武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

花-メモ(作品紹介727)と 春とタンゴ

2023-03-31 22:00:58 | Weblog

この絵は、11cm×13cmの小さな絵で、トイレの柱に貼られていたもの。

メモの1つでしょう。

このメモは、冬の間から目を惹きつけるものがあって、

時々、「今日はこの絵にしようかな?」等とよく思ったものです。

その度に、「いやいや、この絵は春になるまで待っておこう。」と何度も思いつつ、

この絵にぴったりな日がやってきた。

庭に春がおとずれ、庭の花達とコラボする日。

メモなので、太い水色の線は、空間のことを考えていた(思考していた)のではないかと思います。

青い中央の線は、猫を飼っているわたしとしては、

植木鉢にからにゅっと猫が顔が表したように思えたりします。

横の並んだ線は、胴体なのです。

花を描く。

花は、武内の絵では、いつもこの形。

今回の花の絵は、赤色が多く使われ情熱的な感じで、

春のふわふわした感じがしません。

暖かい日に、我家ではタンゴがかかっていました。

どちらかと言えば、タンゴの雰囲気の方がしっくりきます。

この絵は、冬の間に描いたものです。

春のことを思って、描いたのかもしれません。

 

 

春の陽気な日には、こちらのアルバムがかかっていました。

この2枚。

ちょっと古めかしいものだったみたい。

春になって、花が顔を出し、庭の雑草と交じり合って地面が見えなくなってきている様子が、

タンゴの音と合わさって、いい感じだなと。

台所から流れてくる音楽と、春の陽気が感じられる昼下がり、

脳内で視覚と音がミックスされ、意外と春とタンゴは相性がいいのかな?ということを考えていた。

その一時は、エアポケットに入っているような時間でした。

視覚と音がこんぐらがって。

わたしがそんな時間に陥っている間、ずっとアトリエからは絵を描く音がしていました。

このアトリエからの音、これはわたしのとっては日常が続いているという証しなのだなと思うと同時に、

また武内の実存の証しでもある音だと思う。

また、作品と武内は持ちつ持たれつの関係なんだとも。

そして、作品と武内はお互い等価なんだ・・・。

作家と作品の微妙な関係というのをはじめて考えました。

春の昼下がり、哲学者でもないのに「存在理由」とやらに思いがいく。

その音というのは、紙からビシッビシッというものやら、

シュシュと鉛筆が紙の上を走る音。

時折、バリッ、バリッと紙が折れるような音。

この音が、存在理由を物語ってくれるという、変な春。

 

 

庭は、ムスカリが満開で、チューリップが咲きはじめたところ。

↑中央のチューリップとムスカリは、昨年掘り起こすのを忘れ、植えっぱなしになっていました。

その部分は、雑草も混ざり合いワイルドな雰囲気があります。

チューリップの曲がり具合も、踊っているような感じなのです。

 

↑今年はチューリップの球根を購入していなくて、毎年掘り起こしているものだけを植えました。

チラチラと自生しているイフェイオン(ニラ花)が星みたいな花をつけています。

そこらじゅうに生えているので、この花が満開になると、圧巻です。

今は、咲きはじめ。

 

↑遅めに咲く水仙とイフェイオン。

この星みたいな花は、小さな球根で増えていっているよう。

 

↑株が大きくなったタンポポとムスカリ。

タンポポを見ると、見てきた刺しゅうの図案を思い浮かべてしまう。

アールヌーボーふうの刺しゅうもあって、西洋ではタンポポは愛されていたのね!と、

納得したり。

葉っぱの形がデザインするとモダンになるのもいいのかも。

植物は、装飾に取り入れられていることが多く、美しいものの源泉なんだなと思います。

左下あたりに、ルピナスの放射状の葉が見えます。

 

↑日付が違うのですが、このあたりはこんなふう。

それと、夕方に撮った写真です。

タンポポが異様に見事。

葉が若いものは、グリーンサラダに使います。

これは、苦味のあるグリーンリーフのかわりになります。

お浸しにして出したら、「これはやめて。」とダメだしされました。

「そうゥォ?」と言って、夫の分まで食べたりしました。

 

春、花が咲き、若葉がまぶしくなる頃というのは、

伸び出る感覚を感じることができる季節で、外に向かうような気持ちになれるのがいいなぁと思います。

庭の花が美しいな!と思う時、これを創造した神がいるなら、

なんて素晴らしいのだろうと本気で思います。

春は、わたしにとってそういう季節でもあります。

 

哲学的になったついでに、図書館でギリシャの哲学者“プラトン”を借りてきました。

はたして、理解できるのか?

大げさなわたしの話しに、最後までお付き合い下さった方、ありがとうございます。

 

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放課後(色鉛筆作品726)と 光陰矢の如し

2023-03-23 18:26:18 | Weblog

オレンジ色と黄緑が、実物は鮮やかなのですが、出ませんでした。

この2色は、蛍光色なので、スキャナーで画像を取り込むと、ほぼ無色になってしまいます。

写真で写すとなんとか色が出るので写真からのもの。

今、WBCにて日本が優勝し、沸いています。

ヒロクニさんも、時々テレビでの中継を見ていました。

子供の頃は、野球選手になりたかったというくらい、

少年野球にはまっていた時期があったそうです。

右の並んだ5個の丸を見ると、「野球の球」に思えるのは、その話のせいかも。

中学は碌に登校せず、放課後、野球をしに登校するという生徒。

そんな日の夕焼けの風景なのか?と思いながらこの絵を見ていました。

その頃の校舎やグランドが描かれているようにも思えます。

昭和12年生まれなので、昭和溢れる風景を想像するのでした。

 

 

月日が流れるのは、早い。

何気なく、ヒロクニさんに「北野ガーデンが閉館したんだって。一緒に行ってから1年になるね。」と言った。

すると「えっ、あれからもう1年だって!3ヵ月前のように思っていた!」と、真顔で言う。

3ヶ月前と思えるほど、ヒロクニさんの中では月日が早く去っていているようで、

同じ空間で生活していても、時間の流れが違うようです。

3ヵ月前には、いささか驚いた。

ヒロクニさんも、少し年を取ったのか、同じ質問をされることが多い。

「今日は、何日?」

「今日は、何曜日?」

「明日の天気は?」

この3っの質問が、毎日の中でどれだけ繰り返されるか・・・。

同じ質問が5度目に入ると、「カレンダーを自分で見なさい。自分で見ないから忘れるんだって!」と言い、

「ボケているの?」と言うと、

ナンだと!その辺の老人と一緒にするな!という顔で、睨まれる。

くわばら、くわばら、と刺激しないように退散する。

わたしも北野ガーデンに行った日から1年経った今、何を1年していたのだろう?と思った。

家事をしていた。

ご飯を美味しく食べていた。

息していた。

最大のこととして、7月から仏教でいうところの“内観法”を今まで続けている。9ヶ月になる。

この9ヶ月は、楽な姿勢でじっとしている時間が多く、

人が見ていたら無益な時間を過ごしているように見えると思う。

幸い、ヒロクニさんは仏教に知識があるので、説明すると、

それをしていると分かってくれているのでありがたい。

歯軋りの元を断つ!

これが目的でしています。

しかし、その原因として肩こり、首のこり、顎の付け根、足、胸、腕、足の指先まで

全身に変化を感じることから、単なる歯軋りではないみたい。

時々、いったいなんだろうと何度も思う。

今は、首がゴリゴリいわなくなり、首がよく回るようになった。

不思議なのですが、効果としてはそれが一番変わったことでした。

今は時間があれば、内観法をしているのです。

あと、もう少しで歯軋りの元を断てそうな気配もする時がある。

今は、歯軋り自体は全くしなくなった。

それと、顎も幾分か楽に、力が抜けたような感じになっています。

仏教の教義、実行編に明かりを見出した次第。

はじめて、うまくいった過程を実感できて、このことだけが1年の間の大きな変化こと。

もうそれ以外のことは、淡々と過ぎ行く日々だったのだなと思い返しました。

こういうことを書くと、ヒロクニさんも難儀な妻を持っていて大変だなと思います。

部屋でじ~としていて、不気味な妻。

普通の人だったら、「何してるんじゃー!気持ち悪いやめろー!」ってなると思うのだけど、

説明すると「分った。」と言ってくれ、変化を話すと、

「そんなふうになるというのが信じられない。ふぇ~!」と驚いてくれたり。

そういう面では、とてもありがたい。

そんな日常を送っていると、猫のピーちゃんだけがわたしを許してくれなくて、

顔の前で鳴いたり、わたしの手をなめてみたり、時に顔を殴る。

かまって欲しいらしく、頭を撫でるまで、いろいろ仕掛けてきます。

ピーちゃんとヒロクニさんて、よく似ているなと思いながら、

「ピーちゃん、そんなことでどうするの?

 ヒロクニさんと似てきちゃって・・。

 わたしが大変じゃない。

 ピー、分った?大変なんよ。」

と言いながら、頭を撫でます。

ゴロゴロ~、ウググゥ、と喉をならし、ご機嫌なようす。

あんまり、分っていないみたいと思いながら、「ピーは、可愛いね。」とピーに言います。

 

過ぎ去った日々は、「光陰矢の如し」といいますが、

まさにその真っ只中。

人生後半に差し掛かり、どうなるのでしょうね。

 

 

 

そんなことを思いながら、もう作るのは何個目だろうと思ういちごのケーキを。

↑これはケーキの間の中の部分。

スポンジケーキを3枚に切って、間にクリームといちごをはさんでいく過程です。

この上にさらに生クリームを薄く塗り、生地をのせていきます。

今、いちごが安くなってきているので、作りどきなのです。

2人で食べてしまいます。

 

今日は、1年の時間を振り返り、仏教の内観法の話しになってしまいました。

内容に興味を持つ人は少ないだろうなと思いつつ、

振り返るとそれしかしていない日々。

そんな内容を読んでくれているとしたら、感謝しかありません。

お読み頂いた方ありがとうございます。

 

 

 

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カタカタ、トコトコ(作品紹介725)と 止められないこと

2023-03-17 00:35:23 | Weblog

絵に日付がしっかりと書き込まれており、2003年1月12日に出来上がった作品だ。

足がついている“子供のおもちゃ”を連想させる。

大きい2つの円を見ていると、可愛いロボットのような気もしてくる。

こういう発想はどこから出てくるのか?

やっぱり、武内の絵は個性的だと改めて思う。

それでいて、幻想的な雰囲気。

絵を見ているうちに、良人の計り知れない“才”について考えてみました。

空中に浮かぶ丸い顔。

この表情をじっと見ていると、可笑し味が湧いてきます。

特に、右側。

この表現は、他の追随を許さない表現だと。

もっと美術的にいうならば、武内はシュールレアリストなんだと思います。

 

 

春になってきた。

陽射しが暖かい。

庭のムスカリやヒヤシンスも芽を伸ばし、もうすぐ花が咲く。

春の到来に期待をよせ、吹く風に身をゆだねる。

「いい気持ち。」と思って家に入ると、

ヒロクニさんは、「俺、絵を止めようかな、て思うんよ。どう思う?」と。

時々こういうことを言い出すことは、ちょくちょくあり、わたしはいつも同じことを言う。

「どう思うもなにもないわよ。

 まず、3日ぐらい絵を描かない日を送ってからにしてくれる。

 止めれるかどうかが問題でしょ。

 考えるのはそれから。

 でもさ、止めたら何をするの?

 家事でもするの?」

家事の部分で、顔が怒りがちになる。

プイッと顔を横に向け、アトリエに消える。

そして、止める話は立ち消えに。

これがいつものパターン。

今回は、ちょっと付け足しを思いついた。

「だけどさ、あなたって普通は晩年になったら、絵のスタイルが固定して、

 そのバリエーションで同じような絵を描くようになる人が多いのに、

 未だに、新しいスタイルの絵が出てくるじゃない。

 これって、凄いことだと思わない?

 絵を止めるのは、好きにしたらいいと思うけど。」

わたしの回答に新たなセリフが加わった。

言いながら、わたしの言うこともバージョンアップしたな、と感じていました。

ヒロクニさんは、「確かに・・・。」と考える人になってアトリエに消えた。

しばらくしたら、アトリエから紙に鉛筆を走らす音が激しく聞こえてきて、

わたしは、「しかし、絵を描く行為って、こんなに音がするものなのか?」と思いながら、

一件落着と手のひらに拳を一つ打った。

絵を止めるというが、それは出来ないと思っているのです。

絶対に無理と判断している。

入院している時も制作していたからね・・・。大部屋で。

以前、疲れていると言うので、

「今日は休みにして、1日ぐらい絵を描かない日があってもいいのじゃない?」と休むのを勧めたことがある。

そうすると、「卵焼き焼いて。」とか、「肩揉んで。」とか、今日の晩御飯は何?」とか、

部屋の様子を見て、「これは何でここに置いているの?」とか、手当たり次第に何で?と聞いてくる。

普段、絵を描いていると読書も碌に出来ないとぼやいているので、

「こういう時こそ読書はしないんですか?」と勧めてみた。

返ってきた返事は、「急にしようと思っても、無理だ。読みたくない。」

何だか駄々っ子のようになっていて、子供が母親にまとわりついている状態なんです。

主婦業というのは、小さい用事が重なっていたり、

たいしたことはないのだけれどやっておいた方が、

後々混乱しないための予防線のようなことがあるので、

やらないとすっきりしない気分に陥る種類のものもある。

それが全然はかどらない。

あまり相手にしてはいけないと、心を鬼にし、

言っていることが聞こえてきても、“聞こえてないフリ”をして、“用事に集中しているフリ“をする。

そうしていると、わたしの周りにヒロクニさんの気配がしなくなった。

そう、アトリエでいつものように絵を描いていました。

絵を描かない宣言は、一日持たないのです。

今回の止めようかな?と言った後、アトリエへ行ってから、夕食前まで制作です。

夕食は疲れてあまり食べられないらしく、

「残しているのは、おいて置いて・・・。後で食べるから・・・。

 ちょっと疲れすぎて喉に通らないから。」と言い、「お茶いれて。」と。

食器棚にもたれながら、あえいでいます。

こんな調子なのに、どうして絵を止めれると思うのか?

わたしは不思議なのです。

 

 

庭では、やっと種を蒔いたビオラが。

↑見やすいように写真を大きくしました。

わたしの気に入りの「クラッシクなビオラ」と名付けた重い黄色のビオラが2苗開花。

今年は、今までになかったレモンイエローの黄色いビオラが登場しました。

ブルーぽい紫。黒っぽい紫、白、ピンク、同じものがない2色展開のビオラ。

まだまだ、つぼみが一杯。

↑この写真は夕方にとったもの。

昼間はつぼみだったのに、夕方になったら咲いていました。

この黄色いヒヤシンスは植えっぱなしにしているものが、毎年咲いてくれるのです。

↑こちらも夕方にとったもの。

こんもり生い茂った野生のビオラ。

ビオラのやや左手前には、随分前に植えつけたヒヤシンスのつぼみが。

ビオラの後ろには、ジャーマンアイリスの尖った葉が大きくなろうとしています。

春は、やっぱりいいな!

 

時々、「絵を止める。」って言うのです。

絵を描く行為を止めることを、一日も我慢できないのに・・・。

この道、70年。

こういうふうに一筋に続けてきた人だからこそ、思うことなのかもしれません。

今日も最後まで、お読みくださりありがとうございます。

 

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楽しい一日(色鉛筆作品724)と 家探しあれこれ

2023-03-09 17:40:32 | Weblog

武内から手渡された3枚の絵。

これが最後の1枚になります。

わたしが選ぶ絵と違いかなりハチャメチャ・・・、つまりアバンギャルドなもの。

今日は落書きのような雰囲気もある色鉛筆画。

かえる?のような顔に傘のような胴体をしたキャラクターが目につきます。

コヤツがお出かけし、驚いたり、嬉しくなったり、喜んだりと

いろんなことに出会った様子が描かれているような感じがします。

夜、今日の一日を振り返る。

振り返った日が、この絵のような気持ちであったなら、

やはり幼少期だなぁと思う。

幼い日に、ふと「この道をずっと歩いていくと、どうなるのなろう?」と疑問に思い、

「遠くへ行ってみよう!」と決心し、知らない場所まで歩いていく。

ドキドキ、ハラハラ。

また、基地作り等の遊びに興じて、ついでに落とし穴などを作っていたにもかかわらず、

別の子が作った落とし穴にはまるバカなわたし。

その時の気持ちを思いだす。

武内の絵は、アバンギャルドなスタイルなのに、懐かしい時間、

幼少期に流れる独特の時間を思い出させます。

自働手記的に走っている線が、あっちへ行き、こっちへ行きと

移動していて、その腺がからまっている感じもある種の感情を呼び起こします。

不思議だ。

個人的にこのかえるのようなヤツ、何か好きです。

 

 

引越しの前準備として、ネットで家を見ていました。

ヒロクニさんの希望で、神戸市を。

我が夫は神戸の生き字引といわれるだけあって、土地勘を持っているのに感心する。

「ここは?どう」と聞くと、

「そこは、海には近いだろうけど不便だよ。山陽電車しか通らないし。」とか、

「ここは、いい所と悪い所がバラバラに固まって混在しているから。」とか、

「あそこは、買い物はしやすいと思うよ。」と、いろいろ教えてくれる。

わたしは、間取りを気にする人で、家賃が安くて部屋の多い物件を見るとチェックを入れている。

「油絵と色鉛筆を平行して絵を描けたらなぁ。」の主人の呟きを配慮してのことだ。

そんな間取りの家を見つけたら、興奮したりして「わたし、この家いいと思うわ!」と声を大きくする。

しかし、場所がかなり辺鄙な所で、買い物はどうするのだろう?なところ。

こんなに安いって、「事故物件」だったらどうしようということも浮かぶ。

安くて広すぎるかな?という物件もあって、事故物件?が浮かぶ。

わたしは、幽霊が怖いのだ。

今の家も始めの頃は、電気をつけぱなしにして寝ていて、大丈夫と思ってから消すようになったくらい。

引越してから、近所の方がこの家の住人の人柄を話してくれて、

とても優しく、りっぱな方だったのに偉そうにせず、聖人君子的な方だったとお話をされ、

「だから、どういう人がこの家に引っ越してきたのか?」を確認に来たと言われた。

そこで、えっ!と3人の前で固まった。

「そうだったんですか。だけど、わたし達はそこまでの人かは・・・。」と言いかけていると、

「ホッとしたわ。」と中の1人が言い、他の人が肯く。

そして、3人が目の前で肯いているかと思うと、去っていった。

こういうことがあって、育ちがよく優しい人柄しか想像できず、

家にそのやさしさが残っているように感じるようになった。

そして、幽霊のことは考えなくなった。

今、わたしがいいと思う物件は、「幽霊は大丈夫なのか?」が問題。

まず、物件を見にいってから何かを納得するしかない。

ヒロクニさんは、絵を描くので「古くて、きれいじゃなくてもいい。」

だけど「マンションは止めて。」と言う。

ヒロクニさんは、絵が描き易くなる環境を望み、

わたしは、日常の買い物がとりあえず不便すぎる所はダメという条件。

それと、ヒロクニさんが押入れに寝るのをやめれるような場所だといい。

 

ヒロクニさんは、徳之島(鹿児島県)から、神戸に出てきてから、

神戸を転々として生活していたらしく、「北野」の洋館にいた頃もあったそうで、

「北野は、買い物が不便でね。」とその頃の話をする。

わたしは、洋館というものに憧れがあるので、「素敵じゃない。」と言うと、

「けっこう不便でね。寒いしそんなにいいものじゃない。」と返事が。

寒さが苦手な良人は、宝塚市を極寒の地と思って冬が来たら呪っているけれど、

神戸も寒いと思う。

いい部分は、海とも縁の深いヒロクニさんは、海が近くなるのはいいことのように思われる。

土地というか、場所って、肌合いがあると思うのです。

春は、それを確認する季節になりそう。

今居る宝塚は、山っぽいのです。

ヒロクニさんなんか、「山里」呼ばわりよ。

しかし、幽霊が怖いわ。新居に出たらどうしよう。

 

ちなみに、過去不動産屋でパートに行ったほんの短い期間に、質問をしたことがあります。

3人の男性社員を前に、「時々、幽霊が出る家とかあるのですか?」と。

すると、1人がすぐ言うには、

「どこの家でも、亡くなる人はいるのに、今時そんな話を言うなんて。笑かしよる。ハハハ・・。」と。

その言い草が気に入らなかったので、ちょっと他の人に食いつくと、

「そういえば、三半規管のおかしくなる家があるな・・・。」とポツリ。

もう1人が、「あの家?確かにめまいがしてくるような気がするのはなんでだろう。」と話し合っていた。

だけど、事故物件ではないそうだ。

話し込んでいる内に、「そういえば、お客さんを二度ほど連れて行った家でさ、

『僕、この家に来るとなんか気持ちが重くなって、しんどくなるような気がするんです。』て言って、

気に入って二度も見に行ったのに、契約が成立しなかった家があったなぁ~。

実は、首吊り自殺があった家で、やっぱりそんな事関係あるのかな~。」と。

軽薄に笑っていた人に向かって、「やっぱりあるみたいだよ。」と、鼻で笑った奴に促しといた。

インスタントコーヒーを3時に事務員(わたし)が入れるのですが、

それぞれにコーヒーの粉、クリープの量、砂糖の量が皆微妙な量を欲求するので、

こんな職場初めてと思いながら勤めていました。

霊感とかないくせに、幽霊を気にしています。

 

 

↑このところ、すみればかり写真に撮っています。

花数が増えていっているので、つい感激して写してしまう。

一期一会というか、今年は野生の宿根すみれが見事な春になっています。

昨年は、気にとめていなかったのが不思議なくらい。

 

引っ越す家を決めていなくて、探す段階は楽しいことのようです。

想像?妄想が膨らんで、イメージを描いたりしています。

どうなることやら。

わたしの幽霊怖いという気持ちにつきあって、読んで下さりありがとうございます。

やはり運気が悪くなりそうな家は、避けたいと思ってます。

 

 

 

 

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祭り(色鉛筆作品723)と 人類はまだまだ野蛮

2023-03-02 17:34:25 | Weblog

何かのおまじないか?

そんな印象を受けます。

この絵は先回の作品と同じく、「これを取り上げてみてよ。」と渡された3枚の絵の1枚。

茅の輪をくぐる行事がありますが、それを思い浮かべたりしましたが、

でも、違うなぁと。

人型であることは確か。

右下にいる女の子が「ほら。見て。」という眼差しで、こちらを見ています。

家で言うセリフに、「ピーちゃん(猫)見て、ヒロクニ先生ナンかおかしなことしているよ。」というのがある。

そう言ってから、「見てごらん。」と、言ってピーを抱き、わたしの顔と並べ、

「2人で見ていま~す。」とわざわざヒロクニさんの周り半径1m半を包囲する。

すると、キッとした目つきで「じゃまだ。」と言う。

何をしているかというと、踊っていた。

CAN(ジャーマン・ロック)を聴きながら。

よくCANで踊れるなぁ~と感心する。

「CANは嫌い。」と宣言したせいか、「お前に、CANが解るか?」と度々言われています。

珍しい生き物を見るかのように、ピーを抱っこしながら移動したりして、

「変だね。」とピーに語りかける。

わたしは、踊っている武内からカッコイイダンスというより、

古代のお祭りに近い呪術的な動きを見て、

まあ祭祀に近いと言えば近いかもと思うのでした。

今回の絵は、あまりにも難解なので、いったいどういう絵なのか聞いてみました。

「丸が描かれているだろ。その中に色が配置されていて、

 ピンクがあって、色の分量を見ているのだけどね。

 黒の線が伸びていっている感じを確かめたりね。

 何か面白い感じになっているでしょ。」

こういう答えが返ってきました。

この左端の女の子は?と聞くと、

「こういうふうに絵を統合していってるの。

 こうやって、色やら形をどんどん統合していく、その一部。」

わたしにすれば、質問斜め上の回答なのです。

こういう絵が出来ましたというのではなく、

この絵の面白さを確かめつつ、次に登場させる。

次の絵には統合させたものを描くのだというふうに理解してみました。

いつもながら、抽象的な言語でわかりにくい。

もっと違うことが聞きたかったのですが・・・。

だた、「面白いな。」と言う箇所は、わたしも何か面白いと感じていて、

この部分は共感できるのです。

これが、わたし達の絆かもしれません。

 

 

ピンクの絵で春らしいくという思いと同時に、

春一番が吹き、春の到来を感じています。

昨日、ブログを書いていたのですが、

暖かくなりぽかぽかしていたので庭仕事をしているうちに、

気持ちが緩んでしまい、パソコンの前でボーとしていました。

書いてもまとまりがなく、文脈がバラバラになり、

それを読んではボーと眺めているだけになって今日に。

なんともいえない心地よさにひたっていたようです。

高くついている暖房費からも、開放されるのかと思うとホッとします。

コロナも落ち着いてきて、これもホッとしている。

しかし、ロシアとウクライナの戦争が長引いていることを考えると、辛い。

1年も続くとは・・・。

世界は、まだまだ野蛮なのだと思いました。

短期で終わらなかったことから。

そして、ロシアの二番手として野蛮で狡猾な中国が控えている。

国際社会での発言でも、お前が言うか?の内容を平気で言う。

嘘も平気だ。

気球の問題で、「アメリカからの気球が飛んできていた。」とか。

偏西風の関係で、アメリカから、中国へは流れることはないのに。

日本も防衛に力を入れておいて欲しいと切に願っています。

きれいごとで「仲良く」とか、「対話」というのは、

信頼とか道徳的に同じレベルにいるもの同士で通じるものだと思うので、

戦争にならないためにも、武力というものが野蛮な相手には、必要だと思う。

教養があって、志が素晴らしい人が、酷いことをされている人を見かけ、

人を助けようとしても、あまりにも弱々しい人であった場合、助けることは出来ない。

反対に、止めようとして一緒に酷い目に合うのがおちだ。

そこで、それではいけない!と思い、武術を見につけ磨く。

そこで、やっと志が果たされる。

志が行動できるようになる。

武士が、文武両道を唱えていたのは、そういう意味があると思う。

江戸時代というのは、科学は発展していないけれど、

日本のパクス・ロマーナだったと思います。

時々、江戸時代のことを考え、発展のあり方をかんがみると。

文化面での華々しさも。

あれこれ考えるうちに人類は、いい方に成長しているのだろうか?

そんな疑問も出てくるが、

まあ、人のことはさておいて、

あまり素晴らしくないわたしを磨くのが筋なんだろうと思うのでした。

*パクス・ロマーナは、ローマの平和の意味。

 ローマ帝国の時代、繁栄と200年の平和が続いた時代のこと。

早く、ウクライナの人が平和な日常をおくれますように。

春のうららかな日に、こんなことを考えました。

 

庭では、野生のすみれに花がたくさん。

↑にょきにょきと、花が葉から飛び出てきました。

↑上から見ると、こんな感じ。

冬の間、食卓へ花を飾るのに摘んでしまうと、葉しか残らない感じでしたが。

↑端の方まで、花が一杯に。

春の風とともに、花がたくさん。

↑鉢植えのビオラ。

今年は、地味で白っぽいビオラを買いました。

意外と、いい感じに食卓に置く花として、映えてくれます。

もっと暖かくなると、たくさん花をつけるでしょう。

 

 

わたしがヒロクニさんをからかい、ふざけたりする日常の一コマ。

お爺さんとおばさんが、よくやるなー(棒)

難しい絵でしたが、考え込まなければ、見て大らかな気持ちになれると思います。

「大」の字が、描いてあるような感じもするし。

今日も最後まで、お読み下さった方、ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

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