武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

放蕩(作品紹介677)と マンゴームース・ケーキ

2022-06-24 16:51:13 | Weblog

タイトルは裏に書いてあり「放蕩」となっています。

F3のサイズ、22cm×27,4センチ。

アクリル絵具、鉛筆、クレヨンで描かれている。

■「放蕩」の意味は、自分の思うままに振る舞うことであり、やるべきことをやらず

自分のやりたい放題にして、家の財産などを蕩尽すること(使い尽くしていくこと)である。

特に、酒にふけったり、女遊びにふけることを指すことが多い。

放蕩を繰り返す人は「放蕩者」「放蕩息子」「放蕩児」などと呼ばれている。■

とある。

この絵から、“放蕩”をうかがい知ることは難しい。

絵に、2つの顔を見てとることが出来るので、

こいつらが街を飛び回って遊んでいるよう見ると、

「自分の思うままに振舞うこと」ともいえるから、“放蕩”なのかもしれない。

全体的に可愛い感じなので、放蕩というより、好きに遊んでいるように感じます。

 

武内は、「放蕩者」「放蕩息子」とうイメージはありますが、

身を持ち崩す、財産を使い尽くすという要素はありません。

「自分の思うままに行動をする」これにかけて、天才的だったのでは?

親は、教師なのに中学から高校へかけて、あまり行かなかったようですが、

ニートとは違い、放課後になると学校へ行く不思議さ。

友達がいたのだと思います。

親は、早稲田大学か、一ツ橋大学に入れるつもりだったらしいが、

高校の途中からまったく行かなくなって、絵を描きだすと、自然消滅してしまい、

話を聞きながら、こうやって親の夢を壊したのだと思ったものです。

(親の夢を壊すのは、決して、悪いことではない。

 やはり、現実を生きる当人が納得した選択だったらいいと思う。

 それと、そういう道を選んだという当人の自覚も必要。

 非行に走ったり、暴力団に入る等は、阻止するでいい。)

本人から聞いた話だと、

「お袋が、そんな生活を送っていると、今に乞食になるって言ってよぉ。まあ、そうかもしれないな。」

と、横でうそぶいていて、軽いノリで当たり前のように言う。

しかし、頭の中は、「芸術」から離れることがない一本気なとこがあるので、

これが彼を救っているのだと思う。

芸術の為には、牛小屋であろうと、貧乏だろうがなんのその、迷わず行く。

そうやって、今の今まで絵を描いて、85歳になろうとしています。

学校の日常は、芸術や絵画と遠い無駄な時間でしかなかったのでしょうね。

 

「よく好きなことが出来ていいですよね。」と言われるらしい。

だけど、好きなことばかりしていられるか?と言われると違う。

我慢もあります。

人は、あまりそういう事は知らないから、「いいですね。」というみたい。

自由気ままに思われるのですが、経済なんかは不自由な状態なことがとても多い。

自由なのか?ここで、自由に陰りが・・・。

いい所を上げるとすると、「自分の土俵で(武内の場合は、絵の世界)いい思いもし、困難にも会う。」

この土俵にいることが出来ているというのが、ラッキーだと思っています。

サラリーマンの人が、よく武内に「自由でいいですね。」と言われることがありますが、

サラリーマンの方には、サラリーマンの土俵があって、いい部分、悪い部分があると思う。

自由性は、薄いかもしれないが他のところでは優位なことがあると思います。

例えば、武内がサラリーマンだったら、めちゃくちゃなんじゃない?

仕事はしないわ、お金は使いこむわ。

こんな感じになりそう。

そういう意味で、皆、収まる所におさまっていて、やっていると思う。

まあ、芸術家の生活苦から逃れられいている役得はあるのだから、

そのことは、ラッキーだと思ったら幸せ感がアップすると思います。

(いろんなサラリーマンの方がいると思うので、この限りだと思いませんが、

武内に「いいですね。」と言われる方から、そういう感じがしました。)

 

そういうことで、横にいるわたしは、節約の工夫をすることがあります。

工夫を思いついた時は、自画自賛で「わたしって頭いい!」と思ってウキウキしたりする。

豪華でなくても、メインのおかずをしっかり作り、みそ汁にはねぎをたっぷり入れ、

後は適当に箸休めのものを添え、ご飯をしっかり食べるという夕食を心がけています。

「今日も美味しかった。」と2人言い合ったりしていると、

外食の必要性を感じなくなり、ぼぼ家でご飯を食べて満足状態。

それに、その他の不便に思っていることも、帳消しになっているようで、寂しい感じになりにくい。

「寂しい感じになりにくい。」は、ヒロク二さんの弁。

わたしは、充実感を感じる。

そして、余ったものは、昼ご飯のおかずになります。

毎回、昼ご飯を作っていましたが、残り物も捨てるわけにはいかないと思いました。

男性は、残りを翌日に食べるのは、嫌なようですが、

「お腹が減っていたら、何でも食べれるって。」

「飢えてないから、贅沢いうんだって!」

と言われ、渋々食べています。

それも、最近は慣れたのか、自分から食べるようになりました。

パン好きだったのに、

「江戸時代の人の優秀なこと!あの集中力と持久力。米を食べているからよ。」と言われ、昼にお握り。

ある日、「やっぱり、米の方がいいねぇ。腹持ちがいいせいか、ものごとをやり遂げる力がついてきたと感じるよ。」と。

さすが、ノリが軽いというか、絵以外のことはこだわりが少ないのでした。

それと、意外な素直な面に驚く。

しかし、わたしも、何を考えて、主人を洗脳しているのかと思うのですが、

わたし達、2人とも血液検査の結果はとてもいい。

 

もう1つ、印象的な出来事があります。

ホテルのサロンに招待されて、講演を聞いていたのですが、

講演が終わりに近づくと、和菓子と抹茶の用意が始まりました。

講演の、一服のもの。

お茶がテーブルにのせられている様子をチラッと見ると、

猫の子みたいに小さくなって下を向いている武内を見た。

様子が変だ・・・、と思っていると、

下を向いたままで、長くて大きな手が、ニュッと伸びたかと思うと、その和菓子をわしづかみ。

そして、口に入れた。

猫が食べたいものを手に入れる姿そっくりで、異様だったのです。

人、人間がそんなことをするとは!

たぶん、話の内容がたいくつでたいくつで、我慢が出来なかったんだと。

「饅頭でも食ったら、気がまぎれるか。」と思ったのでしょうね。

まわりの人がどう思うか?という意識が薄いから出来るワザ。

こういう人なんですが、わたしを退屈させません。

これは、長所なのです。

 

 

電気代が高くなったのが堪える我家ですが、節約の一貫としてしているケーキ作り。

買うより、量があって安くつくと思い込んでいるもの。

初めて、ババロアケーキに挑戦しました。

↑マンゴームース。

ケーキも同じものは、飽きてきたので、ワンランクアップのケーキを作ろうと思いました。

このムースを流すケーキは、セルクルという型が必要です。

しかし、これから、また作るか作らないか、わからないケーキの為に道具を買うのはちょっと・・。

やはり、工夫を凝らしているようで、そのやり方で。

底が分かれているスポンジケーキの型をひっくり返して作りました。

下になる部分にサランラップを貼り、輪ゴムできつく縛り、ラップをピーンと張ります。

これが、セルクルの代用に。

↑ムースの間に、ビスキュイという薄く焼いたスポンジケーキをはさむので、二枚作りました。

ケーキの底をあてて、型にぴったりと合うスポンジを切り出しています。

まず、底にビスキュイを一枚。その上から、牛乳と黄卵で作ったムースを流す。

冷蔵庫で冷やして、固まったら、その上にもう一枚ビスキュイをのせ、

マンゴーのピューレにゼラチンを溶かし、流す。

マンゴーは缶詰を使いました。

また、固めて最後にマンゴームースを流す。そして冷蔵庫で冷やす。

↑固まったら冷蔵庫から取り出して、輪ゴムを取り、ケーキの型を熱くしたタオルで覆って、

外れやすくして、取り出します。取り出したもの。

↑下からスポンジケーキ、牛乳のムース、スポンジケーキ、マンゴーのピューレ、マンゴーのムース

と、層をなしています。

 

このケーキ、初めての挑戦だったので、時間がかかり、

この後、すぐ夕食の準備。

台所で、6時間立ちずくめでした。

味は、レモン汁を加えた方がさっぱりと夏向きになるかもと想像。

味は、ヒロク二さんは、「ケーキらしいケーキだね。」と言ったきり、無言。

口に合わなかったのかもしれない。

こういう時、気落ちする。

夏らしくて、いいと思ったのですが・・・・。

 

 

放蕩から、芸術家の節約話しになって、マンゴームースで終わりました。

レシピは、小さいセルクル用だったので、適当に基本に掛け算して作ったので割愛しました。

このケーキは、工作しているような気分になります。

缶詰でなく、フレッシュな果物で作った方が美味しいのかも。

だけど、そうなると高くつく。

「人間は、考える葦である。」そう思って、創意工夫で楽しく。

内容は、放蕩についてから、やや折れ曲がりながら、放蕩に戻り、マンゴームースにたどり着きました。

今日もお読み下さりありがとうございます。

 

 

 

 

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派生する形(クレヨン作品676)と このブログの登場人物紹介

2022-06-18 14:32:32 | Weblog

縦長サイズの大きさで、42cm×25センチ。

クレヨンのみを使用。

子供が描いたような鳥の絵のようだ。

描いた武内に「鳥ですか?」聞くと、

「これだから困るんだよ。」という顔をされるのが思い浮かぶ。

わたしが思うには、この鳥の目に見える楕円形と丸の組み合わせ、

この形ばかりがアトリエでは描かれているのを目にしている。

画面に2つ描かれていたり、多いのは5つも描かれているので、

たぶん、この目のような形から派生する形態としてこの形は出来上がったと。

鳥の形を描こうと思ったのではなく、試行錯誤としてこうなったと思うわけです。

アトリエをのぞくと、その形がたくさんあって、気持ち悪いくらい。

「その目に見えるような形、気持ち悪いから、減らせないの?」

「わたしは、それがない方がいいわ。」と、当人の思考をぶち壊すようなことを言い、

台所に座って、お茶を飲む。

わたしが、この絵に感心することを上げるとすれば、

この物体に重さがあり、腕力のような生命が持っている、力強さを感じることです。

以前よく話していた、「生の芸術」について語る武内の姿を思い出しました。

しかし、姿だけで、話の内容はすっかり忘れてしまっています。

 

今日は、このブログに登場する家族を紹介します。

↑こちらが、武内ヒロク二さん。

絵を描いているご本尊。

庭をふ~ら~と出てきたところを撮りました。

いつも思うのですが、身体に比べて手が大きい人だなぁと。

12月で、85歳になる。

髭をそらなくなったので、もともと老け顔だったのがさらに老けて見えるという・・。

この人が、いつもわたしを手こずらせる。

そして、次はピピ。(猫)

↑「チュール食べようか?」と言って、呼ぶと、すぐやってきて膝に座ります。

「ピーちゃん来てごらん。」と呼ぶと、来るようになって、

「かしこくなったね。ピー。」と言われ可愛がられている。

久しぶりに、チュールをあげたせいか、顔が・・・、

いつもは手でチュールの入れ物を抱えるのですが、

それすら忘れ、チュールに魅入られている。

顔が変なので、もう一枚と思って撮ったが、

↑こんな顔に。

もう、猫とはいえ、尋常な精神状態じゃないようすです。

久しぶりにあげるとこんな風になるとは、思っていなかった。

チュールって、美味しいんですね。

何度、取り直してもこんな顔に写ります。

そして、ブログを書いている人は。

↑わたくし。

台所の主であり、年をとっても子供っぽい大人だと自分で思っています。

9月になれば60歳。還暦らしい。

写真を見ると、表情から夫に悩まされている片鱗を自分で感じる次第。

この2人と一匹が、我家の家族。

特に、お互いが玩具という夫婦の日常の話題が多いブログです。

ここに力が入り気味。

今日は、改めて自己紹介をしました。

文章を読んでいると、作者は、どんな顔をしているのかと思う時があります。

顔を見ると、納得することがわたしの場合は多いので、

自分の写真を思いきって、のせました。

こういう人が時に、おかしな意見を述べるのだなと思ってくだされば幸いです。

 

 

庭では、オレンジのエキナセアが咲き始めました。

↑右は、さやえんどうの葉。

花が咲いて、さやをつけはじめている所。

エキナセアの花は、武内は毎年描くのです。

好きな花らしい。

 

↑枝豆がさやをつけています。

今年は、肥料をやるタイミングとかを逃さず出来たせいか、実っているから嬉しい。

ところが、夫は枝豆をあまり食べない人。

すっかり忘れていて、もう自分の為に育ているようなもの。

「あなたの為に~。」と言いながら、これ。

 

 

今日は、私達をまったく知らない人が読むのと、

知っている人が読むのでは、随分違うのだろうと想像しました。

そんなことを思って、この辺鄙なブログの登場人物を写真つきで紹介してみました。

読んでくださる方、イメージしやすくなったでしょうか?

こんな私達ですが、改めてよろしくお願い致します。

 

 

*6月20日に誤字脱字を訂正。文章の一部を読みやすく

 

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地平の果てに(色鉛筆作品紹介675)と シュールな感覚

2022-06-11 15:01:00 | Weblog

不気味な顔だ。

地平に立っている標識のようでもあり、そうであればその意味は?

また、置物と考えると微妙なバランス感覚で立ち、重さは感じられない。

瞳はないのに、睨まれているような気もする。

「お前は、もう終わりだ。」というセリフが似合いそうな女の顔。

シュール感がたっぷりの色鉛筆画。

この紙の皺や白い部分の汚れ具合もわざと表現している。

紙と色鉛筆の蝋で、なめされています。

武内は、「描き始めた時は、空間が狭く感じたけれど、

描き進むにつれて広がりがでたなっと思って、続行してみたら思ったより広がってねぇ。」と、

話していました。

広がりの話、イマイチよくわかりませんでした。

説明まで、シュールなんだ・・・と思うのでした。

 

ヒロク二さんは、リハビリ中。

コロナでこもっていたので、歩き不足で今長距離が歩けなくなっています。

つい最近、病院の帰り道を歩くと言い出し、歩きました。

距離は、電車で二駅ぐらい。

足が靴擦れを起し、もうダメと言いながら休憩したりして家に帰り着く。

靴履いていないのじゃない?というくらい外に出なかった結果だ。

それから、涼しい時間に「散歩に行って来る。」と言い、続けています。

朝、台所で脚をのばして言うには、

「歩いた後と、歩く前では身体が違うのを感じていた。」と。

「一度歩いたら翌日身体が変わり、もう一日歩くと、力がつくのを感じる。」

「ちょっと、安心したねぇ~。」

「続けないかん。」

こう言っている姿は、清々しいものがありました。

ヒロク二さんの好きそうな話題にもっていこうとして、わたしは言った。

「あの哲学者の“メルロポンティ”は、身体論のようなことを言っていたじゃない。

意志も大事だけど、身体が変れば意志も強くなるって。

自然に身体が動くようになることで、目的が達成させられるというやつよ。」

そう言うと、「“メルロポンティ”は、言語学者だったと思うけどな。」

「まあ、哲学者も身体論をあれこれいっているけど。言い尽くされているよ。」

と、返事が返ってきた。

わたしの中で、最近知った“大まか簡単哲学の一部”は、思い違いをしていたのかもしれない。

知ったかぶりが、ばれた。

ともあれ、歩くことで爽やかさが出たので、わたしこそ一安心。

家の中で抽象的なことばかり考え、また妄想に入られると、

独特のオーラーを放っているように、わたしには見えるヒロク二さんだ。

ある種の粘着性のあるエネルギーに感じることもあれば、

カラッとした浮いたようなエネルギーの時もある。

勢いがある時もあれば、身体に溜め込んで外には出さない時もある。

友情というか熱い思いをふりまいているかと思うと、

怒りで何かを吹き飛ばす勢いの時もある。

最悪なのは、不平不満を言っているときは、曇っていて灰色のエネルギーのように感じられる時。

言ってもしょうがない不平不満ばかりで、聞きづらいので「いいかげんにせんかい!」と思った時、

以前は、「それはわたしのせいじゃない。」とか、

「わたしにはどうにもできません。」と言っていましたが、新しいのが加わりました。

「あのね、不平不満が多い人って、皮膚病にかかりやすいそうよ。」という言葉。

「そんな迷信みたいなこと。」と反抗的な態度でした。

「さあ、迷信かもしれないけど、この前、老人性しっしんで病院行った時も、

不平不満たらたらだったのじゃないかな?」と顔を見た。

「別にいいけど、直りかけている腫れ物が、また再発したどうするの?

不平不満で、おできが又大きくなってくるよ。」と言ったら、静かになった。

急に、口を閉じたのです。

思うことがあったのか、不平不満がやんだ。

 

ヒロク二さんって、話はわかりにくいけれど、頭はいいはずなんです。

芸術に関することに対しては、造詣が深い人なのです。

なのに、簡単に子供みたいに素直で、意外と可愛いところがあります。

それとも、不平不満と皮膚病の関係を、身体で理解したのか?

悪知恵の働く妻の勝利の瞬間でした。

大抵は、負けるので「やった!」と思い、この手を使える時は使うつもり。

 

上記の話は、台所でしていました。

台所にあるテーブルには、不思議な光景もあったのを紹介します。

↑蛍光灯に照らされているフィギア。

そのフィギアは、こういう置き方をされ、光に向かって口をあけているように見える。

一週間ぐらい置いてあって、異様な光景。

やっぱり、シュールな感覚とでも言うか・・・。

ご飯を食べる時も、お茶を飲む時も、料理をしていても、この光景が目に入ります。

たぶん、これはピカチュウと思われるけれど、

ヒロク二さんは、なんの色眼鏡なく形として純粋に見ているのだと思う。

気に入って拾った物のコレクションが、時々不思議なシュチュエーションで飾られる。

ヒロク二さんに聞くと、

「捨てようかなと思ったけど、捨てる前にこうやって飾ってやれと思ってさ。」という事でした。

「こうやって飾って」の部分が気になりますが、

感覚で一瞬にして決めているから理由はないのだと思う。

「何で?」と聞きたいことばかりがある我家。

そうやって、妻は、鍛えられているのであった。

 

このフュギアの横にビオラ。

↑赤い花を中心に。

赤、白、黄色という歌にある通りの配色になりました。

月並みな色合わせと思っていましたが、やや重い赤色と黄色がイギリス風かなと。

ゴブレットに入れてみたのが、そう思わせるのかもしれない。

この黄色いビオラは、種も採取したので、来年も咲かせるつもり。

↑雨が降る前にと思い、里芋を植え付けました。

この網は、猫が多い地域なので掘られないようにしています。

野菜はやっぱり畑で植えないと、りっぱに育たない気がしてきています。

それと、ほうれん草って育てるの難しいのだと思い始めています。

何回もトライするのですが、うまくいきません。

ねぎも植え付けをしたいのですが、場所を決められないでいます。

 

今日は、シュールな絵と、シュールな光景とを合わせました。

私達が話をするといえば、台所。

台所が大活躍の我家。

ある日の台所での日常を書きました。

話があっちこっちへと飛ぶブログですが、

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

 

 

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神戸の街(色鉛筆作品674)と 瞑想三昧の妻の話

2022-06-04 18:22:12 | Weblog

この絵は、神戸の街。

海と山がある。

最所見た時は、竹とんぼでも飛んでるのか?と思い、

幼稚な見方をしていましたが、

どうもそうではないようだと見直した時に、

「ああ、風景なんだ、そして街なんだ!ああ、神戸に違いない。」と分った。

「星珈琲」と書かれた文字は、タイトルなんだと。

神戸にも長く行っていないので、思慕しているのかもしれない。

わたしは、左上の角の所の箇所が気に入っていて、

「この部分が好き。」と武内に伝えると、

「他の部分は?」と聞かれ、

「この部分にぞわっとくるものがあって、いい。」と独断と偏見を述べ、

他の部分には言及せずにおいた。

“竹とんぼ”の感想は、あまり言いたくない。

この作品は、2017年に描いたものに描き足し、

絵柄や色を変えたと聞いた。

もう、以前の絵は、忘れてしまっていて思い出せなくて、脳裏にこの絵が定着した。

このところ、はじけている作品が続く。

暑くなってきて、色鉛筆の芯の硬さもいい具合に柔らかくなるといいます。

そんな事、考えもしませんでした。

色鉛筆に関しては、職人みたいなんです。

サイズはA3サイズ。

気に入った作品のようで、もうパネル貼りされています。

 

 

ヒロク二さんの腫れ物も快方に向かい、

病院通いも、二週間に一回になり一安堵。

あまりにも腫れ物(おでき)が大きかったことから、看護婦さんから

「噂は聞いています。」と言われるぐらい。

こんなことで目立つなんて・・・と呆れています。

わたしの方は、実家に家族の様子を見に行ったり、

家事やら雑用やらの間を縫って、「瞑想」をするようになり、精神世界に入り浸る日々。

わざわざ、精神世界なんていって、勿体つけましたが、

そんな大げさなものではなく、

急に歯を食いしばるようになり、歯をガシガシと音を立てている自分が不気味だったのです。

「これって、どういうこと?」

「この行為をさせる正体は何だ!」と思い、

自分を見つめるということをしていました。

一週間ぐらい続けていると、どうも身体の下の方、下腹の方から何かが上ってくる感じがしました。

そうやって観察していると、下腹がぜんどう運動で激しく動く。

何だ!何だ?と思いながら、自分を見つめていると、

それは、「緊張」だったのです。

普段、ヒロク二さんが考えられないことをすると、感情が大きく揺れ、

それによって緊張し、また、緊張癖がついているんだと気がついた。

もともと、わたしに驚きやすく緊張しやすい性向があるということが分った。

ようするに、肝が据わっていないというもの。

長年溜めてきたものらしく、下腹のぜんどう運動が延々と続く。

そして、わたしが見たり聞いたりしているヒロク二さんの言動も、

胆力の座っていないわたしが見るから、すぐ驚愕!となるのだと。

違う人が見れば、全然違う捉え方をするということだ。

拒絶する人もいれば、笑って終わりの人もいるだろう。

もう、パブロフの犬のように、決まった反応をしていることも考えられる。

習慣化していて。

過去に培われてきた色眼鏡があるとするならば、

色眼鏡なく、まず自分が真っ白な状態になるのが理想だ。

この囚われのない、真っ白な自分を見出すことは、可能性を広げることになる。

(大げさですが・・・)

そんなことを思いつつ、「瞑想」しています。

しかし、自分のことが一番わかりにくい・・・・。

自分を知るというのは難しいものなんですね。

それに、あまり知りたくないという心理もある。

物が無くなったと思ったら、迷わずヒロク二さんがどこかへやった。

と、疑って決めてかかっていたり、わたしも碌なもんじゃない。

そうかと思ったら、ヒロク二さんは「なんでもわたしに聞けばいい。」と思っているようで、

「のこぎりどこへ行った?」(自分が使っていて、どこかへ)

「明日の天気は?」(これは、まだ許せる)

「あさっての天気は?」(そこまで知りません)

「どうして、今日はこんなに寒いの?」(詳しく知らない)

今回の瞑想期間中も、1時間の間に、6回ぐらい話かけてくるし・・・。

「大丈夫?」て。

「瞑想します。」って言っているのに、身体の具合が悪いと思いこむみたい・・・。

イライラしている内に、瞑想しているとは思えない状態よ。

ピーちゃんは、横になってしているわたしの胸の上でちょこんと座るし。

2人ともいいかげんにしてくれ!と強く思って目を開けると、

ヒロク二さんが、笑ってわたしを見てるのでした。

イライラしていると、お腹が硬くなってきているのが分りました。

この場合は「緊張」ではなく、「怒り」だ。

とにかく、暇があれば即瞑想。

長くしていたせいか、効果はあるみたいで、歯を噛み締める力が弱くなっているのです。

あまり効果を期待せず、ひたすら自分を見続けていただけなのですが、

効果はあると確信したので、これからも時折するつもり。

瞑想というより、内観法というものに近いのかもしれません。

白隠禅師も健康法として、内観を言われているようで、やはり禅の精神に近いのでしょう。

かのアップルの創設者、スティーブ・ジョブズも禅に興味を持って、

座禅、瞑想をしていたと記憶しています。

晩年の彼は、いい表情をしていたと思う。

わたしも素晴らしくなりたいが、現実は・・・・、と思いズーンと落ち込みますが、

器の小さい人わたしが、少しでもましになるように、自分らしく取り組んでいきたい。

(注意:瞑想は指導者が大切です)

ヒロク二さんと暮らしているうちに、こういうことに興味を持つようになったと思うと、

この結婚はよかったのか、悪かったのか?

複雑な気持ちにもなりますが、怪我の功名ということにしておきましょう。

庭は夏の入り口の様相。

↑左には、大きく茂る枝豆と、いんげん豆。

ビオラも種の採取が済んだら、夏の花にするつもり。

白いリボンで種の付いている茎で印しを。

↑いんげんの花も咲き出して、小さいさやが。

↑ペチュニアの左は、またしてもいんげん豆の葉。

食べれるスミレも茎が長くなって、もうそろそろ終わり。

↑夕日にあたるねぎの苗。

自分で育てた風味のよくないねぎに育つのでは?

こんな恐れを抱きつつ、もうすぐしたら植え替えます。

 

ちょっと、今、ヒロク二さんの方から音がして、

ガスストーブのスイッチを入れたのがわかったのです。

この暑いのにストーブに火を点けるって・・・・。

また、下腹が硬くなっていくのが感じられる。

おかしいと思いません?

また、瞑想しなくては。

異常者に思えるのですが、わたしなんか半袖で汗かいているのに。

おかしな夫婦の話をお読みくださり、ありがとうございます。

悟りでも開きたい気持ち・・・。

こんなことが重なって、歯を食いしばるようになるのか?と思い、トホホ・・。

 

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