が蜜を吸う時に、組み合わせが増えるようです。

路地裏で育てています。

家の前は、路地裏になっているのです。

 

 

今日は、ブログを日にちをまたいで書いた為、

途中で話が変わってしまったような感じもしますが、これが私たちの年末の様子。

今から、「湊市場」に行こうか、どうしようか迷っています。

市場の雰囲気って見るだけでも好きなのです。

来年はどんな年になるのでしょうか?

水垢離での脳の変革も続けるつもりなので、良き年になって欲しいものだと思います。

今日も相変わらずな2人の話を最後まで読まれた方、ありがとうございます。

来年もよろしくお願いします。

 

 

 

 

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王と王姫(色鉛筆作品紹介757)と 正月に向けてあれこれ

2023-12-20 19:01:51 | Weblog

思いっきり抽象画で、いろいろな形が組み合わさっています。

しかし、タイトルは古風で、「王と王姫」。

王と王姫が尾赤いゴンドラ、または船に着飾って乗っているように思えます。

着飾ってと書きましたが、服なんか全く描かれてない。

何故そう思ったのか?

赤のゴンドラの曲線の優美さ、使われている赤色、

そしてカラフルな水玉、くちびるの形を総合すると、

キラキラ感が出ているように感じました。

全体的に可憐な印象も。

右上上がりの曲線によって、方向性がありそれが風を感じさせます。

渦巻きは、巻いた布のようで柔らか味があり、

中近東のエキゾチックな雰囲気も。

しかし、いきなり「王と王姫」というタイトル。

普段のタイトルの付け方ではありません。

ロマンティックな気分になっていたのか?

わたしからすると、粗野な人なのですがね・・・。

風変わりな絵ですが、モダンな感覚を楽しんでもらえればと思います。

クリスマスが近づいてきましたので、

なるだけクリスマスにいい絵を選んでみました。

 

 

気持ちはクリスマスを素通りして、師走、正月に突入します。

ヒロクニさんは、「クリスマス?それと俺がどうだというのだ。」と、

言うぐらいクリスマスに興味がありません。

イエス・キリスト、クリスマスツリー、トナカイ、サンタクロース、クリスマスプレゼントと

主要なクリスマスの要素を知りません。

以前依頼ががあったクリスマスカードの仕事も、

十字架の横に髪の毛が爆発しているキャラ?を描いた。

不穏な感じのクリスマスカードで、展示している絵を見に行ったが、

浮いていました。

祝福ムードがないカードでした。

そのせいか、そのカードの絵以後、その仕事はぱったり途絶えたのです。

それぐらい興味がないので、

「クリスマスだね。」と言っても睨まれるだけなので、

師走のムードと正月がわたしにとってのお祝い事であります。

お料理をするのも、正月にハレの日を味わいたいから。

おせちもどきを家で作った方が、味わいがあるし、

普段と張り切りもいつもと違う感じを感じるのです。

切り替わりを感じたい。

こうやって自分の中で、正月ムードと勢いを奮い立たせるのです。

その方が、来年を迎えるにあたり良い1年が送れそうな気がするんです。

 

それに合わせ、着物を着ようと思い、

封をといていなかったダンボール箱を開け、着物を物色しています。

着物にうっとりはまり、安くで買った着物はダンボール5箱。

帯だけで、ダンボール1個とふろしき包みが2個。

祖母の家にあったアンティークの着物や自分で購入したもの、

もらった着物など。

好きだと言っていると、あちらこちらから「もらってくれる?」という声がかかる。

そんなわけで、増え続けたわけです。

高価な着物はないけれど、十分楽しめるぐらいの量が。

着物の楽しみとして着物、帯、帯上げの組み合わせを考えるのは快感があります。

年を重ねたら、着物をきよう!と思っていたので、いい頃合いだ。

わたしが着物を着ると、ヒロクニさんも気分が変わるらしく、

非日常を感じるみたい。

ヒロクニさんの正月は、描き始めとしてやっぱり絵を描くことにしているようなのですが、

わたしからは、「普段と一緒だ。」と言われています。

わたしは大抵、お雑煮を作りヒロクニさんと一緒に食べ、

気が向けばお酒をちょっぴり飲みながらおせち料理を食べる。

ヒロクニさんが絵を描いている近くで。

以前の家は、庭があったので、

庭に出て新鮮な空気を吸って、まだ咲かない花を見たりしていました。

食べるものをあれやこれやと作り置きしていると、

主婦は気ままな感じを味わえます。

もう、脳内で妄想さながらシュミレーションしていますが、

現実はどうなることやら・・・。

さあ、苦手な掃除も取り掛からなくてはいけません。

ちらかっていても平気という弱点がわたしにはあります。

「掃除しなくても死なない。」という言葉も口にしてしまったことがあるぐらいだ。

本当は、邪気が一杯なんですよね。

汚いと。

そんな邪気の一杯の家ではいけないと思うので、苦手な掃除も頑張ってみるつもり。

まだ、今年も残すところ後10日ぐらい。

とにかく爽やかな正月を目指しています。

 

 

最後は、可愛いピーちゃんを。

新居に移ってから、人懐っこさがさらにました我家の愛猫。

名前はピピ。もっぱらピーちゃんと呼んでいます。

↑以前の家は階段がありませんでしたので、

ピーのこんな姿を始めてみて写真に収めました。

ここに乗って階段から人が上ってくる様子を見ているようなんです。

たまたま階段を上る時に、顔を上げたら、

覗き込んでいるピーの顔が見えるのです。

上の写真は、パソコンの前にいるわたしをひたすら見ていたという・・。

おもわず写真を撮りました。

↑顔が分かりにくい猫なのです。

だからアップで。

鼻がどこにあるのかよくわからない猫なんです。

かまって欲しいらしく、目を見開いています。

 

今日は気合を入れないと、正月らしくならない!という話。

子供の頃は、自然にお正月がハレの日でした。

大人になったせいか、自分で演出しなくてはいけない。

そんなことを思いながら・・・。

今日も私事ばかり書いてしまいました。

最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

 

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花の風(色鉛筆作品756)と 12月のある日

2023-12-13 18:03:06 | Weblog

不穏な感じがする。

不気味。

年齢がばれるけれど、大阪にある“太陽の搭”の中の展示を思い出してしまった。

子供の頃見た塔の中は原始的なイメージだった。

赤い照明に照らされた、原始時代の生き物は不気味であったが、

怖いもの見たさと、ぞくぞくする感触とが混ざり合って、印象的でした。

子供心に変な快感を覚え、帰ってから時間が経っても、

その感触を思い出し、反芻していました。

この絵にも似たような感触があり、生命を感じます。

そう思って見ていましたが、絵の裏にタイトルが書き込まれており、

「花の風」2019、となっていて、戸惑っています。

どこに花が描かれている?

風のイメージはある。

ゆらゆら揺れている植物的なものを全体から感じ、風で揺れているのだと。

そして、風船が数多く上昇し、下から上へ登る感覚もある。

しかし、花を感じるのが難しい。

この絵は、「この絵がいいんじゃない?」と、武内に薦められたもの。

当人が、いいと言うものは難しい絵が多くて、ここはわたしの悩めるところだ。

追い討ちをかけるように、

「分からないのか・・・。」と言われることがあり、

「はい。」と言うと、また「分からないんだな!」と言われ、プリッと横を向く。

気落ちするらしい。

なるべく期待に答えたいが、無理なことは無理なのです。

この絵を見ていると、

蛙の卵が孵化しておたまじゃくしが泳いでいるようにも思えてくる。

生命は感じるよね。と自分で相槌を打ったりして・・・。

海底で揺れている海草に卵が産み付けられている図とか、

細胞分裂している様子とか、そんなことしか浮かばない・・。

とりあえず、生命を感じている次第。

「花の風」というタイトルさえなければ、いろんなふうにとらえられる絵だ。

こんなことを考えている内に、

タイトルを「陽炎」と変えさせようかな?と思っている。

絵自体は、シュールな作品なんだと思います。

 

 

このところ季節はずれな暖かさが訪れている。

12月というのに、秋のはじまりのような感じだ。

買い物に行く道には、赤や黄色の葉が舞い、道の隅に固まっている。

赤い色にもいろいろあり、

その色合いの違いを見て、赤いにも種類があるなと歩くのは楽しい。

銀杏は、葉がほどんどない木も多くなり、枝だけがくっきりしていると、

この暖かさも一時のものだと思う。

今年の正月は、どんなふうに過ごそうか?

そんなことを思い浮かべながら過ごしています。

おせち料理は、ピックアップして数品にして、

ピーちゃん(猫)は年の瀬に入浴させて、

3人で「今年もよろしくお願いします。」という儀式は我家の定番です。

正月は、物価がいきなり高くなるので、

買えるものは買って冷凍しておこうか?と主婦らしく考えています。

 

ヒロクニさんと夕食の後、紅茶を入れ、自家製パンプキンパイを食べていると、

「地球上に平和が訪れることは、ないのかもしれない。」と真剣な表情。

「いつの時代も、どこかで争いや戦争がある。」

「平和というのは、戦争と戦争の間の時間のことなのか?」

と、言う。

年の瀬の毎年思うことを考え、準備を思い巡らしていたので、

いきなり大きな人類の課題を突きだされ、パイが喉に詰まる。

わたしは、人類の歴史の年表を思い浮かべ、

あらゆる年表に○○戦争と並んでいることから、「そうかもしれない。」と言った。

その後、気持ちが落ち着かなくなる。

ヒロクニさんは、ロシアとウクライナの戦争(ウクライナ応援)や、

イスラエルとハマスの戦闘をニュースで見て、考えていたようです。

ニュースでは、イスラエルのガザ攻撃ばかりが非難されているようで、

ハマスに対しての非難が少なすぎるというのが、わたしの思うところ。

ハマスがガザの一般住民を戦闘の楯にしているからの結果でもあるのでは?

卑怯な戦法だ。

わたしは、ハマス側が人道的であるはずがないと思っていて、

残虐さは、こちらの方が上だと思っています。

ニュースを見る限り、情報戦が繰り広げられているという感じだ。

イスラエルは元々容赦ない国。

ここの部分を非難されているのではあると思うが。

ヒロクニさんからの言葉にうなずいてしまい、

落ち着かなくなった気持ちを平静にするために、ちょっと考えていた。

それには、道徳心が必要ではないだろうか?

国が道徳心を持つ。

約束を守る、条約を破らない、恫喝しない、過剰な欲を持たない等。

これだけでも、紛争は少なくなるような気がします。

道徳心のない国とは?

あれこれすぐに思い浮かぶ。

今の段階では、ヒロクニさんの言うように「地球上には、紛争や戦争がなくならない。」のだろう。

(ところで、ハマスに資金援助しているイランも非難を浴びていない。)

落ち着きたいから、あれこれ考えてしまいました。

落ち葉の色をうっとりと見ている時は、幸せな感じがしていました。

ヒロクニさんは、幼少の頃が戦中だったので、ニュースを見ると感情が波立つみたい。

わたしは季節はずれの暖かさに浸って、

図書館へ行ったり、買い物の道を楽しんだり、紅葉を見たりして、

ゆるゆるしていましたが、

ヒロクニさんは違う気持ちでいたようです。

ヒロクニさんの一言で、ギャップを埋めさせられ、同じ地点に立つことに。

夫婦は、やはり同じ位置にいるべきなのか・・・。

 

 

散歩の途中で写真を撮りました。

↑なんときれいな赤!と思って写真を。

 

↑違う角度からもう一枚。

この道は急な坂道の途中で、写真を撮る為に

カートをわきに置き、手を離すと

カートは倒れ、起そうと思うとめがねが落ち、

手に持っていた上っ張りは、地べたに落ち、あたふたしていました。

この暖かさは、16日まで続くらしい。

 

今日は、とりとめのない内容になってしまいました。

わたしは、暖かさでふわふわと緩くなっていました。

よく考えると、ヒロクニさんは常に自分に鞭打ち、ゆっくりする人ではない。

私は、ほんわかしていたので、鞭を打たれたような気がします。

幸せ感というのも、いつ訪れるか分からないもの。

紅葉を見ている内に、導かれたのでしょう。

今日は、内容が薄くなってしまったような・・・。

(自分ではそう感じる)

それでも、最後までお読みになってくれた方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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三重唱(作品紹介755)と 幸運と不運

2023-12-06 16:53:38 | Weblog

今日は、最新作。

12月4日に出来上がった絵になります。

サイズは、41cm×58cm。

鉛筆に黒のクレヨン。

この絵を始めて見た時は、落書きのような印象で、

「これを買う人っているのだろうか・・・。」というもの。

妻は、現実的なので、「食えない道のりにますます行く?」と少々不安。

そんな面持ちで、壁に貼ってある絵をじーと見ていました。

2日位見ていると、目が慣れるのか、

じんわりとこの絵を鑑賞することが出来るようになった。

クレヨンの黒い線は、合唱する3人に思え、

バックの鉛筆の線をこすった風合いが、音楽を表しているような気がしてきた。

黒いクレヨンの線と鉛筆が調和し、すべてを音楽的に感じました。

そういえば、この絵を描いている時の音楽は、マーラーでした。

ブルーノ・ワルターの指揮で、交響曲第4番。

絵を描き終わってから「これ聞くといいよ。」とCDを取り出し、薦められたからよく覚えているんです。

マーラーがかかっている時は、「懐かしいな。」「久しぶりに聴くなぁ。」と、

過去の時間を思い出していました。

この雰囲気は、マーラーの音楽がするのか?

わたしは、このアルバムを聴くと、

クリームイエロー、黄色がかったベージュ色の透明度のある幕が下り、

幕の向こう側が薄っすらと透けて見える。

幕の向こうは、森で小鳥が鳴き、そこで神話的な人物が何か言いたげに、

狂おしく踊っている。

それをベージュがかった黄色い幕から感じ取っているという感じがするのです。

陳腐ですが、その人物は頭に1つの角があり男性だ。

マーラーの音楽は、派手な部分もあるのだけれど、

ある静けさが支配している。

その静けさを思い出していました。

 

武内は、音楽はとても好きな人。

ロック喫茶を経営したぐらい。

60年代は、JAZZ喫茶のマッチのデザインもよくし、数個は資料で残しています。

たまに、ヤフオクでまとめてJAZZ喫茶のマッチがある中、

武内のデザインしたマッチを見つけてしまったぐらい。

デートの時は、JAZZ喫茶も一緒によく行った。

しかし、クラッシクはあまり詳しくないので、いきなりCDを買う派。

現代音楽も好きだ。

これもいきなりCDを買う。

現代音楽なるデビット・チュードアなんかがかかると、わたしは行動が止まる。

調子がおかしくなるのです。

いろんな音楽が身体に染みこんでいる武内の描く絵は、

音楽的な要素が絵に出てくるのだと思います。

先回のブログは、ダンス音楽的な絵でしたが、

今回は三重唱的。

わたしは、一番左端の人が気に入っています。

どことなく憎めなくて、可愛い。

 

12月に入り、今年も終わりだ。

なんと歳月の過ぎるのが早いこと。

今年は引っ越しをしたこともあり、とても1年が短く感じます。

家を見つけるまで、わたしが思うような家賃で家が見つかるか?と不安でしたが、

見つかり、ホッとしてから、

「運が良かった?」と思うようになった。

【交通の便が良く、家賃が安く、やや広い】この条件を満たしています。

「運が良かった。」こういう言葉を自分の口から言うことがあるとは!

よくはわかりませんが、「念の力」というものも働いたような気もするのです。

“執念”を燃やし、突撃だ!

という感じで、着地地点に向かって、粘り強く不動産屋に足を運んでいました。

あまり狭いと、主人の仕事に差し障るし、

家賃が高いと生活が苦しくなるし、

交通の便が悪いと、車に乗らない私達は動けなくなる。

どれも重要といえば、重要でした。

近頃、わたしは「強く思うのが大切。」とよく書くようになったのですが、

それは、思わなければ、何事も実現しないと考えるようになったからです。

思うぐらいではだめで、そこに強くが加わった。

そして行動する。

これが、功を奏したのかもしれない。

思いプラス何らかの働きがあったのかもしれません。

自分の力だけじゃない。

何らかの働きというのは、何かがわたしが行動する時の瞬間や動機を与えてくれていたということです。

しらない間に何かの指図を受けていたのかもしれない。

時々、今の住んでる同じ区で家を見て見ますが、思うような家は、皆無なんです。

やはり、私だけの力じゃないと感じてしまうのです。

そして、何らかのものに「ありがとうございます。」と手を合わせました。

そして、生かされていることに「感謝」。

「運が良かった」とは、こういうことなのでは?

家を見て、気落ちする家もたくさんあったし、気後れしそうになる時もあったけれど、

(家賃の想定が低いから・・・)

とにかく思ったら行動で挑みました。

1つの出来事ですが、うまく物事が行く時には、こういうパターンはあるのだと思います。

このことをよく覚えておこうと思いました。

 

初めてということは、過去に「泣きっ面に蜂状態」が非常に多かったということです。

例えば、パートで珈琲専門店で働いていた時、腰痛になった。

痛いのなんの。中腰で洗い物をすることになるからなのですが、

何とかする為に買った健康グッズの金額が・・・、という。

痛いし出費はあるし、という時にコップや皿を割ったら600円の弁償という規則が出来て、

ぶつけてもないのに、持った瞬間コップにヒビがいく。

アルバイトの子が持った瞬間サーバーにヒビがいって、パリンと崩れ落ちる瞬間も見た。

不思議なんですが、持っただけで割れていました。

これって、どういうことなのか?

気持ちよく働いていた店員は、不満を持つようになり、

何かあれば「弁償だ。弁償だ。」と口走るようになり、店内はあまりよくない雰囲気に。

自給が700円ぐらいなのに、割ったら1時間分がパーになるからやりきれない。

だから、皆やっきになっていた。

割ったコップや皿もあるけど、それ以上に持っただけでコップ類は割れる、

その上サーバーが置いただけで割れるというのが続出。

現場で、その瞬間をつど見ているので、嘘ではない。

使い痛みしてるのと違うかなと。

1つ疑問があって、定価600円のコップと皿だが、弁償で利益分まで払う必要はあるのか?

定価で弁償というのが負に落ちない。

思い切って、わたしは、社長に直談判。

「割って申し訳ないということで、100円、200円の詫び代というのは分かるのですが、

 定価で弁償というのは違うと思うのですが。

 この会社って減価償却費はどうなっているのですか?」というと、

翌日、弁償がなくなったのです。

しかし、社長はわたしとは口を聞かない方針にしたらしく居づらくなった。

腰痛も激しくなって、やめることに。

しかし、持ったり置いたりしただけで、割れる事象はなんだったのか?

今もって謎。

それからのパート先でも、間の悪いことや、濡れ衣とか、不運が続く。

これらの不運のことを思うと、いったいなんだったの?と思う。

 

だから、「運が良かった。」と自分の口から出たなんて!と感激気味なわけです。

1つ思う事は、不運の頃は感謝がなかった。

不運の中でも、感謝出来る事項というのはあったはずだ。

不満が不満を呼んでいたような気がします。

自分で文章を書きながら、

改めて「強い思い。」「そして、努力と行動」「感謝」を心がけようと思いました。

 

最後は、私自身が懐かしいと思う写真。

↑引っ越すまえの家にて。

わたしは、髪を染めているので40代後半の頃と。

この家の庭には、遊びにくる猫がいて、「来た!」と言っているのか、

「ギャギー!」と一声発する猫が。

それが太くて、みっともない猫。

ヒロクニさんは、その鳴き声から「ガギー」と名をつけていて、

「ガギー、君は醜いね。」とよく声をかけていました。

来ると、家にある木の幹で爪とぎをし、庭の真ん中にボテッと座る。

抱いて、ひっくり返すことが出来ない猫でした。

性格は、至って温厚。

ちなみに、わたしは不運から少しずれ始めてきた頃で、

楽しい時間が増えてきた頃。

アトリエの子供達と奮闘せねばならなくなって、

一緒に笑ったり、時に怒ったり。

怒るといっても、ヒロクニさんに怒るのと違い、

対等に怒っていたわけではないから、どこかにゆとりがありました。

 

今日は、「運が良かった。」から不運の話まで。

いつも話の流れは、書くにまかせているから話が変な方に急展開。

なんか自分自身のことを等々と書いて恥ずかしさも感じますが、

自分のことを例に上げるのが一番いいだろうと。

もう一度、「運が良かった。」ということを言ってみたいものだと思います。

今日も最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

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