武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

幾何学的な街(色鉛筆作品紹介770)と春のビオラ

2024-03-28 14:50:59 | Weblog

記号と幾何学模様が組み合わさった絵。

手前にある斜線が入った水色の部分がL字になっている。

手前にあるのは船なんだと思います。

そして、奥の目玉のある水色の部分と赤と黒の部分は、

対岸にある建物でしょう。

直線的な線で構成しています。

黒で描かれた線も太く、細く、その中間の線幅と、

はっきり区別するように描いていることから、

遠くから見ると空間を感じます。

モダンな街の絵ということか?

但し、目玉のある建物は蛙の顔のように見え、

モンスターのようでもあり、キャラのようにも思え、

何故か愛嬌を感じます。

当人は、普段、大真面目な顔をして描いているのが常なので、

この部分をキャラとは、まったく思っていなさそう。

ある意味くそ真面目だからこそ、出切るのかもしれません。

絵に対しては、異様に真面目で息苦しいところがあります。

言動は、人をからかったり、ふざけたりしますが・・・。

黒い部分も色鉛筆の黒色を使用。

鉛筆は使用せず、色鉛筆のみで描いています。

色鉛筆の黒というのは、

鉛筆と違い光らないので、重厚な感じの仕上がりになります。

この性質もうまく利用している作品だと思う。

 

 

 

やっと風が春めき、桜が咲くのを楽しみな季節になった。

ところが、どういうわけか頭がまったく働かない。

それは、昨日の27日がひどく、ブログを書こうと思っても、

ひたすら脳の中は白紙状態。

夕食のメニューすら決めかねるありさま。

こういう日って、とても珍しい。

1階のアトリエにいるヒロク二さんはというと、

↑いそいそと玄関の扉が開き、足音がしていたと思ったら、

ビールを買いに行っていたようだ。

鉛筆を握り締めていない時は、くつろぎモードのようで、

絵を点検していました。

近くに、おやつや飲み物、たばこ、酒、軽食、日用品を売っているショップがあるので、

病院の売店に行くノリで、よく行っている。

(入院したら、やたら売店に行くのがヒロク二さん)

ビールを買ってきたようです。

写真を見て気がついたというわたしもまぬけ!

このようにくつろぎムードでした。

わたしは、やっと花が咲いたビオラの点検へ。

↑毎年、「咲かせたい!」「種を継いで温存したい!」という黄色のビオラ。

黄色にグレーの部分があるのが、気に入っているのですが、

手前のは茶色と黄色の2色に分かれたものが混じっています。

↑こちらは、茶色のビオラと思って植えつけた鉢。

茶色のものにブッチ(花の中央の黒い部分のこと)が入ったのが咲きました。

真黄色の花と紫と黄色の2色に分かれた花が混じっています。

茶色の花は、継いだ種によっては、紫と茶色に分かれるのです。

↑ビオラをアップで。

同じタイプの種をまいてもいろいろな花が咲きます。

↑濃い赤茶と黄色のビオラ。

猿顔タイプのビオラ。

間が抜けたビオラなのですが、それなりに気に入っています。

↑アラカルトと称して、いろいろなタイプを植えつけた鉢。

黄色とブルー、白で爽やかな色合い。

↑こちらもアップで。

少しづつ違う花達。

今年は、どのタイプの花の種を採取しようかな、と考え中。

 

春の初めは、わたしは頭が真っ白。

ヒロク二さんはビールを飲んでくつろぎモード。

夕食のメニューの取り合わせが、おかしなことになりそうな予感。

来週は、桜が咲きそう。

近くの川沿いに桜並木があります。

それを楽しみに過ごすことにしようと思います。

花の美しい姿は、人の心をなごませてくれます。

だから、春は嬉しい。

 

嬉しい季節なのに、頭が働かないというのは悲しいような・・・。

はやく頭がまともになって欲しいと思い」ます。

昨日は冗談で、唐辛子のビンに、話かけました。

「あなたは唐辛子ですよね。

 こんにちは。

 今日は出番がなくって、悪かったですねぇ。

 わたしは、あなたのことが好きですよ。

 わざわざ、あなたを買いに成城石井にまでいったのよ。

 分かった?」

と、唐辛子の瓶に語りかけていると、ヒロク二さんが見ていました。

ヒロク二さんの顔を見ながら

「あっ、今ね。唐辛子に話しかけてたの。

 頭がおかしいのよ。

 もう、この家の住人は、すべておかしいのよ。

 そう思わない?」

と、言うとヒロクニさんは、ニヤニヤ笑ってました。

春なのでしょうか?

今日もブログにお付き合い下さりありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

 

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放電(スクラップブックより紹介769)と ロアルド・ダール(マチルダはちいさな大天才)

2024-03-19 18:25:23 | Weblog

コミックのような作品。

絵の下の貼られた部分を見て、いろいろ集めているのね、と思う。

うまい具合に絵の大きさに合っています。

マジックと色鉛筆を使用。

この絵を見た時、描かれた部分も印刷されたような表面で、

自分の絵をコーピーしたものを貼っているのか?と思ったぐらい。

「放電してるじゃない!」と思い、

ビリビリする感じをこの絵から感じ取っていました。

このふざけた感じのする絵、なんか憎めません。

わたしは、武内に振り回されている妻で、怒り心頭することもありますが、

最終的に「憎めない人・・。」と思ってしまい、

トホホ・・、と思いながら笑って仲直りしてしまいます。

そういう武内の性格というか、性向を物語っているような気がするのです。

わたしにとっては、当人そのもの。

武内の立場からいうと自画像だと。

やはり、絵は作者の分身なのかもしれない。

黒に浮かびあがる線は、赤色だけでなく、青色が添えられていて、

それが電気がビリビリしているような感じを出している。

プラスとマイナスの2極の原理なのか?

そう思って描いていないことだけは確かだ。

選択は瞬時で、勝手に手が動いているから。

この絵にもスピード感があり、そうでなかったらこの絵は出来ていない。

遊びというか、実験といってような作品のせいか、スクラップブックに貼られていました。

先回の「スクラップブックより紹介768」に続き、今日もスクラップブックからの紹介です。

 

 

近頃、要領が悪いせいか、やろうと思ったことが進んでいない。

早起きしたらいいか?と思っても、

春眠暁を覚えずといった具合で寝るのが気持ちが良い。

春のような暖かい日が訪れてからは、

寒さに対抗して気合を入れていたのが緩んだようで、ぼんやりしている時がある。

図書館へ行くのに新しい散歩道を教えてもらったので、

明日は図書館へ本を返しに行こうと思っている。

そんな中、ちょっと印象に残った本があります。

「マチルダは小さな大天才」ロアルド・ダール著。

この作者は、映画にもなった「チョコレート工場の秘密」の作者でもあります。

読んでいると、ヒロク二さんからは、「その挿絵いいじゃない。シャレているじゃない。」と言われたり、

「チョコレート工場の秘密」の訳が、田村隆一だと言うと、

「へぇー。」と言い、「そうなの。」と感心していました。

ヒロク二さんは、ミステリー好きで詩人の田村隆一が翻訳しているのをよく知っているので、

「あの人が訳している!」

だから、いいに違いない、というふうに考えが流れていっていると想像する。

話は、超がつくくらい賢い5才の女の子が主人公。

マチルダという名前だ。

本が大好きで、図書館の本を次々読む。

その本たるや、

チャールズ・ディケンズ著『ニコラス・ニクルビー』

チャールズ・ディケンズ著『オリバー・ツイスト』●

シャーロット・ブロンテ著『ジェーン・エア』●

ジェーン・オースティン著『自負と偏見』●

トマス・ハーディ著『ダーバビル家のテス』

メアリー・ウェッブ著『大地に帰りて』

ラディヤード・キップリング著『キム』

H・G・ウェルズ著『透明人間』

アーネスト・ヘミングウェイ著『老人と海』

ウィリアム・フォークナー著『響きと怒り』

ジョン・スタインベック著『怒りの葡萄』

J・B・プリーストーリー著『友だち座』

グレアム・グリーン著『ブライトン・ロック』

ジョージ・オーウェル著『動物農場』●

というリスト。

(後ろの●印は、わたしが読んだ本)

この中から、これから読もうと思う本を見つけたりしながら、

この本の選択に笑いが・・・。

なんといっても、5才の女の子が読む本だからという事と、

作者が何故これらを上げたのかという思いも加わって面白い。

とにかく、知能指数が違う5才の天才女の子が登場する。

ところが、その子の親は俗物で本のことを“クズ”と言い、「もっと役に立つことをしろ!」と怒鳴る。

本を読むと怒られるやら、罵られるマチルダの押し込められた怒りは、ちいさな身体にもたまる。

そして、こう言い決意する。

「かつてナポレオンがいったように、攻撃されたときには、反撃することだ。

 それがただひとつの思慮深いやりかただ」と呟き、

冷静に仕返しのいたずらを計画するのであった。

学校へ入学すると、今度は、とんでもない怪物のような校長が待ち受けている。

ミス・トランチブルという図体が大きく、ハンマー投げの選手のような校長だ。

この校長は、小さい子供が大嫌いなのだ。

マチルダは、この校長のことを

「彼女、すごく危険な人ね。どんなにひどいことでもやりそうだわ。

 この学校にいるのは、コブラといっしょに檻のなかにいるようなものよ。

 足がすごく早くなくちゃならないわね」と言ってのける。

生徒たちは、この校長に髪の毛をつかまれ、ハンマー投げのように投げられ、飛んでいくのだ。

むりやり特大のチョコレートケーキを食べさせられたり、

耳をねじまげられたり、数々の悲惨な暴力をうけることになる。

こういう事態に助け舟を出す、優しい先生がいるのだが、

その先生さえ、簡単に牛耳ってしまうのが校長だ。

その校長への怒りが頂点に達した時、マチルダは特殊な能力を持った。

頭脳とその能力を駆使して、校長への反撃を計画する。

最後は、やっぱり賢いマチルダ!!

となって、爽快感すら感じる展開です。

このお話を「児童虐待」のように感じて、子供に読ませることは・・・。

というような感想を持つ人もいるようですが、

イギリス人らしくブラックユーモアを効かせているのだと思います。

あの怪物のような校長のセリフとか行動は、滑稽なぐらい凄い。

人間じゃなくて“熊”のような凶暴さすら感じる表現に、笑いが起るぐらい。

だから、生徒に対してもグルグル振り回して、教室の窓から飛ばす。

すべてが大げさに表現されている面白さがなんともいえない。

■セリフを抜粋すると、

「お前を見ていると吐き気がするよ!」とザ・トランチブルはさけんだ。

「お前は歩く黴菌だ製造工場だ!わたしはきょう、これ以上お前の顔を見たくない!

 顔を壁に向けて、片足で立ってなさい!」

「ごちゃごちゃいうんじゃない。さもないと、足じゃなくて頭で立たせるぞ!

 さあ、いわれたとおりにやるんだ!」

と、こんな感じ。

こう書いているうちに、中学時代の体育の女教師を思いだした。

わたしの苦難の時間。

わたしは、運動能力がなかった人だ。

その教師が、わたしを指差し、「悪い見本をやれ!」って、走り幅跳びを皆の前で1人やらされたことがあったのを。

嘘みたいな話だが、その教師の顔がゴリラだった。

悪い見本をさせられた後、「何考えて飛んでいるんだ?」と聞かれ、

「いや、特になにも考えてません。」と言うと、

「頭を冷やせ!運動場一周走ってこい!」と、木の植わっている運動場のはずれを指された。

みじめな感じで、1人走りました。

しかし、その風貌と女教師の陰険さの方が際立っていたので、それほど気にしませんでした。

それに、悪い見本をさせられるより、走る方がましだ。

時間稼ぎと思い、ゆっくりと走ったのでした。

しかし、よく指差されたものだ。思い出してきた・・。

バスケットの授業でも、ストップと言われ止ると、

「何を考えてこのポジションにいるだ!行ってみろ!」と言われ、

ボールがこないところにいるんですとは言えず、「分かりません。」というと、

また、「走って来い。」と。

なんの役割も果たさない場所にいる人間を見たら、イライラするのだろうね。

しかし、わたしは人に迷惑にならないように考えて、その位置にいるという・・。

そう、ボールが自分に来ないところにワザワザいる。

ボールがわたしの手に渡ったら、すぐ相手にボールが渡ってしまうからだ。

だから、私的には正解なんです。

それが、ゴリラの教師には気に食わないのだと思います。

急に思い出しだけれど、よく似た教師がいたものだと書きながら驚いた次第。

事実は、小説より奇なりなのでしょうか?

たぶん、モデルはいるんでしょうね。

わたしの他にも、走らされている子がいました。

体育の出来ない子が大嫌いな先生でした。

 

本の名前と著者がこれほど引用されている児童書ってないと思います。

この物語を通して、ロアルド・ダールは、「読書は素晴らしい。」

と、いうことも伝えたかったような気がします。

文中には、

C・S・ルイス著の『ライオンと魔女』

トールキン『指輪物語』

ディラン・トマス(詩)

と、イギリスの名だたる作家の名前が登場します。

イギリスの支柱となる書物が上げられているのだろうか?

作者のお薦めの著書なのか、興味深い。

 

先週の768の記事でとりあげた、花が満開でした。

木蓮と書きましたが、「こぶしの花」だったようです。

お休み前のスーパーの遅い時間は、安くなっているのではないかと思い、7時頃に行ってみました。

すると、もう花が満開に。

下弦の月とこぶしの花を見ているうちに、気持ちが高揚してくるのが分かりました。

なんとか月も写したいと思って撮ってみた。

こぶしの花は、なんと清楚で清々しいこと!

 

手にとって読む本で感銘を受けるのは、イギリスのものが多くなっていっている今日この頃。

地味な味わいが好きだ。

マチルダのように、反撃するのは、夫にだとすると・・・、

救われないわねぇ~と思いました。

 

今日は、児童書の紹介になりましたが、大人が読んでも楽しい本だと思います。

こういう大げさな人物の描写に驚いたし、それが非常にうまくいっている。

その驚きを伝えたかったのだ。

それは、伝わっただろうか?

子供でこの本が好きな子は、何回も読むそうです。

その気持ち分かるなぁ~と、思いました。

なんの足しにもならない、内容でごめんなさいね。

今日もブログを最後までお読みくださった方、ありがとうございます。

 

 

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骸骨と人(スクラップブックより紹介768)と ビート・ゼェネレーション

2024-03-13 20:01:40 | Weblog

1階は、アトリエ&居間&キッチンになっています。

机の上の横に、スクラップブックが乗っていました。

それを開けて、チラッと見たとたん、ズーと眺めることに。

以前見た時よりも、加筆されていて完成度が高くなっているページがあって、

進化していました。

雑誌や写真の切り抜きに、自身の絵の切り抜きが貼られていました。

それに彩色が加えられ、「こんな絵あったけ?」と思ったり。

上の骸骨の絵がそれになります。

目が漫画の描く瞳のようにウルウルと輝いていて、

「何だ!この骸骨は!」と心の中で叫んだ。

左の目は、月夜。

右の目は、太陽が照る。

そして、内股で憤慨する骸骨。

頭には、何か刺さっているし・・・。

見ている内に、ちょっと笑ってしまった。

骸骨のところは部分で、全体はこんな感じ。

↑この人物の写真と呼応している。

一番上の靴は、ニューバランスのスニーカーの写真。

靴底が虹色だ。

「こういう靴、履きたかったのか?」とも思ってみる。

裸足の人物の写真の上に靴。

文明との対比?

写真の人物は、米国の詩人アレンギンズバーグだ。

写真の出所は、アレンギンズバーグが撮った写真集。

これは、今で言う自家撮りでしょう。

武内は、この本を所蔵していました。

(今買うと、8800円するらしい)

この本の写真は、破り取られ部屋のあちこちに貼ってあった時期がありました。

この写真集で印象に残った写真は、

台所でぼそぼそとした食事を取りながら、憂いのある表情で写っていた老人で、

その後ろには、ジュリアン・シュナーベルの割った皿を塗りこんだ絵が無造作に飾られていました。

不思議でならなかった。

その人物とシュナーベルの絵が結びつかなくて。

シュナーベルは、1980年代に活躍した画家で、新表現主義の画家。

まだまだ、シュナーベルが有名でない頃、絵を購入するような人だったのかな、と想像したり。

 

アレンギンズバーグは、第二次世界大戦後の文学に影響を与えたビート・ジェネレーションの中心人物。

乱暴な言い方をすれば、ヒッピー文化やベトナム反戦運動とも結びついた。

時代との相性が良かったのだと思う。

裸の写真は、自然回帰の思想からと思われる。

以前、もう1人のビート・ゼェネレーションの作家、

部屋の中で、ジャック・ケルアックの「地下街の人びと」という本がやたら目についた時があった。

「これはいいから、君も読みなさい。」と言われたことありました。

「もう、地下とか薄暗いところの話?暗い話と違うの?」と言うと、

なんてことを言うのだ!という顔で、わたしを見ていたっけ?

文体、文章に特徴があるのだろうな、という事は分かる。

武内が好きな文体は、

支離滅裂な表現やセンテンスの継ぎ目にくる単語の羅列に美意識を感じるもの。

わたしにとっては、苦痛になりそうな予感があって、未だ未読。

このタイプの作家に、ウイリアム・バロウズもいて、それも好きなようだ。

彼の小説に、「ジャンキー」というのがあり、

わたしは、遠巻きに背表紙を見るだけである。

というわけで、ビート・ゼェネレーション、御三家の本が我家にはあるのです。

 

そんなことを考えていた日の夜、1階に行くと、めずらしくヒロク二さんがテレビを付けていました。

画面を見ると、若いボブ・ディランが写っていました。

(3月12日のNHKの放送で)

それを見て、ボブ・ディランの番組は見るのか・・・、と思っていると

いきなり、ボブ・ディランとアレンギンズバーグが一緒に墓の前で写っている写真が映し出された。

わたしは、スクラップブックを見てから、ギンズバーグのことを考えていたので

このシンクロニシティに驚き、ブログの内容はこれにしようと決めた。

ギンズバーグが映し出されると、ヒロク二さんは「アメリカ人てのも面白いねぇ。」と言い、

キング牧師が映し出されると、「マーティン・ルーさー・キングも素晴らしい人なんよ。」と。

その後、黒人の公民権運動の様子が写った。

それを見ながら、このビート・ゼェネレーションの思考は、

今までの価値観を否定するような動きのムーブであり、アメリカらしいと思いました。

ヨーロッパでは、キリスト教からの重圧に対抗するために、

悪徳を行う、サド侯爵が現れ、フランスの哲学者サルトルが「神は死んだ。」と宣言する。

アメリカは、イギリスのプロテスタントの人々が移り住んだという経緯があり、

こちらもキリスト教の教義がきつく、なんらかの縛りから解放されたいという欲求があったかもしれない。

アメリカでは、ビート・ゼェネレーションがその役割を担なったのかもと。

ヨーロッパと違うのは、個人の反抗ではなく、大衆性があったことだと思う。

それは、一種の文化のように伝播力があったことにも驚く。

日本にもヒッピー達がいたと思いますが、この人達はどういうことを思って感化されたのか?

わたしはこういう時代を通過していないので、単なる流行のようにとらえていて、

ヒロク二さんに「ヒッピーだったの?」と聞くと、

「俺は、ヒッピーじゃない。画家だ。」というのですが、格好がそれぽい写真がチラチラある。

頭だって赤くて爆発していた写真を見つけたら、

「愚かしいことをしていたもんだ。」と言いながら、その写真は取り上げられた。

恥ずかしい過去の写真ということなのか?

ヒッピーと言われたくない感ありあり。

また、ヒロク二さんは、ジャズやロックにも傾倒して、ロック喫茶も経営した時期もある。

その頃は、8mmフィルムを取っていたという事です。

このビート・ゼェネレーションと言われた、文学、音楽、絵画に、接近し肉迫していたよう。

芸術の分野に限り、影響を受けまくっていた感じだ。

影響を受けた作品は、もしかしたらキッチュに見える作品かもしれないし、

センテンスとして、意表をつく形や線かもしれない。

ボブ・ディランは、ギンズバーグに影響を受けたと語っています。

最後は、ギンズバーグの『吠える』の文章を一部抜粋して、終わりたいと思います。

吠える

ぼくは見た ぼくの世代の最良の精神たちが 狂気に破壊されたのを 飢えてヒステリーで裸で、

我が身を引きずり ニグロの街並を夜明けに抜けて 怒りの麻薬を探し、

天使の顔をしたヒップスターたちが 夜の機械のなか 星のダイナモへの いにしえの天なる繋がりに焦がれ、

貧乏で襤褸ぼろでうつろな目でハイで 水しか出ないアパートの超自然の闇で 煙を喫って夜をすごし 

都市のてっぺんをふわふわ超えながらジャズを想い、

高架の下で脳味噌を天にさらし モハメッドの天使たちがよろよろ 光を浴びた長屋の屋上を歩くのを見て、

輝くクールな目で 方々の大学を通り抜け 戦争学者たちのただなか アーカンソーと ブレイクの光の悲劇を幻視し、~略~

柴田元幸訳、抜粋

こういう詩は、読んで体験しないと分からないと思います。

この感じ、ヒロク二さん好きそうです。

わたしは、物語派なのでこういうのは、苦手なんです。(汗)

 

↑もうすぐ咲きそうな木蓮のつぼみ。

買い物帰りなのですが、ビルの間の青空によく映えていました。

都会にも、春が来る。

これから、木蓮の花を見るのが楽しみです。

今日は、読まないビート二クの本を外から観察しているような感じで、

説得性が薄い気もしますが、武内の感性が少し分かる内容でもあったと思うのです。

内容が分かり難いというか、分からないものが好きな人です。

感覚派なんでしょう。

今日も、最後まで読まれた方、ありがとうございます。

 

 

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発芽(メモ紹介767)と 香月泰男の絵画“苦と喜び“

2024-03-05 16:56:08 | Weblog

大きいサイズのメモ。

52×39cm。

クレヨンと鉛筆、色鉛筆を使用。

わたしは武内の絵を最初に見る人である。

そして、意表を衝かれ気持ちが落ち着かなくなる人でもある。

この絵もそうでした。

「武内の頭の中は、いったいどういう風になっているのだろう。」とか、

「いったいこれは何だ!」とか、

「これは理解されるのだろうか?」とか、

「こうやって、摩訶不思議絵画によって、食えなくなるのか?」という不安が出てくる。

そう、初めて見た瞬間、驚くのが常。

しかし、時間が経過し見慣れてくると、目が慣れるのか、いろんな思いが出てきます。

今や気持ちは春待ち状態。

そんなこともあって、発芽しはじめた種のようなイメージを持ちました。

ピートバンの上で、ちょこんと根を出し始めた種のようだと。

昨年撒いたビオラの種は、まさしくこんな感じで、その後、双葉が出てきました。

そんなふうに見ていると、このメモの絵はたいへん可愛らしく思え、

明るい気持ちになる。

この絵を見ながら、夕食を食べていると、春を考えずにはいられない。

そう思って、横にいた武内を見た。

目が合うなり、「ウクライナのことを考えると憂鬱でねぇ。」という言葉が・・。

武内は、幼少の頃は戦中で、空中から狙い撃ちされたという経験があるので、

(飛行機の荷の重さを軽くする為に、アメリカ兵が捨石のように弾を消費することがよくあったという事です。

 決して殺そうと思って打ったものじゃないらしい。

 冗談半分に打ったんでしょうと、戦時の事に詳しい編集者の方が教えてくれました。

 冗談だとしても、エグイな、とわたしは思うのですが)

その恐怖や平和がない時代を思いだして、ウクライナのことを考えているようでした。

「そういう中で、わたしが絵を描くということは、どういうことだ。」

と、切実な顔をして言い、わたしを見る。

こういう問いかけは、答えがなく難しい。

武内の苦悩している姿を見て、かなり重苦しくなって憂鬱になっているようだ。

時々、こうやって重苦しくなることも悪いことではない。

親身になって思いやっているのが良くわかる。

武内のヒューマンな面が出ている。

そこで、わたしは、

「もし、ウクライナの人が絵を見て、心が明るくなって希望を持つ絵があったらいいじゃない?」と言った。

「そういう絵があったらいいじゃない?」と繰り返した。

その時、本当にそう思ったのです。

武内は、ちょっと気を取り直したようで、仕事台の前に座りに行った。

そういう絵があるなら、見てみたいものだ。

未知の分野ということです。

 

 

こういう話題になったことで、取り上げたい画家がいます。

「香月泰男」という画家です。

よくNHK等でも取り上げられる画家で、太平洋戦争にて、ソ連に抑留されシベリアの強制労働をさせられ、

この原体験を描いた画家として、よく紹介されます。

わたしは、この<シベリアシリーズ>を見て、

「なんとも暗く辛い絵だ。」という気持ちで一杯になり、黒い絵柄が脳裏に焼きついた。

それから、香月泰男という名前を見ただけで、その絵柄が浮かび見ないようになった。

このシリーズの絵を見ると、全部同じ気持ちで埋め尽くされるからだ。

↑香月泰男《復員〈タラップ〉》1967年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

これが、シベリアシリーズの一枚。

↑こちらも

《ダモイ》 1959年 油彩・方解末・木炭、カンヴァス 山口県立美術館蔵

こういう絵が、わたしの脳には、この方の絵とすり込まれました。

ところが、美術雑誌、芸術新朝で紹介されたページの香月泰男氏を広げると、

↑こんなページが出てきたのです。

こちらは、山口県にあった香月泰男宅の台所の壁画。

思わず、「台所が、なんと素敵なこと!」と、うっとりしたのです。

ここで、香月泰男氏の絵のイメージが一転したのです。

他には、パリの街角を描いたものや、ブリキのおもちゃがありました。

↑この絵は、パリの街角を描いていますが、なかなか洒脱です。

シベリアシリーズとうって変わって、軽いタッチ。

↑このブリキの人形達も洒脱で、今にも動き出しそうだ。

もう、動いているのかも。

これは、<おもちゃ箱>シリーズだそう。

その雑誌の香月泰男の特集を眺め終わってから、

あの<シベリアシリーズ>ばかり紹介するのは、やめた方がいいのではないだろうかという思いが・・・。

評価が高いのが<シベリアシリーズ>らしいが、それもどうだろうか?

わたしには、どちらも等価に思われます。

人生の中には、辛いときもあれば楽しい時もあり、その両方があるということは貴重だ。

香月泰男氏の紹介では、その両面を取り上げてこそ作家を知ることになると思いました。

そのことによって、シベリアシリーズも違った観点から鑑賞することが出来そうです。

 

最後に、種を継いで育てているビオラに新しい色合いの花をつけました。

↑電球の色で暖色がかって写ってしまったのを、

なるべく花びらの色を再現と思いカラー調整で出してみました。

グレーがかった藤色に黄色の花びら。

食卓の机に置いていると、ヒロク二さんが、「新しい顔だねぇ。」と言う。

「もう、ビオラの花が顔に見えるのなら、あなたもわたしの仲間だね。

 長年見ていると、顔にしか見えないのォ。」

と言い、笑った。

このビオラの種は採取して、今年も育てるつもり。

 

今日は、大きなメモを紹介しました。

武内の絵を見て、脳がくるくると回転していつもと違う部分に刺激が行く時があります。

その感じが伝わっただろうか?

ウクライナでの紛争のことから、わき道にそれ、

シベリアでの過酷な試練を受けた「画家・香月泰男」の絵についてを書きました。

わたしが思い込んでいたように、暗く辛い絵の画家という認識を変えて、

美と生きる喜びの絵も素晴らしいと思って頂ければ幸いです。

最後まで読まれた方、いつもありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

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