武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

航空写真のような(作品紹介642)と『今にすべてがある』

2021-10-26 12:42:48 | Weblog

ボールペンとマジックで描かれています。

上空から眺めた地図のよう。

コノ字型に見える形は、マンションのようでもあるし、

線は道のようでもある。

その隙間に、人がはめ込まれていている。

線の方向を見ていると、つぎはぎがされているようにも見える。

寄木細工のようで、興味深い。

 

武内の絵を見て思うことの1つに、この絵はどうゆう“立ち位置”なのか?と思うことがあります。

紹介する時に、「現代美術」とも言い難く、「近代絵画」とも違う。

「洋画家」もしっくりこないし、「コンセプトアート」でもない。

たまに、「俺は、シュールレアリスト」と言うので、そうなのかも?と頷いてみるが、

「由緒正しいシュールレアリスト」とは、また違う。

最近、苦し紛れに出てくる言葉で、よく言われるのは「アールブリュット」である。

それも少し違うなあ、と思いつつ聞いています。

ヒロクニさんは「なんとでも言って・・・。」と、無頓着な人で、

「ハイ、ハイ。」って何でも頷いています。

(たぶん、こういう時は、何も考えていないのでしょう。)

武内の過去の通ってきた道は、

洋画家(油絵)→現代美術(コンセプチャルアート)→ロック喫茶経営→

→色鉛筆画(その間、インクやエッチング、アクリル画、顔彩と色々なもので制作)→

→まだまだ色鉛筆(その間、ボールペン、マジックの素材が加わる。鉛筆画の絵も同時に制作)

→まだまだ色鉛筆(薄い紙に描くようになる。蝋のような表面にこだわり始める。時々、油絵)

→そして現在。クレヨン画が加わっています。

当人は、「絵を描いている」という意識だけで、頭の中はジャンルわけしていない。

現代美術をされている友人から、

「ヒロは、絵が描けるからいいよね。」と言われていたらしく、

「そんなふうに言われてさ。」と、武内は口を尖らせて言っていました。

私は、古い洋画(油絵)のベースに、

現代美術をしていた時の熱い体感があり、

ロック喫茶で音楽と人のつながりと時代、

色鉛筆で描くようになってからの試行錯誤、仏教に傾倒(禅宗)したり、

文学に耽溺したり、あらゆる要素が詰まって今がある。

たぶん、ジャンルではなく、

『今がある』

『今にすべてがある』のだろうと思います。

そんなことを考えていました。

ヒロクニさんは、芸術家なので絵があるからわかり易いけれど、

どんな人にも『今にすべてがある』と思う。

皆、気がつかないだけだと思うな。

 

 

昨日は、一日中雨。

朝は、「わたしは、わかめのように揺れている。」で始まりました。

身体は意外と力が入っているらしく、

わかめのようになってゆらゆら揺らして力を抜いていました。

寒い上に雨なので、ハッとすることをしてみた。

そんなことをして気持ちを落ち着けていると、

いきなりヒロクニさんがかけたCDの音がガンガン聴こえてくる。

↑こちら

「ああ、男の世界だ。」と思い、こういうのはヒロクニさんといるから、聴くことになるヤツだ。

まあ、自分では聴かないだろうな・・・と思って聴いていた。

聴かされている?

何か急に燃えていたのか、

「おい、たーやん。」とか、

「としぼうどうしている。」とか、

「ショウタロウ、今何している。」とか、声をあげていた。

そうして、急にわたしの前に進み出て、「こういうことや。」と。

「BOXヒコーキ堂のこれが営業なんよ。」

「これが、心意気。」と言い、

わかるか?という顔でわたしを見ます。

独り言をわたしの前で言うという分けが解らない行動。

言い捨てたら、目の前から去っていく。

この中の“としぼう”と呼ばれていた方は、不可解なことが1つあって思い出した。

ロック喫茶のお客さんでもあったらしい。

ずいぶん、武内を慕っていたようで、ヒロさん、ヒロさんと呼ぶ声をよく覚えている。

個展もよく来てくださって、やはりヒロさん、ヒロさんと言い、

その“ヒロさん”の話をわたしによくしてくれた。

もう、随分前の話なのですが、ジャズ喫茶で悪友達とお茶を飲んでいたら、

その“としぼう”さんが来られて、「ヒロさん、コーヒーおごってくれる?」と。

「ああ、いいよ。としぼう。」と、ヒロクニさん。

そして、コーヒーを飲んでいた。

“としぼう”さんは、「ありがとう。」と言って帰っていたわけですが、

店を出る時、お金を払おうとしたら、急にヒロクニさんが、ポケットごそごそと探りながら、

「金がない。ここに入っていた5000円がない。」と。

「おかしいなぁ~。確かに入っていたのに。」と。

悪友達とワーワー言っていると、

「確か、としぼうは手癖が悪かったよな。」と、ヒロクニさん。

「俺の近くをうろうろしてたか?」と。

周りは、「横にいたじゃないか。」とか、

「コーヒーをおごってっていいに来る自体が怪しい。」とか、そんなふうになっていた。

ヒロクニさんは、ふう~ん。と大きな息をして、

「あいつがしたとしたら、何か理由あるわけだ。」

「これでよし!と、しとこか。」と。

「さあ、皆もこのことは、ここで終わりにしよか。」と。

『人を許す』瞬間に居合わせた感覚でした。

こういう大人な対応が目の前で行なわれたのを体験するのは、

はじめてで、感慨深く思いました。

“手癖が悪い”に接近したことも不思議な感覚でした。

きっと、ヒロクニさんのこの対応は、VOXヒコーキ堂で培われた感覚なんだとも。

そして、帰り道ではいろんなことを考えていました。

悪友達って、「意外と優しいのね。」とか。

私は、奥様らしく「財布」を持っていないのがいかん!と思い、

すぐヒロクニさんの財布を買いに走った。

その頃、財布を持っていなくて、ポケットにお金を突っ込んでいました。

結婚当初、「銀行の通帳」すら持っていなくて、

これじゃあ、お金は入らないわけだ・・・・と思い、

さっそく通帳を作ったことも思い出されます。

(まあ、その後通帳にお金が入ってくるという・・・巡り合せ)

今日は、ヒロクニさんの良い所を書きました。

一緒に暮らしていると、悪い所ばかり目につきます。

つい、悪い方面ばかり書いているので、罪滅ぼしのつもり。

この時は、「ヒロクニさんて、かっこイイ。」と思った次第。

 

 

↑ピーちゃんは、風呂敷包みの上で庭を眺めています。

時折、向きを変えてこちらをジーと見ます。

目が厳しい時があって、「あまり厳しい目をしてはいけません!」と言います。

また、眠そうな時もあって座りながら、

コクリ、コクリと顔が動いていることもあって、可愛い。

さあ、今日は曇りがちなのですが、やっと日が差してきました。

今日は、まだ、わかめになっていません。(笑)

わかめになったのは、昨日(25日)です。

 

長い文章もブログ、読んで下さりありがとうございます。(ペコリ)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

秋の終わり(色鉛筆作品640)と 三昧の境地

2021-10-20 11:56:34 | Weblog

ガッツポーズをするヒト。

人なのか?

街の中にある建物のようでもある。

萌黄が枯れたような色には、秋を感じます。

赤い色は、葉の紅葉のようにも。

秋の季節に見るといいなぁ~と思い取り上げました。

この絵は、色鉛筆で塗り込められ、

表面は蝋引きされたような感じになっています。

色鉛筆の粉っぽい感じは全くなく、執念を感じる塗り込め方。

これが、武内の色鉛筆画なんです。

本などの色鉛筆画のテキストを見ても、このような絵の描き方は皆無。

描いて、描いて、描いたあげくに生まれた、

この独特の描き方は、なんともいえない風合いがあります。

筆圧が異様に強い人なのです。

 

 

秋の小春日和がこのまま続いてくれれば良かったのですが、

いきなり冬のように寒い日々。

我が良人は、暖かさが続く間は、制作、制作と制作三昧な日々。

傍目で見ていても、よくここまで絵が描けるなぁ~と驚嘆するぐらい

激しく制作をしていました。

やっぱり、普通の人と違うパワーを感じ、凄みを感じていました。

なんたって84歳だし。

紙の山があり、メモとか、途中で置いてある絵や切れ端が散乱していた。

その山の点検を始めたらしく、捨てたり、使えるものをわけ、

気になる絵には、再度手を加えたり、

また、仕上げたりしているようで、

「ちょっと、来て。」と呼ばれ、アトリエで絵を見る。

「これ、仕上げてみたのだけど、どう?」とか、

「四隅が問題でねぇ。」と言われたり、

「このモチーフも気になるから、こっちへ写してみたんだけど。」とか、

いろいろ聞く。

“四隅”この言葉はいつも言うので、理解しようと思うのですが、

意味がとても分り難い。

四角い紙の角のことを言っているのはわかるのですが、

どう問題なのかが、さっぱり分らない。

細かい絵の場合は、部分、部分から絵がはじまり、

さらに広がっていくように色鉛筆を埋めていく。

わたしなどは、もう紙が四角だと“そうなんだと”疑問に思わないのですが、

武内の場合は、紙の空間認識が違うようで、

紙は面一(つらいち)なんだけれど、絵を描くうちに、

武内の中では絵に空間ができているのに、

その寸法があわないと云う感じなのです。

だから“寸法”という言葉もよく耳にします。

「ここから、ここの寸法が・・・・。」ともよく言います。

わたしは、何のことを言っているのか???となり、

何か辛くなってきて・・・・、脳が崩壊しそうになる。

そんな時は、「ちょっと、待ってくれる。」と言い、

台所へ直行する。

「今日は、何が食べたいかな?」と気持ちを切り替える。

いきなり冷蔵庫を開けたりして、気持ちを落ち着けます。

ヒロクニさんは、アトリエの紙の山を整理したらしく、その間多くの絵が出来上がり、

また、ゴミが大量に出て、捨てては描き、描いては捨てをくり返していた。

充実していたらしく、夜中も制作の音がしていた。

凄い体力と気力があるのだなと、「良人すご~い。」と感心した。

ちょっと、感動していました。

 

ところが、いきなり冬のように寒くなった。

寒いだけで、人格が変わるヒロクニさん。

それも悪い方に変わる良人。不機嫌。悪態。

感心していた心は、いきなり終わりを告げ、

いきなり私はひどい妻よばわり。

「君は、何でそんな口の聞き方するの?」と言い、

「何で?」って、何でも聞く。

もう、子供みたいになって、困るのです。

そして、私を困らせ、イライラさせたあげく、アトリエに行って絵を描いています。

しかし、絵はよく描く。

よく、画家の方が、「ご飯を食べるように絵を描きたい。」と、

インタビューなどで答える人がいますが、

その境地には、武内は行っていると思います。

春から秋にかけては、本当に絵をよく描いていました。

それも精力的に。

冬はやっかいな人物になるけど、

春から秋の頑張りは、よくやった!と認めます。

ヒロクニさんは、秋になると、「寂しくてたまらん。」とか、

淋しいばかり言う“淋しい病”があるのですが、

今年は、言う暇もなかったのか、聞きませんでした。

それほど、忙しかったのだろうと思います。

よく三昧の境地というようなことが言われますが、

ヒロクニさんは、制作三昧だったのだと思います。

仏教哲学では、「三昧」というのは、一種の瞑想に近いものらしいですね。

 

我家の柿が、今年はたくさん実をつけました。

↑昨年は、ほとんど生らなかったのですが、今年は豊作。

寒くなったので、これから柿が甘くなるでしょう。

近所にもたくさん配れそう。

ここの柿は、以前住まれていた方の自慢の柿の木らしく、美味しいのです。

色々な方から聞いた話をつなぎあわせて知ったのですが、

京都で買った苗木だったらしく、それがこんなに大きくなったということ。

住まれていたご主人は、京都大学の農学部だということも知りました。

この柿の木は、私にとっても普通の柿の木じゃないのです。

由来や、住まれていた方のお人柄や、いろんなものを感じる柿の木をいとおしく思っています。

↑かなり大きい木なので、高枝バサミとはしごを使って収穫します。

みかん(はっさく)も、実をつけていて、こちらは皮を使って、パウンドケーキに入れたりします。

 

 

そんな庭を見つめるピピちゃん。

↑窓から庭をみるピーちゃん。

寒いのか、毛が逆立っています。

(柿の木は左の奥なので、写真には写っていません。)

こうやって、じーとしてよく外を見ています。

小鳥を見つけると、変な声で鳴く。

そして、私の方を見て、「何とかして欲しい。」という目でみます。

 

これは、よくする姿。

↑毎朝、膝に手をのせてくっついてきます。

撫でて欲しいらしい。

かなり長時間、じっとしています。

 

↑ちょっと顔を上げたところ。

ほんとうに長い時間、いつまでもこうやっているので、

「ピーちゃん、もういいでしょ?」と何回も言って、

切り上げます。

置いている前足のようすが可愛い。

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

静かな夜(作品紹介639)と ケチャップとサンドウィッチ

2021-10-14 20:17:18 | Weblog

鉛筆と色鉛筆がミックスされて描いています。

鉛筆の部分は、黒の色鉛筆で描いたのか?と思ったほど、塗り込められています。

鉛筆でもこんなに黒く、表現出来ることに驚き。

もう、海苔のようでもあります。

この絵は、「地下鉄シリーズ」。

それも、夜の地下鉄。

女性らしき人は、小さなパンツをはいています。

パンツを描きこんでいた作品も以前あり、それが旗のようでした。

今回の絵は、履いているけれど、小さくて可愛くビキニのよう。

黒の空間が静けさを感じさせますが、

ハチャメチャな人達は、いたずら好きな感じがする。

コミックな感じもあって、武内らしい作品です。

 

秋になると、サンドウィッチが食べたくなる。

コロナのため今は電車に乗って、街の散歩はひかえていますが、

普段は、季節のいい秋にヒロクニさんと散歩にいく。

そんな時によく食べるのがサンドウィッチ。

街のパン屋さんには、いろんなサンドウィッチがあるので、

それを食べるのを楽しみにしている。

ヒロクニさんと一緒に歩くうちに、私も急に気分を害するときがあり、

(ヒロクニさんは、余計なことを言い、且つ人の神経を逆なでするのがうまい)

私の返事も「それがどうした?」という冷たい態度になると、

「さほり、サンドウィッチを食べなくていいのか?」と言い出す。

サンドウィッチ好きな私は、「食べたい。」と言い、そこで気分を回転させる。

ちょっと、やけ食い。

でも、気分は直る。

何かあったら、「サンドウィッチ食べなくていいの?」と言われます。

犬みたいに扱われているようで、時々ムッとくるのだけど。

犬のしつけみたいでさ・・・。

 

とにかく、好物です。

急に、焼いた卵にケチャップをつけ、野菜をはさんだサンドウィッチを作りました。

↑もう、自分の為に。

気をてらう必要もないので、簡単に。

今、たまたま買ったケチャップがとても美味しい。

オムレツを作ったときに発見。

その時は、スパニッシュオムレツに使ったかと。

あまり甘くなく、味が濃い。

それがフレッシュで、卵に合う。

(興味のある方は、こちら→ケンショー食品株式会社、高知県一宮東町1-30-5)

卵と相性がいいようなので、どうしても作って食べたくなった。

バターをパンに塗れるよう常温に出しておいて、パンにはバターとからし。

卵は牛乳と塩で溶き、卵焼き器で厚焼きに。

後は、パンに卵焼をのせ、ケチャップを塗りる。

さらに、レタスやきゅうりの薄切りを挟み、

マヨネーズ少量と塩を軽くして、パンと具をしばらくなじませておきます。

パンがあまったので、きゅうりとレタス、ハム、チーズのサンドウィッチも作りました。

ちょうど、3時ごろだったので、アフタヌーンティのようでした。

アトリエにいるヒロクニさんは、呼んだらすぐ来て、

「これ、食べていいの?」と、もう手に持っている。

「ダメ。」っていったら、どんな顔するのか?

知っています。

すごく不意打ちを食らったように驚く。

ものすごいショックな顔します。

そんなことは言わないで、

「卵焼きのサンドウィッチが食べたくて、作ってみたから。」

「ケチャップの為に、作ったのだけど。」

「料理って、何を作ろうじゃなくて、

これがあるからこの料理を作ろうって、反対から作るよね。」

と、言ったのでした。

その話は、ヒロクニさんは興味がなかったようで、

「サンドウィッチが家で食べれるなんて、いいねぇ~。」ばかり。

その後で、

「俺、りんごを磨いておいたから光ってるでしょ。」と得意そうに言う。

「それがどうした?」と、言いかかったのを飲み込む私です。

 

庭は、周明菊が花盛り。

↑一気に咲いてきました。

 

↑こんな風に咲くのは初めて。

水をたっぷりあげたのが良かったようです。

里芋の近くにあるのですが、里芋と周明菊の間には、

根が交わらないように厚手のビニールで敷居がしてあります。

里芋の土は、別物にしています。

 

↑里芋の葉を後ろに。

たぶん今日が一番きれいなのかもしれない。

 

ここの所、ぴーちゃんが登場しませんが、

2人が台所で何か食べていると、やってきます。

この時もやってきて、おねだり。

おじゃこを少しあげると、すごく納得するのです。

食べたらサッと台所を去り、部屋で寝ています。

「意外とおりこうだよね。」と言うのが、私達夫婦からの定評なピピなんです。

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

夜の植物(色鉛筆作品紹介638)と 読書の秋・白鯨

2021-10-08 12:50:25 | Weblog

秋の陽射しを感じる季節になりました。

伸びる影も長くなり、風には秋の気配。

夜には、涼しい風が吹きます。

陽だまりに包まれたような植物の絵を、アトリエで見つけました。

実物は、ピンク色がもっと鮮やかなのですが、

蛍光色のピンクの色鉛筆と混合にして使っていたようで、

色が薄くて、残念。

ふんわりした絵は、武内の絵では、どちらかというと珍しいので、

つい目がいくようです。

「この絵は、途中なの?」という問いには、

「もう、出来上がっているよ。」と。

「もっと大きい絵を取り上げてくれてもいいのに。」とも言われてしまいました。

葉の一部が、三日月のようにも思え、この植物の形に惹かれました。

夜の植物の様子にも思える。

 

真夜中、ヒロクニさんと明石公園を歩いたことがありますが、

夜の植物は、また違った姿を見せてくれる。

人影の無い(こういう時は、人がいた方が恐怖)公園は、

人ではなく、植物の方が存在感が大きく、植物が主となる。

そして、その声に耳をそばだてるのは人。

暗闇が押し寄せる時間の木々や草は、昼間とはまた違った様相になる。

月からの光りを受け、見上げると木々は黒いシルエットになり、

風に揺れてワサワサと音をたてる。

昼間より、夜の方が植物は雄弁な感じ。

また、夜の植物はすっかり寝ているものもある。

真夜中、どうしても寝れなくて、庭に出たことがあります。

やっぱり、植物のかもし出す雰囲気が昼間とは違うのです。

発散しているものが違う。

そう思いました。

この絵から、そういう静かなエネルギーを感じました。

 

読書の秋。

ヒロクニさんから、「エイブル船長のいく宿屋の名前は、出てきた?」と聞かれました。

「まだ、エイブル船長は登場していないのだけど。そこまで読んでない。」と、答えました。

しばらくして、「メルヴィルの白鯨は、ヒロクニさん読んだの?」と言いました。

「メルヴィルの白鯨は、読んでいるよ。」と。

「確か、その頃はホーソンとかも出てきていたと思うけど。」とも。

その“ホーソン”ってなんじゃ?と思いつつ、初めて、共通の本を読むことになります。

読書傾向が全く違う、ヒロクニさんと私。

呆れるぐらい。

それが、今始めて共通の読書をするわけです。

それは、文中にすでに書いてある、メルヴィルの「白鯨」。

世界の十大小説でもあるし、映画では、グレゴリー・ペックが出演する「白鯨」を観た。

本は、かなりの長編で、描写意外のページも多く、聖書からの引用も多い。

これは、先回のブログで書いた、旧約聖書を読んだためか、

以前より抵抗感は減ったものの、やはり目をパチクリさせつつ読んでいます。

ヒロクニさんは、「ヒューマンなものが流れていていい。」

「素晴らしいよ。」と言う。

期待に胸を膨らませつつ、手にとっています。

主要な登場人物は、話し手である主人公、イシュメエル。

船長のエイハブ。

船長配下で働く3人。

冷静な一等航海士スターバック。

常にパイプを離さない陽気な二等航海士のスタッブ。

高級船員の末席でまじめな三等航海士フラスク。

その他は、いろんな人種が水夫として乗り込んでいる。

巷にあるコーヒー店、“スターバックス”の名前の由来は、

一等航海士のスターバックからきているそうです。

経営者が3人いるので、複数形ということらしい。

時代は、日本で言えば江戸時代。

だから、日本の鎖国のことが出てきます。

アメリカでは、鯨の油がランプとして需要があった時代。

1980年ぐらいか?

主人公のイシュメイルは、旧約聖書のアブラハムの庶子イシュマエルに因み、

エイブル船長のエイブルは、イスラエル王アハブに因んでいるそう。

きっと、聖書での意味も含まれているというか、示唆もありそう。

ワクワクしながら、読み進めていきたいのですが、

筋から外れる文章も多く、けっこう難解な文章の箇所が長く続く。

ヒロクニさんは、「筋と関係ない箇所も多いから、読み飛ばして読むといいと思うよ。」と、

アドバイスしてくれています。

ガルシア・マルケスの「百年の孤独」を読んだ、忍耐力を思い出す。

こちらの本は、最初の四分の一まで読み進めると、

後は面白くて止まらないとなる本なのですが、

「白鯨」はどうなのでしょうか?

今は、五分の一で、まだ読み辛いと思いつつ読んでいます。

ヒロクニさんから、読んでいると、

「あんまり、女性が好んで読む本ではないのに珍しい人だね。」と。

そうなのか?

私は、男のロマンも好きなのです。

だから、不都合があっても、ヒロクニさんと一緒にいるのに。

「そんなことも分らんのかぇ。」と、ヒロクニさんの口調になるのでした。

 

そんな日の秋の庭。

↑秋は準備が多く、花が少なくなります。今年は周明菊が勢いよく咲いています。

 

↑こちらは、里芋。“八つ頭”という種類。

10月下旬頃に収穫します。

この赤い茎は“ずいき”として食べた残りを、

“芋がら”にするつもり。

祖母がよくしていたのを思い出しつつ、乾燥させ保存食にします。

子供の頃、“芋がら”を食べた感想は、

「見た目は怖いけど、食べると意外といける。」でした。

兄弟で、「あの鍋を開けた時の絶望・・・・、でも意外と美味しいからびっくりする。」と、

言い合ったのが思い出す。

茶色い麩が浮いているような感じが、子供には絶望でしかなかったのです。

ヒロクニさんは、初めて食べることになると思うので、どうなることか。

楽しみ。

↑キャベツの苗を植えました。

陽のあたるところへ移動させつつ育てようと、鉢に植えました。

青虫にやられています。

↑イタリアンパセリについていた、アゲハ蝶の幼虫。

みかんの木の方へ持って行きました。

みかんの葉が、アゲハ蝶は好きらしく、

庭では、アゲハ蝶がよく舞っています。

油断大敵で、虫の点検を怠ると、あっという間に葉が食べられています。

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

星の地下鉄(色鉛筆作品637)と 旧約聖書と西洋絵画

2021-10-02 10:19:48 | Weblog

中央に黒い星が、ドーンと描いてあります。

不自然と思うくらいに。

だけど、この絵は「地下鉄」です。

武内とは、長年一緒にいるせいか、「地下鉄」のテーマの絵はすぐ分るんです。

地下鉄が一瞬地上に出ることがあると思いますが、その瞬間の図。

なんだか偉そうな雰囲気。

子供が描いたような絵に思えるが、

子供がこんな絵を描いたら怖いと思うのです。

玄関先に、地面に歯ブラシを埋め、歯ブラシが樹立する林が我家にはありました。

子供絵画教室に来る生徒達に、

「何でハブラシが埋めてあるの?」と、質問攻めでした。

「私がしたのじゃない。パンジー(パンツ爺←こう呼ばれていた)が、したんです。」

「パンジーに聞いて下さい。」と言うと、

あの人ならやりかねんと子供心に思ったのか、

急にシーンとして、わかったという顔に変わる。

私は、内心「うちの旦那のことをどう思っているのか?」と、ちょっと不服であった。

「理解するなよォ~。」と。

こういう不条理な気持ちが、この絵を見ていると湧いてきます。

こういう構図の絵って、あまり見たことがない。

又、黒に映える赤い色は、夕焼けみたいで、どこか懐かしい気持ちもする。

本質は、おセンチな人なので、絵柄が突飛でも、

どこかに郷愁とか、夕焼けの寂しさとかはかなさを見て取るのでした。

「この夕焼け見て。」という、武内の声がどこからともなく聞こえてきます。

 

 

読書の秋。

ギリシャ・ローマ神話、アーサー王物語という流れから、聖書も読んでみようと。

絵画でも文学でも欧米のものは、聖書を抜きにしては理解し難いと言われている。

絵を観てもイマイチわからないまま、雰囲気だけで終わっているものがある。

ヒロクニさんに、その旨を言うと、

「いやァ、今ひとつ関心が持てない分野なんよ。」と答えが返ってきた。

キリスト教のことを“耶蘇(ヤソ)”と呼び、クリスマスのカードの仕事はいつもちぐはぐな絵。

クリスマス関連の仕事は、次々干されて、仕事は来なくなりました。

これに関しては、迷惑をおかけしても・・・と思っているので、

向こうもいい判断をされていると思っています。

未だに、「クリスマスって何なの?」と言うし、

イエス・キリストにも全く興味がないようです。

私は、物語が好きなので、聖書も物語として読むことにしました。

 

まず旧約聖書を手に取りました。

旧約聖書が繰り広げられる地域というのは、狭く、今で言えば、

シリア、レバノン、イスラエル、ヨルダン、イラク、エジプトのあたり。

川で言えば、チグリス川、ユーフラテス川周辺。そして、スエズ運河。

また、地中海の東に面しています。地中海に面しているということから、ローマに比較的に近かったのだと。

神は「ヤハウェ」といい、自己紹介のようなところで「そこに在るものである」と語る。

アダムとイブ、サムスンとデリダでは、女ちゅうのはろくでもないことを企むというか、

目の前のことを優先する生き物だと思い、女である私は自戒するのでした。

イブが禁断の木の実をへびにそそのかされて食べてしまい、2人は楽園の外の世界へ。

↑この絵は、ルーカス・クラナッハ。(1526年作)

ルネッサンス期のドイツの画家によるもの。

このルーカス・クラナッハは、「アダムとイブ」の絵を数多く描いています。

この画家の描く女性の顔が、とても好きで画集を見るとそれをジーと眺めています。

 

神の加護のあったサムスンは、力を無くして奴隷に。その上、目をくり抜かれる。

「ペリシテ人に目をえぐられるサムスン」

こちらは、レンブラントの絵。バロック絵画。

光と影の画家と言われています。

 

 

ノアの箱舟では、地球を覆う大洪水に備え、神から啓示を受けたノアとその子孫が

大きな船にあらゆる動物をつがいにしてのせてゆく。

↑こちらは、「アララト山に到着したノアの方舟」サイモン・ド・マイルによるもの。

どうも16世紀の画家らしいという事しか分かりません。

過去の有名な画家達に埋もれてしまっている画家かもしれません。

 

洪水が引いていき、陸地が見え、そこを新天地とする。

この後で、外部の民族のエジプト人が出てくるところで、???と。

洪水で人類は滅んで、ノアの子孫しかいないと思うのですが、

いきなりエジプト王のもとに繁栄しているエジプトが出てきます。

あの洪水は、特定の地域のことだったのか?

疑問に思いながら読み進めます。

後に、エジプト人に、イスラエル人は、虐げられる。

モーゼという預言者が、予言によって、そのイスラエル人を引き連れて、エジプトを脱出します。

そこで、海峡を渡る時に海の水が2つに割れ、道が現れます。

このシーンは、映画でもよく見かけるし、とても有名。

↑こちらは、「紅海渡渉」。コジモ・ロッセリ。イタリア、ルネッサンス期の画家。

この絵は波が治まって、追ってであるエジプト軍が海に飲まれている様子。

 

物語には、いつも必ず1人、預言者が登場します。

2人になることはなく、常に1人の預言者がイスラエル人の中にいます。

その予言者は、神の声を聞くことの出来る人物で、神の意思の通りに行いを実行していきます。

政治やもろもろの取り決めをする人は、ずっと預言者が担う。

ただ、その神は“約束”を少しでも破ると、容赦なく懲らしめる。

約束は“契約”という意味合いが強い。

モーゼの話に戻りますが、イスラエル人はエジプトで奴隷のように扱われ、飼い殺し状態でした。

モーゼは、神の意志でイスラエル人の祭りをしたいと申し出ます。

(これが、脱出のきっかけとなる)

エジプト王は「よし。」、と返事をしたけれど、

後から快く思わなかったエジプト王は細かい条件を付け、じゃまをする。

イスラエルの神は、約束違反であるから、非常に過酷な仕返しをエジプトにするのです。

ナイル川の洪水、川の色が血の色にそして腐臭、魚の死と腐敗の臭い、蛙の多量繁殖、ぶよ(蚊に似た虫)の大量発生、おできの病、疫病、ひょうの嵐、イナゴの大群、灼熱地獄、エジプトでのすべての初産の子の大量死。

その仕打ちの容赦なさだけが印象に残り、ここまでするのかと・・。

神“ヤハウェ”は、約束を破るものには、激しく痛めつける。

そして、とにかく疫病神は出て行ってくれと嘆願されるようになり、脱出の契機を掴むモーゼ。

エジプトを出た後は、腰を据え、イスラエル人は侵略に力を入れていく。

「エリコの丘」という小説があったのですが、

エリコというのは、イスラエル軍が落とした城の名前でした。

そういう意味合いがあってタイトルにしていたのか・・・と分かりました。

歴史的的記述は、王の誕生と共に始まります。

サウル王、ダビデ王、ソロモン王。あと続く・・・。

サウル王は、民衆が強い王が欲しい!という望みから、サウルが王に選ばれました。

また、神が民衆の願いを聞き入れ、神が選んだ王でした。

しかし、時の預言者サムエルは、

「王のために奴隷になるようなことがあってもよいのか。

始めはいいかもしれないが、途中で傲慢になった王に使われるようなことになってもいいのか。

そうして、後で過ちだったと気が付いても遅いのだ。その望みは叶えられるだろう。

しかし、後悔もするであろう。しかし、それは叶えられるだろう。」と予言します。

そこから、王の治世が始まります。

 

 

旧約聖書の前半を読み、紀元前1000年頃と同じことが、

今でもパレスチナの辺りでは続いているような錯覚におそわれました。

そして、私は日本人なので、しっとりした雨にあじさいの花を見ると、

いいなァ~という情緒を思い浮かべる。

イスラエル人とは、全く違う情感だと痛感する。

オアシスや砂漠、暑さ、乾いた空気、聖書の中に見る激しい感情。

生存競争が元々激しい場所と地域であったのだろうなと思い、

イスラエル人の気質として沸点が高く、冷めやすい気性が登場人物から見てとれる。

異質な感覚を感じています。

旧約聖書は、イスラエル人の子孫の物語なので、地域的にもパレスチナのあたりに限定され、

イスラエル人意外は、すべて他民族扱いで、物語の範囲の地域はとても狭い。

イスラエルの民は、とにかく“戦う”。

生存がかかっているから、とにかく“戦う”。

まあ、凄いですよ。

「女も子供も、皆殺しせよ。」という神のお告げを預言者が叫ぶ時もあるし、激しい。

ついていけない・・・・・。と思い、途中で本を閉じたりしていました。

生存競争の厳しさを感じる物語なんだと。

ギリシャ・ローマ神話の神は、人間的な要素もあってユーモラスで身近に感じる要素がありますが、

旧約聖書の神は、厳しく、激しく、真面目すぎるような気がしました。

長々と、旧約聖書について、西洋絵画の理解に役立つようであればいいと思いつつ書きました。

ヨーロッパへは、キリスト教の伝播と共に、旧約聖書も普及していったのだろうと想像します。

 

ちなみに、西洋の宗教的な絵は、私にとってはエキゾチズムを感じる絵です。

異国のものに触れる楽しみになります。

最後に、この絵は、知っている方が多いと思いますが、取り上げます。

↑こちらは、「バベルの塔」ピーテル・ブリューゲルの絵。

オランダの16世紀の画家。今でも人気の高い画家。

バベル(balal)というのは、ヘブライ語で、ごちゃまぜ、混乱という意味だそうです。

ある時、「我々の街と搭を作ろう。塔の先が天に届くほどの。あらゆる地に散って、消え去ることのないように。我々の為に名をあげよう。」と。

そして、人々は、石の代わりに煉瓦を、漆喰の代わりにアスファルトを使った。

それを見ていた神(ヤハウェ)は、

「彼らは、1つの民で、1つの言語を話している。それなら、彼らの言語を乱してやろう。彼らが互いに相手の言葉を理解できないように。」と、妨害したのです。

そのためにこの地を“バベル”と名付けられた。そして、人々は全地に散らされた。

「創世記」11章より

この絵は、廃墟となったバベルの地の絵なんですね。

言葉が多様化され、伝達がうまく出来なくなって、作れなくなってしまったというわけです。

隠されたドラマがあったなんて、知ろうと思わなければ、分らなかった。

これには、色々教訓があるようなのですが、解釈を書くとなるほどと思い、

そちらへ考えが言ってしまうので、物語の不可思議さだけを味わいます。

エキゾチズムを感じるだけから、少し前進。

ヨーロッパでは、聖書に裏打ちされた遺産がたくさんありそうです。

文化、思想、芸術においては、特に。

 

■注

文章がかなり、変でしたので、

10月3日。11:33に、追記、訂正をしました。

 

 

旧約聖書を読むと「古事記」に出てくる神様は、話し合いをしたりして、ホッします。

けっこう、ワイワイ、ガヤガヤと話合う。

やっぱり私は、「古事記」がしっくりくると思うのでした。

 

庭では、季節はずれの朝顔が咲いています。

↑青い色だったはずなのに紫色が多く出てしまっています。

↑この朝顔は、早い時間(6:30頃)に撮ったもの。

どうも、暑くなるにしたがって、紫ががるようだと気が付きました。

以前は、ズーと青色だったと思うのですが、種に変化が起こったのでしょうか?

移り変わりゆく時間というものを感じました。

 

いつになく長文になってしまいました。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする