武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

傾いだ搭(色鉛筆作品657)と “しつこさ”の勧め

2022-01-31 19:18:53 | Weblog

この絵を見た時、画面が二分されているので

どういうこと?と非常に驚きました。

私の中での一枚の絵というのは、くっきりとした分れ目があってはいけないものでした。

何を考えているのかさっぱり分らず、

武内のことを「頭がおかしいんじゃなかろうか?」と。

この絵は、長い間だアトリエにあったようで、

筆のある木箱の上に飾られていました。

↑ここに飾ってありました。

ゆら~とした感じや、ふんわりとした感じが優しくて

よく目にとまっていました。

何か、少女趣味な絵に思えてきて、

画面を二分している線も傾でいて柔らかく、

その傾いでいるようすも見ていると、同じように頭を傾がせてしまいます。

全体的に絵から夢みる雰囲気があって、

ゴシックロマンの小説、ホレス・ウォルポール著、

「オトラント城奇譚」を思い浮かべた。

その小説を読んでいる時の感じがするのです。

この本は、武内の蔵書から見つけたもので、読後が身体にまといつき、

キラキラと美しいイメージが身体の回りを包みました。

そして、搭もよく出てきます。

中世風に創作された、大雨や搭、騎士や姫、少し悪魔的な要素が盛り込まれた幻想小説です。

その本自体も箱に包まれ、紐で綴じるようになっていて、

その包まれたものが更に箱に収められているという装丁で珍しいものでした。

中の活字も美的な本で、ページを開けても美しい。

本に出てくる搭のイメージと、この絵の搭のようなものがピッタッときてしまった。

この絵には、騎士とか姫は描かれていないけれど、

イメージとして、わたしにはピッタリときたのです。

姫を巡って、いろんな事が起こるのですが、それと同時に不穏な空気が漂う。

この画面が二分された感じは、不穏な感じがして、

その物語によく合います。

あと、二分された絵画を見るのにも“慣れ”が必要で、

わたしには、少し時間が必要でした。

やっと慣れたからか、取り上げました。

タイトルは「ふじの頃」となっています。

2015年作のようで、慣れるのに7年かかったのか・・・、と思い、

“慣れ”というのもある意味、もの事を解決してくれる要素の1つだと思いました。

よく武内に向かって言われる言葉がありますが、

初対面の人は必ず、

「最所は、何を話されているのかさっぱり分らなかったけど、最近、慣れましたわ」と、

よく打ち明けられます。

皆さん、笑って言うので、最初は衝撃が走っていたのかもしれない。

究極は、何事も慣れかと思うと、

理論はいらないのだと思い・・・、トホホな感じ。

 

さて、私達2人の現実。

台所でお話。

ヒロク二さんの来客は、何かをやっている人が来ることが多い。

絵を描いている人や、音楽をやっている人や、美術関系の人など。

その方が帰った後、ヒロク二さんは「やっぱり、ひつこさって大切なんよ」と言った。

「ひつこくなれないということは、前進の足がかりをつかむチャンスが少なくなるから」と。

「手放してはいけないものがある」とも言い、

「こういう仕事(画家や芸術家)には、ひつこさは必要だ」と、言われました。

また、「一番だと思うことも必要だ」とも。

「その為にも、ひつこくやっていく力がないと駄目なんだ」と締めくくりました。

粘着質なヒロク二さんなので、納得出来ます。

いつも、ねったりとしたエネルギーをわたしは感じている。

だから、わたしは「清々しい」空気を欲し、

外へ出るといつも清々しさを感じで、満喫することにしている。

そうやって、バランスをとっています。

そう、ヒロク二さんのエネルギーは、ねばい・・・。

 

もう、1人、“ひつこさ”を勧めている人物がいます。

それは、イエス・キリスト。

私は、新約聖書を読んで、この箇所を読んだ時、非常に驚きました。

驚いた箇所を引用します。

西洋文学を理解するのに、読んでみたのですが、意外な発見がありました。

■ルカによる福音■

こう祈ればよいから、部分抜粋

「しかし、覚えておきなさい。

その人は友達のために起きてなにかをを与える気にならないとしても

しつこく頼めば、そのしつこさに負けて、必要なものはなんでも貸してくれるに違いない」

■抜粋終わり

要約すると、友人というだけでは何も与えられないが、

しつこく頼めば、しつこさに答えてくれるであろうと。

あとの言葉は、「求めよ、そうすれば、与えられるであろう。

捜せ、そうすれば見いだすであろう。

門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう。

すべて求める者は得、捜す者は見いだし、門をたたく者はあけてもらえるからである」

と続いている。

私は、ヒロク二さんのしつこさがわたしに向かってくると、

「やめて~!あつくるしいよォ」なのですが、

言い出したきかないから、「ハイ、ハイ」って聞いてしまっていることがたくさんある。

ケーキ作りもそこから始まった。

「作って欲しい」と何度も、何度も言われて作ったのが始まりです。

わたしなんかは、あまり言ったら迷惑だろうし、相手の気持ちもあるし・・・、となりますが、

確かに、何度も何度も言ったり、ひつこく精神誠意にこられると、

それに絆されるということは、あると思いました。

どういうわけか、しつこくされる方にしか、思いがいかない。

また、そういう目に遭いやすく、自分がひつこくするなんて、あまり想像できないわたしです。

西洋の宗教者である、イエス・キリストは、

このくだりを読んで、やはり自己主張がはっきりしていて西洋的で積極的。

やっぱり、西洋人だとつくづく感心した。

読んでいくと、かなりストイックな内容で、イエス・キリストの言葉を実行出来ている人って、

すごく少人数なのではないかな?とも思いました。

言葉でどんな良いことを言っていても、行動が出来てなければ駄目だ。と、

言い切っています。

そして、究極はイエス・キリストが説かれたのは隣人愛なんだと。

それと、よく“裏切り者ユダ”と言われる人物は、ユダヤ人ではなくて“ユダ”という名前でした。

イエス・キリストもユダヤ人で、ユダがもユダヤ人ですが、

ユダヤ人の象徴ではないのもはっきり分りました。

弟子も皆、ユダヤ人。

ユダヤ教の中の、キリスト教ということも分ります。

(当時は)

誤解している風聞をかき分けられそうです。

今回の話からは、それますが、

もう一箇所印象に残っている箇所を■抜粋

「民と民が争い、国と国が戦い、あちこちで飢餓や地震が起きるだろうが、

その時には新しい時代を生み出す前の陣痛が始まったと思いなさい」

と、あり、すぐ、世界が終わると思ってはいけないと諌めています。

終末論は、キリスト教の十八番と思っていましたが、そんなことは言っていないのも分った。

テレビでは、コロナの数ばかり報道しているようですが、

(ヒロク二さんの話でわかる)

その水面下で国々のパワーバランスの微妙な駆け引きがあって、

私はそちらの方に関心があります。

(あまり、詳しく報道されない。)

それは、世界の警察をやめた、

つまりアメリカが今まで負ってきた歯止めが効かなくなった世界が今で、

アメリカの脅威がなくなったことで、中国が好き勝手しようとしているが、

抵抗する勢力と拮抗しているのが現状だと。

しかし、微妙な動きなのでまだまだよく分らないというところ。

WHOも役立たずだし、

(コロナのことでそう思いました)

また、多くの人は「国連」のことを崇高な団体と思っているかもしれないが、

わたしは、これも役立たずだと。

日本人よりもアメリカ人の方がそう思っているらしくて、

日本のジャーナリストが、国連が日本に、こんなことを言うのですと怒っていると、

友人のアメリカ人から「なんで国連のようなものに、怒っているの?怒る価値もないのに」と言われ、

びっくりしたんだそうです。

「あの国連の言うことなんか、気にしないでいいのよ」と言い切られてしまったそうで、

「日本は国連のこと権威あると思っているんだ」と力説したそうです。

キリストの「良いことを言っていても、実行できていないと駄目だ」という言葉が、

WHOや国連のことを想起させる。

また、新しい時代を生み出すとあるので、

こういう組織は、生まれ変わって欲しい部類に入る。

WHOと国連については、個人の意見なので、不愉快な方もいらっしゃるかもしれませんが、

私は、そう思うの。

新しい時代を生み出す陣痛とやらに、コロナ菌も一役かってるのか?

そんなことを思ってみたり。

意外と、イエス・キリストは分り易い言葉で弟子達に伝えていたようで、

例え話が多く、意外と論理的でした。

新約聖書を読んで思うには、

イエス・キリストは、かなりストイックで厳しい人。

そんな印象です。

また、少々過激な行動もあって、ちょっとそこは落ち着いてとハラハラとさせられます。

「しつこくせよ」も、かなり過激な発言だったので頭にしっかりと焼きつきました。

「しつこくせよ」も、ヒロク二さんのしつこさとは、違う。

ヒロク二さんのしつこさは、粘着性があって、ねっとりした感じがある。

ちょっと、我儘な感じ。

よく言えば、芸術家が持つエネルギーと追求する強欲な精神とでも言ったらいいか?

ちょっと欲があり、密着していく力のような。

とても個人的なしつこさです。

何に対して我儘なのか?これにも通じることがあると思います。

今回のヒロク二さんの「しつこく」には、普段のひつこさではなく、

意味ある話だと思いました。

許されるひつこさです。

また、イエス・キリストの「ひつこく」もいいものだと思いました。

こちらは、自分の欲からではなく、隣人愛が基礎になっているので次元が違う。

「ひつこい」というのは、悪い意味にとらえがちですが、

前向きないい面もあると思い至った過程を書いてしまいました。

精神力の1つだと思います。

生命保険の勧誘のひつこさは、嫌ですけどね。

 

 

庭では、梅がつぼみを付け初めてました。

↑たぶん2月の終わり頃に咲くと思う。

毎年、我家の梅は、3月3日の桃の節句の時に満開になることが多い。

だから、もう少し待たねばなりません。

立春も間近、それが過ぎると時折春がしのび寄ってきます。

そんなことを思って過ごしています。

 

 

今日は、ヒロク二さんの話から「ひつこさ」の必要となり、

イエス・キリストまで登場しました。

わたしは「ひつこさ」を受け入れる立場の自身を強調しましたが、

わたしにも「ひつこさ」を感じるところがあります。

それは、けっこうネチネチとブログの文章をかく、

「しつこさ」です。

長文になりがちで、文章が少ないと淋しくない?と思い、

もう少し書こうか・・・、となる。

わたしの粘着性を感じる次第。

ヒロク二さんの粘着性に感化されたのか?

こんな文章を読んで下さって、ありがとうございます。

ほんとに。

 

 

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蛇口から(色鉛筆作品656)と 石油ストーブと幸福論

2022-01-25 16:25:46 | Weblog

いきなり水道の蛇口が目に入る。

毎日、茶碗洗いが終わったら、

「茶碗はやっつけたからね」と報告してくれる。

何回も事あるごとに「絵を描き、茶碗は洗い」とひつこく言われているので、

水道の蛇口のことが頭から離れなくなっているのか?と思うのでした。

しかし、どうも街の絵らしいことが見て取れる。

コーヒーカップは出てくるし、地下鉄の入り口もある。

人もいるし、1本足の女の子もいる。

どういうわけか魚も登場している。

魚は、水道の蛇口から出る水のシャワーを浴びている。

私が、魚の料理するところを見ている武内の視線を思い浮かべた。

自慢じゃないが、武内は魚なんか触ったことはない。

シュールなのか、現実感が一杯なのか、

この絵を見ていると混沌とします。

この絵は小品でサイズが小さく、測ってみると18cm×13cmでした。

マジックの線描の上に色鉛筆がのせられている。

淡いくすんだ紫色が使われているのがめずらしい。

この絵は、いつもの如く「ちょっと、来て」と言われ並べられた絵から選びました。

こんな風に。

↑机に並べられた絵の一枚を選びました。

この並べられている机は、仕事台なのですが、

ベニアの厚手のものに、白色のアクリル絵具が塗られていて真っ白だったのですが、

今は鉛筆の粉によって真っ黒になっています。

時間の経過を感じます。

↑上の方に鉛筆や色鉛筆が箱に整理されています。

写っている絵は、新しいモチーフを探しているということかもしれない。

クレヨンや鉛筆、消しゴム等もカッターで削りながらの製作をしているのも見て取れて、

忙しいのだろうと思います。

だから、「絵を描き、茶碗も洗い、俺は忙しい」という事なのかも。

 

そんなヒロク二さんですが、寒さに弱いという最大の難点があります。

灯油の値段が高いということで、革ジャンを着て寝ていますが、

やはり寒さが厳しいようなので、灯油を買いました。

石油ストーブを今年初めて点けると、

やっぱりこんなに違うのかと思ったのか、しあわせな顔をして言うのです。

「暖かいっていいなぁ。石油ストーブが一番いいのだよ」

「絵描きには、石油ストーブが一番なんだよな」と。

しあわせ一杯という感じが満ち溢れていた。

石油を買うとわたしが言ったら、「一缶だけでいいよ」と遠慮ぎみであった。

「じゃあ、一缶買うね」と言って、二缶注文しておいた。

あっという間に使い、今度は無くなったと騒いでいる。

「もしかして、電器ストーブと石油ストーブをうまく使いわけたりしてないの!」と、

せまってみた。

「いや、私もストーブの芯を小さくして使っているんだが・・」と言う。

「それって、不完全燃焼で身体に悪い使い方と違うの?」と私は言った。

「大体、もう少し厚着をしないと駄目なのと違うの。

 そのTシャツとシャツだけの格好は何?靴下は?」

「女は目の前にあるものしか見えないとか、よく言うわよね。

 あなたは合理的にものを考えられないのと違うの?」と、相手の弱みを言う私。

散々、“あなたはなっていない”を言われて、可哀想なヒロク二さんである。

(私も、君みたいな奥さんはいないよ。亭主に逆らうような・・と、

無理難題をただ逆らうにされています。まあ、お互い様な2人)

その後、「灯油は、もう一缶買ってあります。だって、それですむわけないもん」と言うと、

「さすが、さほりだ!」

「やっぱり、さほりだ!」

と、感心しきりで感激していました。

もう、私が言った“嫌味”も吹っ飛んでしまったようで、しあわせ感で一杯になっていました。

この“吹っ飛び感”もヒロク二さんの特徴で、いい所でもあるけれど、

私が言ったことの意味を理解せず、

何度も同じことを繰り返すことに通じるものがあって、怖い。

私はしあわせというものも、対比というか相対的なものだと思っていて、

最悪から抜け出せば、それはある程度はしわせな状態と思っている。

また、しあわせも絶頂が続けば、それに影を落としていく過程はちょっとした恐怖であると。

その最悪も絶頂も人それぞれなので、なんともいえないが、

自分の中で基準を1つ決めてみるのも、不幸の連鎖に陥らないで済むと思うのです。

私は、飢えていない、路頭に迷っていない、病気じゃない(身体も心も)であれば、

しあわせなんだと思うことにしています。

寒さというのも身体の機能を奪われるものなので、ちょっと辛いかもしれませんが、

あまりにも寒いだけで、文句を言うヒロク二さんを懲らしめてみました。

気分が、急降下したり急上昇したり激しい様子を見て、

あきれるやら、単純で屈託の無い人と思ったり。

そういう意味で、不幸というか最悪な事態も経験して見る価値があると。

最悪が何度もは嫌ですけど、一度ぐらいはあった方がいい。

しあわせ感が増えると思う。

しかし、ヒロク二さんは、意外と最悪をすぐ忘れる性格なよう。

これも、典型的なしあわせな人の特徴と言えるかもしれないと思うと、

なんかガクッとします。

だから、何回も結婚出来て、

絵を続けられたのかもしれない。

若い方に、個展会場で「芸術では食ってけません!」と言われた時に、

「お前、そんなに若いのに食っていけないって、そんな事考えるって・・・」頭を抱え、

「若いのに、食っていけないとか言うのだったら、やめた方がいい」と泣き声ながら言い、

「そんなことを考えていたら、何も出来ないよ」と、

涙を流して(悲しそうに)話していました。

真剣に泣いていたので、よく覚えています。

そんな事があった後に、著書で岡本太郎氏も若者から同じことを言われ、

「それだったら、家に来い。カレーぐらいは食べさせたる!」と言ったらしいですね。

その方、カレー食べに行ったそうで、アメリカで有名になりました。

今は、日本に帰ってきているのかな?

誰でしょうね。

その方の名誉もあるので、名前は言いません。

岡本太郎氏の方が男気があり、ヒロク二さんは叙情的という感じです。

まあ、やるのか、やらないのか?

そう決めたら、余計なことを考えるな!ということなんでしょうね。

そんな風なのに、ヒロク二さんは寒さに不満をたらたら言うから、

私に逆襲されるのでしょう。

 

↑こちらは、ガスストーブの申し子。

私に捕まっています。

このピピの毛は、ほんとうに触り心地がよくって、

近寄ってくるとすぐ捕まえてしまいます。

顔をスリスリすると、グーと言って喉を思いっきり鳴らしてくれます。

ゴロゴロも激しく、「そんなに嬉しいの」と思い、愛おしい。

保護猫だったピピは、サビちゃんなのですが人懐っこく可愛い性格です。

 

 

灯油や石油ストーブから、

幸福論のような内容に。

どうして、こんな風に文章がなってしまうのか?

このような文章を読んで下さり、ありがとうございます。

しかし、灯油の値段高い!

値段が高くなければ、

ヒロク二さんもこういう目に遭わなかったと思います。

 

 

 

 

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浮かぶ自画像(作品紹介655)と 台所での音楽事情

2022-01-19 13:10:01 | Weblog

街に浮かぶ自画像。

この顔は、自画像だと直感で思っています。

わたしには、武内ヒロクニの顔にしか思えません。

頬のたるみ具合とか、鼻の穴の具合とか、目つきとか、

自分の特徴をよく捉えていると感心する。

自分の顔を絵に埋め込んでしまうなんて!

さすが、自分主張の強い自己肯定型の人だと思う。

元々そういう性格だから、芸術家になったのか?

芸術をしていくからそうなったのか?

どちらもありな、武内です。

この絵は、マジックで描いています。

この線のバラバラとしたタッチも独特で、

塗り込められて、タッチがわからなくなっている絵も、

こんな風になっているのを発見することがあります。

人や顔が絵に点在していて、

やっぱり街の絵だと思って見ています。

ここまでひどい顔じゃないとわたしは思うのですが、

顔に関しては、自分で醜男と思っているのかもしれない。

 

年末は、髭が伸び膨大のヒロク二さんが、

料理をしているわたしの横にやってきて、

「インドの賢人、サドゥー」と言う。

もう、ぴったりじゃないかと思い、

「あまりにもリアルだから、怖いわ」と言って、

「近寄らないでくれるぅ~」と言うと、笑っていた。

正月は、髭を剃ったのではなく、髭をハサミでカットした。

「顔が明るく見える」

「髭を伸ばしていると、老けてみえるんだねぇ~」とも言い、

そう言いながら、84歳のヒロク二さんを見た。

物腰や話方が若く感じても、どちらかというと老けてみられるヒロク二さんです。

老けて見えると言った手前、90歳ぐらいに見えていたのかと、

考えるとわけが分らなくなるのでした。

押入れに絵を描いてしまうぐらいなので、元気なんだと思います。

それはとっても良い。

今は、また髭が伸びてきて、仙人への道に。

仙人の姿で、昨日はガンガンと音楽をかけまくりの一日を送っていました。

CDラジカセを買い換えたので、嬉しかったようです。

ドイツのバンドの「CAN」をまず最初に聴いていました。

ヒロク二さんは、飛翔感覚を感じるらしい。

これを聴かずに絵は描けない!ということでかなりの時間、

私も一緒に聴くことになります。

そして、その挙句わたしの方は、「CAN嫌い」になってしまったのでした。

「CAN」がかかったら、心を閉じます。

 

次に、ロリー・ギャラガーの“IRISH TOUR”を。

「タータンのシャツを着ていてねぇ~」と一言。

 

次に、キース・リチャーズのソロ“Taik Is Cheap”を。

このアルバムは、私は好きになった。

なんだか、音が枯れた感じがして印象に残った。

写真に手が写っていて、長年ギターを弾いているせいか、

指の節が異常な盛り上がりがあって、一種の職人のようだと思ったのでした。

 

次に、ラムゼイ・ルイス・トリオの「ジ・イン・クラウド」。

これもよくかかるアルバム。

わたしは、これはとても好きになった。

 

次は、クラプトンの“Behund The Sun”。

ヒロク二さんは、心が弱ったらクラプトンをかけるときがあるようで、

これではなく、別のアルバムがあって(失念)それを聴きながら泣いたりする。

「皆がね、クラプトンを支えているんだよな」

「友人達がね」

と言って目頭を押さえたりとする。

わたしはあまり事情通ではないので、「そうなの・・・?」と思い、

男同士の友情に熱くなっているヒロク二さんの感性に感じ入るというところ。

そう、男の優しさを見ます。

 

夕食に差し掛かる頃は、ベルベット・アンダー・グランドの“WHITE LIGHT/WHIT HEAT”が。

ルー・リードです。

食事中、ベレベレ、ベレベレ、ベレベレ・・・という音がして、

すごく食事が食べ辛い。

食事を飲み込む時に、ビリィビリィ、ビリィビリィ、ビリィ・・・という音が聴こえたら、

飲み込むきっかけがつかみにくくて、“ぐぬム・・”という感じになって、

「ああ、しんどい」となります。

無言で、夕食は食べていました。

いろんなことを教えてくれるヒロク二さんなのです。

ベルベット・アンダー・グランドは、食事中にかけてはいけないということを知りました。

 

その中から、ちょっとおしゃれな感じのする、

ラムゼイ・ルイス・トリオの「ジ・イン・クラウド」を動画を紹介します。

↓これはロックでなく、ジャズらしい。

Ramsey Lewis Trio The 'In' Crowd

 

 

我家の庭は、今は淋しい。

その中で唯一成長しているようだ・・・と思えるキャベツの写真を。

↑キャベツの葉の中央がやっと巻いていっている。

植えた時は鉢より随分小さかったことを思えば、成長したということですが、

葉が大きくなってから同じ形のままのように見えます。

↑キャベツは6苗植えてあります。

地植えにして写真に写っていないのが1苗で6苗。

三つ葉が写っていますが、今は丈が伸びなくて1cmの軸からすぐ葉が出てきています。

また、凍ってだめになるものもあって、それが黄色く変色するようです。

キャベツには思い出があって、学生の頃、

農家で収穫の手伝いで住み込みのアルバイトをしたことがあります。

白菜、キャベツ、レタスの収穫が主だったのですが、

キャベツに愛着を感じたのか、農家から帰ってきてから、

キャベツの絵を、描いてしまう時期がありました。

葉脈の感じとか、丸くなっていく固まりと外の葉の在り様が気に入っていたようで、

何枚もあったのを、ヒロク二さんに見つけられたことも思いだします。

ヒロク二さんに「キャベツっていいよね」と言われたり。

「俺は、たまねぎの植わっているところが好きだな~」とも。

「蓮根が植えてあるところもいいかな」には、

「蓮根って、沼みたいになっているところでしょ」と返答。

わたしは、「稲の穂が揺れている時も好き。黄金みたいな感じがして」と言うと、

「俺は、あんまり好きじゃない」と言われる。

野菜に関しても(味じゃなくて)、好きとか、嫌いとか、そんな事ばかり。

変な2人なんです。

 

今日は、かつて、ロック喫茶をしていたヒロク二さんの生態を彷彿させる1日でした。

クラッシクやジャズがかかる日もありますが、昨日は、ロックがほとんど。

音楽や野菜にまで、これ好き、あれ好き、ばかり言っている2人。

思うには、常に、何に対しても、あれ好き、これ好きをしていると思われる。

今日は、音楽の話になったり野菜の話になったり、

方向転換してしまうブログを読んで下さった方、

ありがとうございます。

 

 

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翼を広げる少女(色鉛筆作品654)と 少女について

2022-01-13 12:39:45 | Weblog

ボールペンと色鉛筆で描かれています。

黄色とオレンジの色は蛍光色で描かれていたので、

スキャンが出来ず、写真でフラッシュを使用せず取りました。

「羽根を広げている女の子の図」といったところでしょうか。

この髪の毛はカールした女性像は、30年前から描かれているものです。

聞いてみたことがあるのですが、この形の女性は、

“奥さんになってない女性”らしく、少女の象徴ということです。

この作品は、紙がしごかれていない作品なので、

紙がしわしわしていなくて、よれていなくて、ピーンとしています。

使われている空色は、左と右の色が微妙に違っている。

ふ~ん、と思いながら眺めています。

しかし、この絵もシュールと言えば、シュールだ。

ちなみに、若い頃、ほんの少しの間、わたしはこういう髪型をしていた時があります。

この髪形で古着屋で買った“からし色のスーツ”を職場に着ていった時、

「なんか菊人形みたいだ・・・」と言われました。

 

この絵の“少女像”について、武内がペラペラとふざけ気味に話してくれたことがあります。

わたしは小まめに聞き取って書き写していたものがある。

そこを抜粋して、この“少女像”に迫りたいと思います。

けっこう長ったらしく、人を煙りにまいとるのか?という話方よ。

■以下会話抜粋

「僕の中に挿絵画家、特に女性を描く画家に対して、羨望感があるんですよ。

 こんな通俗な絵描いて大丈夫なのかな?まつ毛の長い、そしてこうやったり

(まつ毛がカールしている手振りをする)。うらやましくて。

 いつ、そんな絵が描けるようになるんだろう。

 いつか、そういう絵を描いてやるってねぇ。

 私は、奥さんの奥さんみたいな絵は描かないんです。エプロンつけてとか。

 マニュキアをつけて、細い指、長いまつ毛。

 そういう感じのお化けというか、ファニーなもので、ガールフレンドでもない。

 確かに女の子をじっと見てごらん。

 俺は、確かにああいう風に(絵の少女像のこと)解釈したから。

 中心に針金みたいなのが通って、靴は一足しか履かない。

 もう片一方の靴は、川で落としたのかもしれないし、

 そのうちテーブルにもう一方の靴を置くに違いないという風に決まっていると。

 『あれ先ほど、お宅のお嬢さん1本足で立ってましたよ』

 『あら、今日はもう1本の足は、どこかに忘れちゃったのかしらね』みたいに。

 それが、漫画と“僕のやつ(少女像)”との分かれ目じゃないか、と思っている。

 “僕のやつ”は1本足で立っているのは、いつも街が好きだから。

 だから、ずっと1本足で立っている。

 でも、家庭の方はそうじゃない。

 2本足で立っているだろ」と。

■抜粋終わり。

この少女像には、こういうイマジネーションがあるらしい。

かなりふざけ気味で、自分で話した内容で、笑っていました。

でも、難しい単語や専門用語が出てこないので、わたしにはかなり分り易かった。

しかし、話をノートに書き写していたというわたしもマメな人。

この少女像が出てくる絵は、やっぱり街の絵なんだと思いました。

他にも色々書いてあって、興味深い。

また、機会があれば紹介します。

農家の豚小屋で寝泊りした話なんかもあります。

その話の流れが自然な感じなんで、当然みたいに話すのがおかしいのです。

画家の青春の話、そのもので常軌を逸している。

でも、話す時は楽しそうで、いい思い出になっているような感じでした。

よくやるなぁ~、考えられないと思いながら聞いていました。

さすが!武内ヒロクニ???と思ったり、

顔が引きつったりしつつ聞いていた話がメモされています。

 

 

いいんですが、今日は、頭痛の種のヒロクニさんのことで終わりたいと思います。

↑「ちょっと来て」と呼ぶ声が。

「今、光の具合がとってもいいから」と呼ばれてアトリエに行きました。

壁に描かれた絵が、木漏れ日でゆらゆらする陽射しと共にありました。

この場所は、押入れで、ここで武内は寝ています。

夜中、音がする日があったのですが、こんな風になっているとは思いませんでした。

いい感じだと思うと同時に、

「ここ借家なのに・・・・」と。

「ここを出る時、どれだけお金を払わなくていけないのか・・・・」と。

「不経済な男・・・」、と思い、

確かに経済には疎い人だと思い、トホホ・・・と思いました。

誰か、壁画の仕事でも依頼してくれないだろうか?

エネルギーが余っているようで・・・・・

時々「ごく潰し」という言葉も浮かべるわたしです。

もう、私は2本足の女なのよね。

なかなか意味深なヒロクニさんの話でしたが、

靴なんか必ず両足履いてやるという私が、今はいます。

 

 

今日は、ヒロクニさんの“少女像”に迫りました。

いったい何?という形です。

少しは、イメージをつかんで頂けたでしょうか。

少しでも、難解さを軽減したいと、私自身思っています。

摩訶不思議な言葉の羅列を読んで下さった方、

ありがとうございます。

 

 

 

 

 

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奇妙な光景(作品紹介653)と 感情と運

2022-01-07 16:00:22 | Weblog

正月気分も抜けて、普段に戻った。

普段に戻ったということで、シュールな武内らしい作品を選びました。

サイズは小さめで、B5ぐらいの大きさ。

鉛筆のみで描かれた作品です。

濃い鉛筆、6Bとか、8Bを使っている。

「9Bとか、もっと濃い鉛筆はないのかねぇ」と言うくらい、

最近は濃い鉛筆を使う傾向があります。

実は9Bという鉛筆は、発売されているのですが店頭に並んでいる確率が少ない。

そういうわけで、8Bの鉛筆を使っている。

三菱のハイユニを使用。

コーヒーカップが出てくるのも特徴の1つ。

私としては、サーカスを見ているような気持ちもするし、

何か骸骨が予言に現れて、それをもてあそんでいるような印象がします。

“不気味さ”と“変な浮かれ具合”が絵にあって、それが奇妙。

そのなんともいえない奇妙さを味わう絵なのかもしれない。

妙なダンスをしているような雰囲気もあるが、

それは何なのか?ということは考えてはいけない。

感覚だけで見た方がいいと。

理論家になってはいけないのである。

 

正月気分も抜け、普段の生活が戻ってきた。

正月は「心ってままならないものなのね・・・」ということを痛感しました。

些細なことなのですが、母が行きたくないところへ私を誘ったことから始まりました。

行きたくないというのに、かなり強引で聞く耳をもたない話し方をするので、

むかっ腹が立った。

それで終われば良かったのですが、電話を切ってから、

過去の「母が私を強引に行きたくない所へつれていった記憶」が

噴霧のように噴出してしまい、走馬灯のように頭にくっきりと浮かんだのでした。

その時の嫌な気持ちの状態がありありと再現され、

自分のそういう状態を見て、

もうすっかり忘れていたと思っていた気持ちが突然、表に出てきた。

心の深層意識に深くに沈殿して溜まっていたものが表面化した。

自分がいる部屋はいつもと同じなのに、

自分の心は別次元の状態(当時の気持ち)にいて、

心の中で起こったこと(嫌な気持ち)は、私にはとっては真実なのですが

心の中で起こっていることは、今はその状態ではないにも拘わらず、

凄い勢いでよみがえってしまった。

ということは・・・・、その感情は私を縛っているもので、

何か同じ状況にあれば、再び再燃するものかもしれない。

あまりにも強く表出した感じの感情だったので、自分でも異様な感じがしたのです。

子供の頃の話なのですが、

行きたくない新興宗教に連れて行かれたりしていたというのがある。

「行きたくない!」というと、

「給食費払ってあげないから」とか言って、無理強いをされたりしていた。

また、そこの教祖さんとやらが、私にはいじわるそうに思えたり、

言っていることが矛盾していたりと、それを指摘すると無視する。

時々、言うとおりにしているのに死んでしまった人とかがいて、

それは何故かの理由が、「信心が足りなかった」とかでドン引きしたり。

かなり献金とかもしていたのに死ぬなんて!!と、子供心に純粋に驚いたわ。

なんか、言動に無責任でその方への愛はないと感じた次第。

とにかく、その新興宗教は、あらばっかり目に付き、尊敬できそうな人が1人もいなかった。

だから、嫌で嫌でしょうがなかった。

違う状況でも似たようなことが度々あり、この感情があるために、

こういう感情は膨れ上がり、同じようなことを引き起こしている過去を振り返った。

今回のことを簡単にいうと「行きたくない」という感情です。

そうして、振りかえってみると何度も宗教意外でも「行きたくない」ということが、

どうも私の人生では、繰り返してある事実。

繰り返しているのか・・・と、また驚きました。

この隠れていた自分の中での嫌な気持ちは、無くなった方がいいと思いました。

一番分り易い新興宗教のことを分析してみると、

「行きたくない」

「よくもこんな所へ連れてきて、時間の浪費をさせて!」

「そこに行っている空間自体が、不愉快」

「不愉快な人達」

「無理強いはやめてくれ!」

「ここの宗教は、死んでも信心できない」

「心がきれいな人がいないなんて・・・」

もう不満のオンパレードで、負の爆弾を抱えているような感情。

まあ、“怒り”ですよね。

そして、自分もドス黒くなっているという・・・・。

簡単にいうと、コンプレックスとも似ていると思いますが、

解消しておいた方がいいものだと思いました。

自分で褒めるのもなんですが、心の中でのみ起こっていると捉え、

こういう風に考えをもっていけるようになったのは、年の功かもしれない。

(まだ、59歳ですけど)

仏教哲学を超簡単にとりあえず、自分のわかる範囲で、

自分の言葉に置き換えてみているのも役にたっているかも?

こういうのも因縁というのか??と思ったり。

それと私の性格もある。

「これは、絶対行きたくない」「これは、絶対したくない」

こういう気持ちが人一倍強い性格なので、

“これ”に当てはまると相当心に付加が加わるようなのです。

当てはまる事項は少ないのですが、

私の中での特定のこれに当てはまって無理強いされると強い感情が残るのに驚きました。

嫌な気持ちというのは、

どんどん解放して発散させないと運が悪くなるよう気がしました。

自分を振り替えてみると、何度もあるようなので驚いたのです。

そして、発散させてしまえばいいと思い、

そういう感情が出てきたら、庭に出て箒の柄を持って、

「私は嫌だったんだ!」と心の中で言い、箒を振り上げ剣道みたいに

エイ!と言ってその人物を思い浮かべたりして、暴れます。

薄れてきたら止めると。

もう、寒いから家でする時は、紙をクルクル丸めて棒状のものを作り、

声はあげず、心で叫んでエイャ!とふすまを殴ることに。

紙の棒は、うまく折れ曲がって良い感じ。

端から見たら、ちょっと頭大丈夫か?だろうけど、他人ってヒロクニさんだしね。

そして、母にも過去の終わったことをチクチク言わなくていいから良い方法かも。

とにかく、負の感情、心の棘はあまり持たない方がいい。

その方が、運気アップにつながると感じた正月でした。

あまり清々しい正月ではなかったけれど、気づきの正月だったのかも。

大きい感情として現れたので、

仏教哲学でいう、「未那識(まなしき)」というものかといぶかった。

■「未那識」というのは、意識がなくなった状態にも不断に存在し、

  自己を愛し存在させる迷いの根源とされる心のはたらきを言う。

とあり、自我を形成するものなんでしょうね。

私の「これは、絶対行きたくない」「これは、絶対したくない」という、

2点の要素が私を形成していることもあると思いました。

“アラビアンナイト”のアラジンとランプの物語の「呼ばれて、ジャジャジャジャーン!」という風に

意識が飛び出てきたような驚きがありました。

そんな事は、はじめての体験でした。

もう、走馬灯のようにですから・・・・・。

今年は、私は煤払いの年になるのもしれないと思い、気を引き締めることにしました。

幼稚園の頃は、「昼寝が嫌」という理由で、毎日早引けをするような幼児で、

勝手に1人で帰っていたという、エピソードもあります。

「あ、昼寝だ。帰ろうっと」と、寝ている子供を見ながら、身支度して下駄箱に向かって、

靴を取り出し、「さようなら」とわき見もせず、家に一直線。

先生が「昼寝をしてちょうだい」と言っても、

「今日もありがとうございました。私帰ります」って、すまして帰宅。

なかなか、自分の性格にもかなり凄いものを感じる今日この頃。

これって、ヒロクニさんみたい・・・・・。

2022年は、自分自身見直しの年になりそう。

 

 

今日は、ヒロクニさんの文章で締めくくりたいと思います。

↑いつも「あなたも文章を書いて!」と嘆願しています。

ちょっと書き始めだけどと言って見せてくれたものを拝借しました。

鹿児島県徳之島出身なので、島への思いがあるようです。

大きな紙に大きな文字で書くのが特徴で、何故かわら半紙でないと書けないみたいなのです。

文章に対して、うるさいタイプなので何かこだわりがあって、

すぐ、これじゃダメだ。と思うらしい。

私は、「そんなにいい文章を目指さなくていいから、内容さえあればいいのじゃない?」と、

メチャクチャ言っています。

「私は、何でもかんでも理解できるわけじゃないから、文章を残しておいて欲しいのよ」とも言い、

「あなたが亡くなったら、私はどうしたらいいのですか?

文章を残してくれたら、それを出版出来るでしょ。」とか弱い女性のように言う。

すると「絵も描いて、文章も書いて、茶碗は洗い。忙し過ぎるよ」と言う。

会話の中にいつも“茶碗洗い”が出てくる。

頭の中に“茶碗洗い”がしっかり食い込んでいるようで、

洗い終わったら

「茶碗は、出来ているから」

「茶碗は洗えているから」

「茶碗はちゃんとしておいたからね」

いつも報告してくれます。

ヒロクニさんの文章も独特なリズムがあるように思うので、

もっと書いてみて欲しいと願っています。

 

 

今日は、私のとんでもない負感情の話を書いてしまいましたが、

生きていると何らかの負の部分があり、

それから解放されるのも自由への一歩と思い書きました。

ちょっと、哲学めくと文章がネチネチしてしてしまい、

読みづらかったかもしれません。

気持ちを整理して、すっきりさせるのも開運かもと。

それと、私もヒロクニさんのような行動をしていたことがあったとは!

でも、自分勝手な行動とはいえ、当人はスッキリで

なんのわだかまりもなく過ごしたことを思えば、

周りに迷惑を多大にかけるのでなければ、我儘も良い部分もあると感じたり。

最後まで読んで下さった方、ありがとうございます。

ほんとに!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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跳ねる石(色鉛筆作品紹介652)と 我家の正月料理

2022-01-01 15:02:03 | Weblog

自身所有の本のページを外したものに描かれています。

何が書いてあるのか読めるので読んでみました。

「このラッピングに対応する文学的スタイルをもつ二人の男、

 マーシャル・マクルーハンとバックミンスター・フラーが大学の教科課程で

 正当に評価されていないのは偶然ではない。~省略~」という文章が。

こんな内容のものを読んでいたのか・・・、と。

武内の好きそうな文章でした。

この絵の描かれている紙は、質が良くメモのように使っている。

色鉛筆塗った時の発色がいい。

これに気がついて、この紙によく絵を使っているのでしょう。

他にもありますが、赤い丸みを帯びた形が正月にいいかもと思い選びました。

赤色が美しい。

形は石が水の上を、飛び跳ねた時に起す波紋のように思いました。

今年は、何か飛躍があればいいな。

コロナという厄介なものが地球を覆っていますが、

ジャンプ!

ステップ!

ジャンプ!で、

突き抜けれますように。

 

改めて、2022年、明けましておめでとうございます。

正月の朝は、朝から!!

ジミー・ヘンドリックスがかかっていて、濃いヒロクニさんです。

私は、静かで清らかな正月を迎えるのが好きなのですが、

正月からヒロクニさんは燃えているようです。

また、寒さに弱いヒロクニさんは、寒さの悪口を言い、

その内容の荒唐無稽なこと。

私は、珍しい動物を見る目で夫をながめ、

精神科医が頭のおかしい患者を観察するように、じーと見ます。

そうすると、夫と自分にくっきりと境目が出来て巻き込まれないですむのです。

そうしていると、ヒロクニさんは我に返る時があって、

「いや、自分がそうしているのだ」と言う。

ハッとしている時はチャンスと思い、

「それより、あなた薄着で・・・、靴下は履いてる?

それに重ね着できるように薄手のタイツ買ってあったのを何故はかないの?

そんな格好じゃ寒いでしょ」と、おかみさん風情で言う。

それにしても、何であんなに薄着なんだろう?

頭悪いのと違う?と、つい思ってしまう。

そして、精神科医の目になります。

変人と暮らしていると、対処の“技”が必要なんです。

こんなことばかりが、身に着くのでした。

 

 

晦日の日は、“ちょこっとお正月料理”ということで、朝から料理をしていました。

そうして、正月は料理はあまりしないのです。

料理を終えたら、着物に着替えてお皿に料理を盛り付けて、

小料理屋さんのおかみさん風情で、

「お料理できましたわよ」とアトリエの襖から声かけ。

そんな、ちょっこと料理を紹介します。

まずは準備の段階。

↑里芋なのですが、八つ頭という種類。

庭に残していたものを掘り起こしました。

↑五色なますの準備。

作る酢を間違えていたみたいで、醤油で黒い色をしています。

色味が悪くなると思い、見直したら写し書きが間違っていたようで作り直す。

だいこん、にんじん、きくらげ、錦糸卵、揚げのなますです。

↑こちらは、彫り上げた里芋を使って煮物。

他ににんじん、こんにゃく、ごぼうが入っています。

煮干を入れて作るもので、はじめてする煮物。

↑こちらが出来上がりの我家の正月料理。

丹波の黒豆は圧力鍋で煮ました。

↑煮物は砂糖が入っていなくて、醤油と煮干の香りがして始めてのお味。

けっこういい。

↑五色なますは、酢を作り直したので色よくできホッとしました。

焼いた揚げがいい感じ。

↑ふくさ焼き卵。

甘辛く煮付けたにんじん、しいたけ、きくらげ。

茹でた銀杏が入っています。

これも初めて作ったもの。

昨年作った伊達巻より、こっちの方が私は好きなようです。

オードブルは、市販のものと頂いた福井県のかまぼこ。

↑こちらは、いぶりがっこのクリームチーズのせ。

はじめて“いぶりがっこ”というものを食べました。

スモークがよく効いているお漬物で、クリームチーズと食べるとスモークチーズ風に。

とても不思議な味わいがあります。

ヒロクニさんからは、「俺、これダメ」と言われてしまいましたので、

Lサイズの漬物は、私が食べなくてはいけません。

クリームチーズばかりのせられないので、アレンジを思案中。

デザートに杏仁豆腐を作っておいたのを言うと、

「俺、杏仁豆腐ってのは好かん!」と。

「私が好きなの!私が好きなのォ!」と。

杏仁豆腐はお酒を少し飲んだあと食べると美味しい。

杏仁豆腐は、私の独り占め状態でも嬉しいからいい。

しかし、「おせち料理は、もう飽きた」も言われそうで、

もしかして、私がほどんど食べなければならないことになるのか・・・も。

正月は、ハレの日にしたいので、あれやこれやといろいろ励むのでした。

 

今年もこんな私達ですが、

よろしくお願いします。

お正月、試行錯誤の我家の料理でした。

読んで下さったかたありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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