武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

噴火(色鉛筆作品636)と 芸術家の甘え

2021-09-26 09:43:06 | Weblog

マグマが噴出しているように見える。

そして、怒れる人がいる。

怒りのエネルギーが、爆発しているようだ。

この絵は、サイズの小さい作品で11cm×10cmぐらいの大きさ。

この絵は、小さいのですが、武内のアトリエでよく見ていました。

机の上をあっちこっちよく移動していて、置く場所が変わっても

色と画風にインパクトがるので、目に付く作品。

「いったい何だこれは?」と悩ませる作品が多い武内ですが、

わりとストレートな絵柄だと思い取り上げました。

 

あちこちの机に絵が散らばっています。

↓こんな風に

右にある小さい絵も、上記の作品とほぼ同じ大きさ。

左は、描きかけの絵のようです。

右の上にある、青が使われている小さな絵を武内が持ってきた。

「さほり、これどう?」と。

私は、「なんか、赤い口があるから顔に見えてしまって、怖いよ。」

「顔に見えないほうがいい。そうしたら風景みたいなのに・・・。その方が好き。」

「赤い口の部分を隠して見たらホッとするわ。」と、つい言ってしまった。

いい所を見つけて、褒めるように心がけているが、つい口が・・・・。

しまった!と思ったが、武内はすぐアトリエに、フイルムが逆回転するように引っ込んでいった。

傷ついた心を立て直してるのかもしれない。

画家が身近な人に絵を見てもらいたがるのは、天分なので自然なこと。

しかし、見せられる方はどういう反応をしたらいいのか、悩む時があります。

 

ピカソの伝記を読んだことがありますが、ピカソも同じようなことをしていたらしい。

ピカソの娘(子供の頃)が一緒に住んでいた頃、毎日作品を見せられて感想を聞かれたという。

その娘は、一緒にいたらずっとこれが続くのかと思い、離れて暮らす決意をしたとあった。

絵を見せ続けられて、毎日、意見聞かれることに苦痛を感じ、これが続くのか・・・という

恐怖から家を出たという。

他の事では、妻であったフランソワ・ジローも毎日の事として、

ピカソに「私は老いぼれで、もうだめだ。もう絵を描く才能もなくなって、終わりだ。」と言われていた。

フランソワ・ジローは、

「あなたは、まだまだ若々しいし、素晴らしい才能を持っている。これからよ。」と

言い、毎朝、慰めていたという。

そして、ピカソは立ち直り絵に向かう。

これが、毎日続くらしい。

フランソワ・ジローも疲れたようで、

「もう、私は老いぼれで、もうだめだ。」と聞くと、

「じゃあ、死んだら?」となり、

「もう、私には才能がない。」と言われれば、

「それがどうかしたの。」

と、そっけない態度になり、ひとり瞑想にふけっていたらしい。

その後、家を出ていくのでした。

(若い芸術家の元へ。この変はフランス人らしい感覚である)

私は家を出ないけど、この感じ、凄くわかる。

身に覚えがある感覚です。

 

ヒロクニさんもこんな感じになる時があります。

(芸術家って、皆こんな感じなのか?)

「俺は、もうだめなのかな・・・。」と言い、

「絵を止めようと思うのだけど、さほりはどう思う?」って聞きます。

一応、慰めたり励ましたりするのですが、何度も言うので、慰める方も大変で気力がいる。

だから、疲れるのだろうなと、フランソワ・ジローのことを思いました。

 

似たような事では、

若い頃(私28歳)、ヒロクニさんから、「山に入る。そして・・・。」と、言われた話があります。

その深刻そうな顔の表情から、そして・・・・の後の言葉は?

と、思い、それって死なのか?と。

「山に入る」ってどういう事?と、戸惑っていた。

何度も、何度も言うので、とても心配してしまったことがあります。

とにかく、人生経験が浅いので、どうしてそんなことを言うのだろうと思い、

非常に悲しく、私の中で不安が大きくなり、心細い気持ちになったものです。

心がずきずき痛み、悲しくなった。

とにかく、毎日言うので、疲れてしまって、しまいに、

「そこまで言うのだったら、山へ行ったらいいと思うよ。」と、優しく言ったのです。

しょうがない。

そうしたいのでしょう。

もう、止めないと。

“えっ”という顔をされて、なんか風向きが変わってしまったという顔をされました。

この辺から、妙な力強さが私にみなぎり、強気になってきて、続けて私は言った。

「山へ入ったらいいと思うよ。」と、私。

「どこの山に行こうと思っているの?」

「山へ入ってから、死を考えるのなら、まず山へ行かないといけないね。」

「それから、どうやって死ぬか考えるわけだ。」

「死ぬかどうかは後で考えるとして、とりあえず山へ行ってこいよ。」

(急に、言葉使いが変わる私)

「なあ、とりあえず山へ行って来いよ。待っといたるから。」

(姉御になる。その上、オヤジ言葉に。)

ここからは、「早く、山に行って決着をつけないと。」と、急かす。

ちょっと武内が落ち着いて座っていても、

「早く、山へ行って決着をつけないと。なにしてるの?」

「とりあえず待ってるから。」と何度も言う。

ジーとしている、武内を見ると、

「山、行って来いよ。」を連発。

急に方向転換したのか、「山へ入る」と言わなくなっちゃった。

私が思うには、甘えていたのでしょうね。

こういうのは、心の駆け引きのような所があるので、

ある程度甘えたら、さっさと立ち直らないといけないと思うのですが、

さっさとしない人は、「そうすれば・・。」って、言われるのだと思います。

 

しかし、画家本人から、絵の感想を聞かれるって疲れるものなのです。

正直に言えばいいと思いますが、そこが難しい。

それをヒロクニさんの友人に相談したことがあります。

「奥さんは、褒めてた方がいい。」と言われました。

それは、道理であると思い、まるで分らない作品でも、いい所を褒めようと努力しています。

いつも私好みな絵というか、私の捉えられる範囲の絵だといいのですが、

枠を超えられると、言葉がいつも出てきません。

これが苦悩の元なのです。

フランソワ・ジローのように、

私は、家を出て行かないけど、

座禅(瞑想)は、するようになってしまったのでした。

そう、毎日15分座っています。

 

妻の苦悩の話は続くですが、庭にはすっかり秋の気配が。

↓周明菊が咲き始めました。つぼみがたくさん付いています。

 

↑今年は雨が多かったせいで、周明菊の根が勢い良く広がっていたよう。

里芋の後ろでたくさん咲きそう。

 

↑ビオラの種まきの様子。

↑ビオラの芽。

この種は、私だけのクロームイエローとグレーが出る、ビオラ。

今年も同じものが咲くのかどうか分らないので、毎年ドキドキします。

 

↑今年は、柿がたわわになっています。

数多くなっているせいか、小ぶり。

柿は、寒くなってから採れる柿の方が、甘いようです。

寒さにあたってからの柿の方が、甘みが増すことを知りました。

自然って、うまく出来ています。

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

樹・草(作品紹介635)と 草と自然

2021-09-20 11:27:35 | Weblog

「樹・草 2015」と裏に書き込まれています。

幻想という言葉もあてはまりそうな植物の絵。

わたしは、帆船のように思って絵を見ていました。

描き込まれたタイトルを見て、植物なんだ???と。

「草」というのは、武内の絵によく出てきます。

「草ぼうぼうの街に住みたい。」と、キャッチフレーズのように口ずさんでいたことも思い出す。

一緒に散歩をしていても、疎水の流れやそばに生える苔や草を眺め、

しもた屋が続く路地では、小さく固まった鉢に生える植物のありように目を止め、

明石公園のような大きな木がある所では、

「この木のことはよく知っているの。長い付き合いだからね。」とわたしに話した。

どういうわけか、そう言うとき見る武内の顔は、横顔になっていました。

わたしは、不思議な人と思い、ああ、ロマンティストなんだと思ったと同時に、

ちょっと、気恥ずかしい気持もして、ほんとか?と疑ったりもした。

若い頃は、仕事で、殺伐とした気持ちで日々を送っていたわたしにとっては、

非常に衝撃的な感性でした。

木と話せる人って・・・、と。

明石に移ってからは、一緒に、原っぱで、寝そべって草の匂いをかぎ、

その青々しい草の匂いを知ったり、

そこを吹く風を感じたりする感覚は、ヒロクニさんと散歩することで、

深まったと思う。

(時々、「君はなんて無味乾燥なんだ。」と言われる私です。)

草というのは、植物の中でも一番目に付きやすく、また一番身近に触れることが出来るもの。

その緑の色をいとおしく思っているヒロクニさんは、草に愛がある。

草というか、花のない緑の植物のメモもたくさんあります。

「ツネミ草」という草の絵がトイレに貼ってあって、とても変な草の絵も。

↓こちら

トイレは、メモがたくさん貼ってある場所。

台所と違い、紙切れ、切れ端のようなものが多い。

↓可愛いものも

こちらは、別々のメモを合体させています。

宇宙の始まりの手がかりのように思って見ています。

 

絵の話に戻ります。

始めに帆船のように見えると書きましたが、やっぱり私には帆船に見える。

その帆は、ドクロの形が破れたように見えてしまうのです。

それとも、倒れた木から草や枝が出てきたような。

潰れたドクロの形を無意識に描いているとしたら、

この絵は、凄いと思いました。

あと1つ特筆すべきことがあります。

この絵の肌合いというか、この絵の表面。

↑右上を大きくしたものですが、鉛筆の粒子の具合。

黒く塗られた所は、吸い付いているようになっていて、

薄い部分は粉が飛び散るように。

↑中央の部分。

固くて薄い紙を使用しているのですが、色鉛筆の部分は印刷されているように。

薄い鉛筆の部分は、鉛筆の粉が流動しているみたい。

この固くて薄い紙をなめしながら描く、やり方。

この描き方、不思議なのです。

 

私は、若い時は断然都会が好きで、結婚退職する前の職場の場所がとても気に入っていた。

大阪、北の東通り商店街の中に職場があって、通り道にバナナホールというのがあった。

繁華街なので、帰る頃は繁華街独特の感じがあり、

ネオンとか、ゲイバーに出勤する“美しいゲイの人達”が出勤する様子や、人混み、

壁と壁の間に見える空調の設備の管を見るのが楽しみで、

どういうわけか設備の管の曲がって、どこかへ繋がっていく様子が好きだった。

(私も変った人だと自分で認めます。)

“美しいゲイの人達”とばっちり目があってしまった時は、何かいわなきゃ・・、

と思い、「お姉さん達、きれいですよ。」と言ったら、

「あなたも、かわい~い~わよ。」とお互い手を振って分かれたのも楽しい思い出。

とにかく、都会が好きだった。

いきなり、明石という所へ住んだので、とてものんびりしていて、

速度の違いに戸惑い、勝手が悪いような気持ちになったりとして、

馴染むのに時間が少しかかった。

(都会ですぐ出来た手続きが、出来なかったり、日にちがえらくかかる)

 

ヒロクニさんとわたしは、若い頃(年齢の段差があるから、ヒロクニさんの若い頃は50代として)、

自然より人工的なものが好きだとお互い言っていましたが、

2、3年ぐらい前からヒロクニさんが「言うまいと思っていたけど、芸術の源泉に自然はあるね。」と言う。

「自然というのは、嫌なんよ。」とよく言っていたので、その変化に驚きました。

私は、もう都会というのは、体内から抜け落ち、ガーデニングを通して、

“この美しい花の形や色は、何故存在するのか?”という気持ちになってしまい、

自然の恵みって凄いことなんだと、思うようになっている。

私も随分変わってしまった。

都会は都会の楽しみがありますが、

やっぱり自然の偉大さを感じます。

「きれいな夕焼けだよ。さほり。見に来てごらん。」と言われると、

そそくさと見に行きます。

雲にピンクと薄い青色が混ざり流れていく。

色の変化と流れを見ているだけでも飽きない。

自然があると何もいらないような気もしてくるが、

そこはまた複雑な問題で、芸術があるのだと思います。

「人間は考える葦」であるのだと。

これは、16世紀のフランスの哲学者、パスカルの言葉を借用しました。

科学の発展のことを思うと、私はわけがわからなくなるのでした。

私は、きっと文系の脳なんでしょうね。

 

そんなことを考えている日に、ヒロクニさんから「クッキーが食べたい!」と。

↓型を使わなくていいレシピを見つけました。

このクッキーは、卵を使わない。また、強力粉で作ります。

型も使わないということで作ってみました。

サクサクして、軽い口当たりのクッキーです。

レシピを紹介。

バター70g、粉糖40g、バニラエッセンス、塩少々、強力粉70g、アーモンドプール50g

1、強力粉とアーモンドプールを混ぜておく。

2、バターをすり混ぜ、柔らかくなったら粉糖、塩を入れ、バニラエッセンスを振る。

3、②に①を混ぜ合わせ、ひとかたまりにして冷蔵庫で1時間冷やす。

4、生地を冷蔵庫から取り出し、12個に切り分け、切り分けたものを半径1,5cmぐらいの

  棒状にする。台の上で指で転がすとうまくいくようです。

5、クッキングシートを敷いた鉄板の上に、その棒状のものを写真のような形にして置きます。

  (棒状のままでよい。押さえないこと。)

6、140℃のオーブンで20分焼きます。

7、焼きあがったら粉糖をまぶします。

 

おやつ代を浮かそうと思って手作りしています。

美味しそうな美味なものは高いので、ホームメイドでなんとかしようと。

良人は、おやつをよく食べる甘党なんです。

8月にした血液検査でも糖尿の気配は、ゼロなのが不思議。

やはり、絵画の制作で頭を使っているのか?

糖分は消耗されているようで、おやつの量を考えると身体に悪そうなんですけど、

大丈夫なようでホッとしています。

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

土、花、風(色鉛筆作品・紹介634)と ショック療法

2021-09-14 11:56:47 | Weblog

「土、花、風」というタイトルが付いています。

鉛筆で描かれた輪郭に色鉛筆が塗られている。

流れる風を感じます。

実は、この絵は風変わりなのです。

あまりにも風変わりなので、上の絵は絵柄のところをだけをクローズアップしました。

実物は、

↓こちら

こんな絵です。

「土、花、風」とあるタイトルの「土」は茶色の部分?

ミステリーな絵で、推理したくなります。

こんな絵は、初めて見るので、

頭の中がひっくり返り、

武内ヒロクニは、何を考えているのかと・・・・。

そういえば、ヒロクニさんのことを

「最所、宇宙人かと思った。」と打ち明けられたことがあります。

何を言ってるのかさっぱり分らなかったらしい。

慣れてくると、言っていることの検討がつけられるようになり、

「やっと意味がわかるようになった。」と、付け足してくれます。

この絵にも、そんなヒロクニさん風味があります。

 

私は、いつもの感じの色と線の行き交う武内らしい絵もいいと思いますが、

個人的にこのさっぱりした絵柄も好きで、

特に「風」を感じる作品は好きみたい。

花などを見て思うのですが、バラもいい、ビオラもいい、チューリップもいい、

夏のインパチェンスもいい、ひまわりもいい、

だけど・・・、やっぱりビオラが好きかな?という感じで好き。

この絵が好きというのは、純粋な好みなのです。

たぶん、この純粋に好きというのは、人それぞれあって、理論じゃない。

今日、取り上げた絵は、私にとってそういう絵になります。

 

ところが、時々正反対の気持ちになる絵が、たまにあります。

見ただけで、気持ちに暗雲がたちこめる絵。

大抵は、見ているだけで何も言いません。

いい絵ばかり出来る方が変だし、私がいいと思うのも私の主観でしかないし、

画家は、とにかく描くのが重要だと思っています。

普段は、「これいいな。」と感じたり、「ここ好き。」と思ったら、伝えます。

実感をこめて、褒めるようにしています。

やっぱり嬉しくなるようで、一人前に照れたりしている様子を見ると、微笑ましい。

「そう言ってくれて、ありがとう。」なんて、言われる日もある。

それは、ヒロクニさんの状態がいい日の日常。

 

やはり起伏というのがあり、口で悪態ばかりつき、ふて腐れた顔して、

「お前は、口で絵を描くのか!」と罵りたくなる日が続く時がある。

「日本が悪い。」とか、「世間の奴らは・・・。」とか、「世の中が悪い。」とか、

この言葉が出てきたら、荒れ気味な状態。

大体、文句が多い人って、依存心が高いらしい。

その依存心を振り払いたくなって、

「世の中が悪いのは、私のせいじゃない。」と、ヒロクニさんに言ってしまう。

私は、し~らない。

1人でいっとけ!となる。

こんな時に、暗雲が立ち込める絵が壁に貼ってあると、

「あなた!この絵はいったい何なの!」

「あなた!最近、弛んでいるのと違うの!」と言い、

絵を指差して叫ぶ。

「この絵、なんかだらだらしてる!」と、ムチャクチャ。

絵を悪く言われたせいか、ギョッとした表情をするヒロクニさん。

ちょっと静かになり、アトリエに消えていく。

そして、静かに日常に戻ります。

動き出したと思ったら、コソコソと、壁にあった絵を外しているヒロクニさんの姿を見るのです。

驚いたせいで、ハッと我に返るのか、すっきりした表情に。

ショック療法は、よっぽど腹に据えかねたという時にしかやらないので、

よく効きます。

まだ、2度しか行なっていません。

こちらも気持ちが頂点に上り詰めないといけないというか、疲れます。

 

私も気持ちが静まると、思いだすことがある。

子供造形教室をしていた頃に、

「ドールハウス」という屋根付きのカサ高い工作(置き場に困る)があった。

子供達から、「お母さん、私たち(子供)に腹が立ったら、ドールハウスを壊した。」と、

複数の子供から聞かされたことがあります。

「お母ちゃん、ドールハウスを殴ってる。」とも。

それって、私がヒロクニさんにしている事と似たようなものかもしれない・・・。

ドールハウスとヒロクニさんの絵がだぶる。

まあ、とにかくカサ高く、屋根が三角で置き場に困る形のもの。

叱りついでに、このドールハウスを処分してしまえ!となるのがよくわかります。

だけど、お母さん方が子供に愛情を注いでいるのをよく知っているので、

壊されたドールハウスのことを思い浮かべつつ、

「まあ、いいじゃないか。」と思いました。

今から思うと、子供がいないので、子供の教室は私にとって、

そんな親子のエピソードを聞ける、とてもいい体験だったのですね。

親の大変さを知ることが出来て。

父兄とは、あまり話さない先生もいると思いますが、

父兄とも積極的に話を聞いたり、話をしました。

そして、当時の子供達の顔やエピソードを思い出すと、懐かしい気持ちになります。

気持ちをアンディファイトさせるために、映画「二十四の瞳」まで見たくらい。

こんなことを思い出すと、皆、ありがとうと言いたくなってしまいます。

やはり皆、可愛かった。

「オニババ」とも言われたが、ほんと、「ありがとう。」

何か、1人で胸一杯になっていて、つい書いてしまいました。

「ありがとう。」なのです。

 

ここで一言。

ヒロクニさんに対する「あなた!この絵はいったい何なの!」も、

少し屈折しているけれど愛情です。

そのつもり。

そして、無駄なプライドがないヒロクニさんは、意外と素直なんです。

あまり傷つかないのも長所だと痛感します。

 

 

↑秋の準備に入り、庭が寂しいのでキバナコスモスを植えました。

背が高く成長するのを楽しみにして見ています。

ビオラの種も蒔き、来年の春のチューリップを選んでいます。

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

Pagan Love Song(メモ紹介633)と 里芋の素描

2021-09-08 20:57:33 | Weblog

“ペーガン・ラブ・ソング”と書き込まれています。

「中学校の頃、進駐軍のラジオから流れてきた曲でねぇ~。

   この音楽から、エキゾチズムというのを知ったよ。」と、武内は言います。

「どんな曲だったか、ちょっと調べてくれる。」と言われ、調べました。

ハワイアンのような調子。そして、陽気な雰囲気。

こんな曲が日本のラジオから流れるようになった時代なのだと思い、

当時は、日本の激動の時代だったわけだ。

武内は、昭和12年生まれなので、昭和25年ぐらいの話なのでしょうか。

この絵は、武内の様子伺いにアトリエに行った時に見つけました。

「たまには、どうしているいるのか心配にならんのか!

 倒れているとか心配しないのか!

 様子ぐらい伺ったらどうだ!」と、よく言われています。

「だって、アトリエから絵を描く音がしているから、死んでない。」と、言い訳をすると、

「絵描きの女房らしくない!」と、怒られ、

「だって、・・。」と言うと、

「口答えする。」と、また叱られる。

いつもの「だから、君はだめなんだ。」と締めくくられる。

しかし、私は、全然ダメとは思っていない。

部屋の空気は、私はダメだと思え!という雰囲気が漂っているが、

その空気の方がダメだ。

「人を小さくさせる空気の方が悪いわよ。」と思い、

あまり気にしないことにしています。

大らかな気持ちを維持したいと思う妻の心理は、遠くの真理への道。

(私は、何を言ってるのでしょうね)

とにかく、かまわれないと嫌な性質なので、時々見に行く。

良人を。

 

話がそれそうになってきたので、もとに戻します。

アトリエで、見つけたこの絵は、楽しげでリズム感がある。

それが、私の目を惹きました。

たぶん、メモの類で、この形(モチーフ)は、これから描く絵に登場するのだと思います。

そういう形の原型が見て取れた。

それに、何か「やあ!」という声と、「こっちにおいでよ。」と、

手を振ってくれているようで、それが嬉しくさせてくれる。

人型の新しいバリエーションなのかもしれないし、

半ズボンのような形も可愛い。

簡単に言うと「何か、可愛い。」と思ったのでした。

 

台所に貼られているメモたち。

左上は、「この絵、ブログにアップしてみてくれる。」と言われたが、

私は、まだ当惑していて紹介していない絵。

左下は、“鳥海青児”の絵。明治生まれの洋画家で、“三岸好太郎”等の画家と同じ時代の画家。

    単純化された形で、写実ように思えるのだけど、全然違う。茶色が見事。

右は、武内のメモ。素描。庭に植えてある里芋の葉です。

緑のクレヨンでV字の縁があって、ハート型が強調されています。

この絵をじーと観てから、庭の里芋の葉を見ると、

葉脈が、法則があるようで必ず中心と葉の頭の部分は描かれたようになっていました。

この素描をみないと、気がつかないことでした。

よく、見て描いているし、素直に描いている武内が子供のようで、可愛く感じられる。

たまに、可愛く思うことってあるんです。

変人の良人を。

↑こちらが、その里芋の葉。

↑庭の全体はこんな感じ。

左の里芋が素描になっています。

枯れたひまわりを見るのも楽しみなようで、倒れるようすを楽しんでいるようです。

私は、土の再生で大忙し。

秋は、春の準備も始まります。

 

↑「線をずず黒く」と書いたメモがアトリエの机にありました。

“ずず黒く”なっているのはどの絵なのか、又聞いてみようと思います。

 

そんな中、ピピちゃんを病院に連れていきました。

予防注射を受けに。

↑病院についてすぐ、リュックを膝にのせ、かばんを開けてみると。

かばんの底で目を丸くしていました。

もう1枚写真を撮りました。

↑いったい、私はこれからどうなるの・・・。という風な表情。

一応、女の子なんですが、男の子みたい。

病院のあの台の上にのせると、ニャァニャァ鳴くのですが、

じーとしていてお利口です。

しかし、このリュックを見ると、一度使っただけなのに、

「あっ、このリュックは!病院への道!」と思うのか、

見ただけで逃げ出し、なかなか入ってくれなくて猛反発されました。

入れようとすると、「ギャーフフン!オウ~ン!」と暴れまくられ、力の強いこと。

入れても、リュックが跳ね回っていました。

 

 

 

コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

オートバイと妄想(鉛筆作品622)と ぎせい豆腐・レシピ付き

2021-09-02 10:54:55 | Weblog

メモというか、エスキースなんでしょうね。

ヒロクニ流、寓話という印象を受けました。

どんな物語がこの絵にあるのか?と思い、

「この絵は、どういう絵なの?」と聞きました。

意外な返事。

「この絵は、オートバイだよ。」と言う。

頭が混乱しました。

「ドン・キホーテ」の主人公、“ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ”なる人物。

妄想持ちの騎士。

気のふれた正気の騎士。

または、正気がかった狂人の騎士の姿と、武内の姿がだぶる。

似ているような気がする。

私も怖い妄想をしている自分に気がつき、

いやいや、違うってと言ってみる。

しかしなぁ~、その狂人“ドン・キホーテ”に農民の従者の“サンチョ”というのがいて、

「ご主人様、おらには何にも見えねいだ。」とよく言う。

「ヒロクニさん、おらにはオートバイにみえねいだ。」と私も言ってみる。

わたしって、サンチョの役を日常でしているように思えてきて、

もしかして、やっぱり武内はドン・キホーテか?

普段の武内の話を聞きながら、

「それで?」とか、

「それがどうかしたの?」

「それ、妄想と違うの?」

「違うって。」

「それ、おかしいのと違う。」

「イメージだけで、判断したらいかんよ。」

「具体的に言ってくれる。」

「何いってるか、わからないのですけど。」

と、妄想にしか思えない抽象的な話をされるといつもこう言っています。

物語のなかで、サンチョは、ドン・キホーテの旅する仲間で運命共同体であるわけです。

苦楽を共にする間柄。

わたしって、サンチョなのね。

と、思ったとたん、ギョッとしました。

武内に、「あなたが考えて、考えて抜いて、いい結果に結びついたことある?」と言うと、

「いいことない。」という答えが返ってくるときがあります。

急に正気に戻ったのだと思いました。

そうは言っても、物語の中にすっぽり入ってしまう私も、

妄想持ちだ・・・と思うのでした。

セルバンテス作の『ドン・キホーテ』の小説の内容を、

イメージで女たらしが、旅をしながら活躍し、

アバンチュールをする物語と思っていました。

どこからこんなイメージを作り上げていたのかと、自分の妄想にも驚きます。

ご主人に仕えるサンチョは、ひどい目にあったり、ご主人様に泣いて嘆願したり、

自分の身の安全を省みたり、苦難を先読みして何とか回避しようとするが、

やっぱりひどい目にあったりして、常にご苦労なんです。

やっぱり、「私は、サンチョなんだわ。」と、

ハンカチで涙を拭き拭き、『ドン・キホーテ』を読んでいる途中・・・・、

 

 

というのは嘘で、「やめてよ。」と驚嘆したり、

ゲラゲラ笑いそうになったり、かなわんな~と思ったりしながら、

何でヒロクニさんを思い浮かべているわけ?と思い、

時々、心に重しがかかります。

だけど、変に面白すぎる場面もあって、おかしすぎるぅ~!と

笑いがこみ上げてきたりして、コメディか・・・、と思ったりして、

可笑し味を楽しんでいます。

たぶん、『ドン・キホーテ』は、わたしにとって、現実問題なんだろうと思いました。

有名な太宰治の小説『走れメロス』も、日常に起こりそうでもあるし、

こういう小説ってあるんですね。

 

私が最大に気がふれているように感じることの例を1つあげるとしたら布団のことだ。

「芸術家は、布団でぬくぬく寝てはいかんのだ。」と、豪語して、

相変わらず、毛布にくるまり(夏は、おかしいって・・)、押入れで寝る。

「クーラーは切れ。」と言い、「扇風機は紙が飛ぶからいらない。」と言い、

朝起きたら、すでに熱中症ぎみ。

夏に毛布を使うな!なのです。

せめて、毛布はやめて、タオルケットにしたらいいと思うのだけど、

毛布かぶってるのです。

布団は嫌だけど、毛布はいいというところが、私には分らないのでした。

やっぱり、狂人に近いと思うときがあります。

毛布も布団の仲間やろ!と強く思うのでした。

 

狂人を普通に戻すのは、やっぱりご飯。

どんなに狂ってきる人でも、食事はしなくてはいけません。

少し変った豆腐料理をしてみました。

↑お料理の名前は、「ぎせい豆腐」

宇野千代さんの「私の作ったお惣菜」に載っている料理です。

“ぎせい”を漢字で書くと「義済」とあり、“義済堂”という工場があったと文面に書いてありました。

豆腐を崩してしまう料理なので、“犠牲”の豆腐なのか?と、

またまた思いこむところでした。

ごぼうの風味がして、あっさりした味で、味付き、厚揚げを食べているような料理です。

レシピを紹介します。

材料 もめん豆腐1丁、にんじん、ごぼう、絹さや、きくらげ、卵1個、ごま油

1、もめん豆腐はふきんでつつんで軽く重しをのせる。

  (私はキッチンペーパーで)

2、にんじんは、細かく短冊に切り、軽く茹でておく。

  ごぼうは、笹がきにして水にさらし、やわらかく茹でておく。

  きくらげは、水で戻してから細かく切っておく。

  絹さやは、茹でて細かく切っておく。

  この下準備したものを、ごま油で炒め、塩と砂糖を入れて味を整える。

  これは、豆腐の風味になる。

  (私は、もう少し砂糖を入れてほんのり甘くした方が良かったかなと思いました。)

  

  ↑ごま油で下準備したものを炒めています。

3、水気を切った豆腐と炒めた野菜と卵1個を混ぜ合わせます。

  それがこちら↓

  

  (絹さやがなかったので、私はさやえんどうで代用しています。

   きくらげもなかったので省いています。)

3、四角いフライパン(大きめの卵焼き器がなかったので)に、クルッパーを引き、

  ごま油を多めに入れ、混ぜ合わせた豆腐を入れます。

  それがこちら↓

  

4、こげめが付いてきたら、中央に向かって三つ折りにします。

  それがこちら↓

  

  ナルト巻きのようになってしまいました。

  このクルッパーを使うとフライパンに、引っ付かないので重宝しています。

  もう少し、焦げ目をつけても良かったかもと思っています。

これを切り分けたものが、一番上の写真になります。

あっさりしていて、風変わりな豆腐料理でした。

食べながら、精進料理のように思い、こういうのを禅味というのか?と、

思いつつ食べていました。

ごま油がいい風味を出してくれます。

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする