武内 ヒロク二

このブログは、武内ヒロクニの絵の紹介や、家での出来事を妻が語ります。
日々、徒然。

羊が2匹(作品紹介750)と 妻の告白

2023-10-24 16:35:34 | Weblog

この絵は、週刊誌「毎日サンデー」の関西粋人インターネットのコラムの為の挿絵。

この絵を見て、どんなコラムの内容であったのか?

まるで思い出せない・・・・。

羊が2匹登場している。

羊というのは、武内が描かない動物なので、不眠症のコラムだったかもしれない。

羊を数えれば眠れるということが書いてあったのかも。

その他に、酒瓶や大学らしき建物が見てとれるので、

コラムを書いた人は、数学者の「森毅氏」であろう。

数学者とういのは、私達にとって遠い存在だからなのか、

数学者の観点から書かれたコラムは意表をつくもので、楽しく拝読していたように思う。

挿絵は、必ず文章を前もってもらっていたので、

それをヒントにして描いていたのを思いだします。

銃をぶっ放す中央の人物は、ギャング映画を好む武内の嗜好が表出しているように感じて、

わたしだけが笑える箇所だ。

「こんなところで、自分を出してどうする?」と、つっこみを入れたい。

しかし、この人物の表情・・・。

わたしに、わたしとは縁もゆかりもない怒りをぶちまけている顔にそっくりだ。

先回のブログに書いた「怒りをわたしにぶつけるな!」の口論を思い出す。

ちょっとアップにしてみよう。

↑こういう顔で、向かってくる。

左側の腕が2箇所に折れ曲がっている異常な腕が、

武内の異常性をよく現している。

今は、2階に上るという逃げ道に気づき、二階にあがって自分を隔離します。

話がそれてきたので、戻します。

左下にも人物がいます。

タキシードを着たような人物。

その人物が、森毅氏に対するオマージュになっています。

森毅氏のコラムの時に、決まって描かれていました。

武内は、森毅氏にダンディーを感じていましたから。

いかにも数学的な顔に描いているのが、味になっています。

 

 

先回のブログでの口論が終わってから、悶々と考えるわたし。

よく、「60歳からの出発」とか、「60歳からの人生」とか、「60歳からの挑戦」とか、

「60歳からの生き方」「60歳からの仕事」「60歳からの楽しみ」という女性週刊誌を飾る言葉がある。

女性と言うのは、結婚や育児、

それからという具合に、ライフスタイルに顕著に変化がある生き物であると、わたしは思っている。

わたしの場合は、結婚してからスタイルを変えることなく生活してきた。

古めかしいかもしれないが、女性は男性を支えるものと思ってきた。

主人の画家という職業を考えると、やりがいがあったと言えよう。

わたしは、婦人雑誌のそんな言葉を見ても、

あまり感心したことがなく、そんなババ臭いと思っていたぐらいだ。

ところが、急に「60歳からの挑戦」をしてみたくなった。

それは、59歳ぐらいの時に、ふと頭をよぎり、

60歳になって、手始めにやってみた。

やろうと思えば、下手なりに出来る。

61歳になった頃、自分の時間、1人の自分である時間がもっといるという事に気がつく。

この1人感覚は、遠い昔の自分にあった。

武内は、寂しがりやのせいか、べったりとした時間を好み、独り恐怖症のような人。

その恐怖症に付き合い、自分がなくなりそうな危うい気分になる時が時々ある。

引っ越しをして、買い物に行きながら、道々「舞台が変わったな。」と歩く時があり、

人の模様や、話す内容も変わる。

そんな中で浮上してきたのが、「もう少し、自由になってもいい。」という気持ちだ。

この気持ちは、わたしの心に深く沈下していたもので、

地底の底に眠っていた。

「そうよね。やりたいことにちょうどとりくめる最後のチャンスかもしれない。」

引っ越しをする前は、場所が変わっても同じような日々が続くのだろうと思っていました。

しかし、意外な環境の変化で、「必要」なこととして、気持ちの欲求が表に出てきた。

だから、いちいち出かけることに文句を付けられたりすると、

息苦しく、窮屈に感じられ、締め付けられているような気分になってしまう。

それと、もしかしたら、夫を甘やかしすぎてきたのかもしれない。

わたしの考えでは、人は甘えることも必要だし、

甘えが満たされて、心にワンクッションが出来ることで、人は強くなれると思っていましたが、

もう、夫の場合は、「甘えクレ!クレ!」状態で、

悪い意味で自制が聞かなくなって、依存体質になっているのかもしれない。

歳の差婚なので、老人がどんなふうに身体が大変になるのかわからないので、

周りの武内の同い年の位の人を見て、やっぱり身体が大変そうだと思い、

労わらないといけないかな?と思っていましたが、

武内の場合、「普通の人よりエネルギーはかなりある」と見た。

だから、寝たきり老人にならないためにも、

外に連れ出し、ガンガン歩いてもらわないとダメだ。

わたしは、お前が散歩に行かないから、独りで歩いているのだろうが!

と言いたい。

86歳になって、妻から厳しくされるというのは、可哀想な気もするが、

実から出た錆で、自ら招きえた結果として受け入れてもらおう。

それでも、わたしは必要以上に意地悪はしないと思うので、普通になるだけだと思うのです。

今までが、異常だったということ。

 

わたしの挑戦というのは、ブログ以外の文章を書いてみたいという事。

自分の文章がいいとは思わないが、

ある思いつきで描いてみたいものがあるのです。

「やっぱり世界感が必要なんだ。」と気がつくと、自分の心の中を散策しなければなりません。

時々、独りで散歩に出て、ふっと自分以外のものが、

遠く感じ自分というものを感じることがあり、

この感覚をどれぼど長い間だ忘れていたことか・・・と呆然としました。

この感覚が、わたしには今必要なんです。

こういうことを通して、自分のことを見つめたりするのだと思う。

やりたいことにとりくめる最後のチャンスの年齢だ。

占星術では、次のステージに上る前。

何かの巡り合せと思っている。

 

夫は、解らないだろうね。

自分中心の権化だから・・・。

そんな性格だから、芸術を続けられるのだとは思うけど。

今日は、わたしのお気持ちの内容になってしまいました。

主人の寂しがりが異常なのです。

その大変さにつきあってきましたが、そろそろ手放したい。

今の住まいは、武内のホームグランドのような地。

もう、家に帰ったようなものなので、独り恐怖症を手放してもいい頃合いかと。

窮屈なことから、開放されてもいいとどこかで感じとっているのだと思います。

何かから、啓示されているような感じもあり。

(啓示は、妄想かも・・・)

妻の独白のような内容になってしまいました。

恥ずかしい限りですが、今日もこんな文章を読んで下さりありがとうございます。

 

最後は、我家のピーちゃんで。

↑ピーは、2階の住人でめったに1階に下りてきません。

めずらしく下りてきた時に、写真を撮りました。

玄関に面したところに、階段があります。

顔がどこにあるか分りにくい猫なのですが、1階ではきびしい顔をしています。

 

↑近づくと、そそくさと階段を上っていきます。

その瞬間を撮ってみたのですが、

サビの毛皮が茶色と黒がちの茶なので、

階段の色と同化しています。

トン、トン、トン、トンという足音が可愛いのですが、

怖がりな性格なので、すぐ上って2階の寝室へ行ってしまいます。

1階は、怖いというのが・・・。

 

 

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赤とブルーのコンポジション(色鉛筆作品749)と 長い口論

2023-10-17 15:43:03 | Weblog

この絵は、比較的に大きな作品で、38cm×53cmのサイズになります。

ブルーと赤、そして黒い太い線が形を強調しています。

顕微鏡を見て、細胞が動いているかのような雰囲気があります。

紙と色鉛筆で出来たものが、見ると躍動感が感じられるように変化するさまは、

絵画のあるべき姿の1つなのだろうと思う。

こんなことを思わす画家なのに、我が夫、武内は人を疲れさす人物だ。

 

しばらく、ブログを書かないでいたのには理由があって、

「武内ヒロクニのことを考えたくない。」と思っていました。

私達は、“夫婦喧嘩は犬をも喰わない“という、喧嘩ばかりしている夫婦なのですが、

喧嘩というより、わたしがストレスに感じることをして欲しくないというのがあって、

自分の中で「わたしは、こういうことが嫌なんだ。」というものがはっきりし、

そのことを分ってもらうのに話をすると、口論になり、

その口論は3日間に及よび、かなり疲労困憊していた。

また、その話ている間に感情もかなり害し、主人のことは頭から離していた。

嫌なことというのは、

非常に怒りという感情が多く出る人なのですが、

その怒りをわたしに向けて叫んでいることが多く、わたしは、それが嫌でたまらない。

その怒っている顔の醜いこと。

それに、怒っている理由がわからない。

そんなことでそこまで怒るのか?というようなことや、

それって、ただの甘え?で、自分が悪いのと違うのというようなもの。

わたしからすると。

そうすると、「怒ろうが、なにしようが私の自由だ。」という。

そこで、「怒るのも別に自由なのはいいけれど、人に向かっていうのはやめて!」と言い、

「わたしは、それが嫌でたまらないから、わたしに言うな。」と言うのであるが、

わたしが嫌だと思っていることを、何度言っても理解しようとしないのです。

「そこまで人の話を聞こうとしないのだったら、わたしもそうするわ!」

となり、ずーと「人の話を聞かないのに、話を聞いてもらおうなんておこがましい。」

と、こればかり言い続けています。

“激オコ“というやつ。

もう一点あって、引っ越した先は、いきなり感覚タイプ友人が現れ、

共通項が多いので話しているととても楽しい。

場所も近いから話をしたいというのがあって、買い物ついでにそれが出来るから、つい、帰るのが遅くなる。

帰ったら、「遅い。」と言われるが、

ちゃんと夕食の準備には間に合う時間で、遅くもないのにくどくど言われる。

同じようなことでは、わたしの両親も歳になっているので、母のようす見もかねて実家へいくのですが、

「また、行くの。」と非難すること。

母には、引っ越しの際、近くにいて欲しいと言われたのですが、

神戸に戻りたいという主人の意見を優先したということもあって、

1ヶ月に1度は、母の顔を見に行くことにしたという経緯がある。

それに、難癖つけるとは・・・・。

また、父からの電話で話していると、

「何で親子でそんなに話をするの?父親が娘にそんな長い電話をするの?」と言い、

いきなり、「あの人は、娘に甘すぎる。」とか言うのだ。

たまの電話に文句つけられて、嫌な気分だ。

父もどういうわけか寂しくなってしまって、寂しいから電話かけてきてるのだろうな・・、

と思って話をしているのがわからないらしい。

いつも寂しいばかり言う人が、人の寂しさに思いやりがないなんて!

自分のことばかりなんだ!

と思い、また憤慨。

外出する時は、いつも伺いを立てて、気を使い、ちゃんとお昼のお弁当まで作って外出していましたが、

帰ると食べてない弁当が机の上に・・・。

それと、文句を言われるのが好きじゃないというわたしの性格。

すべてが合わさっていました。

そう、風のように外に出たい。

そこまで自分中心の人に、合わすのが嫌になった。

ある意味、わたしは順調に年齢を重ねていっているみたい。

結婚して34年になり、今までよくやったと思い、

そして、今、新しい自分に遭遇しているようです。

 

近頃、幻聴も聞こえるようで、

しーんとした空間にいると、透き通った声の合唱が聞こえるのです。

ハミングしているような女性の声。

いつも同じ音楽。

綺麗な声なので、別に悪いものじゃないよね、と思いながら聞いています。

何かの信号なのかしら?

まだ、人に話してなくて、ブログに書いてしまった次第。

その幻聴に癒されているという感あり。

 

 

継いで育てているビオラの種。

↑発芽して、今は葉が大きくなってきています。

はじめて、ピートバンなるものを使って発芽させました。

 

↑やっと海へ。

家から歩いて20分。

ハーバーランドがある所です。

夕方の海。

 

↑制作ばかりしているから、歩きが不足しているヒロクニさんを連れ出しました。

「歩いてないから、脳に骨からの振動がなくって、頭おかしくなっているのと違う?

 頭悪くなっているよ。制作とか言ってるけど、歩いた方が絵にいいのと違う。」

とか言うと、身支度を始めました。

優しくではなく、意地悪く言った方が、この人にはいいのかも。

わたしは、まだ夫を許していません。

 

今日は、意地悪になった妻の気持ちでした。

優しくしていると、それが普通になってしまっていたのだなと。

言い換えると、小姑なヒロクニさんの話ともいえる。

意地悪妻と小姑な夫の話で、なんか元気なくされた方がいたらごめんなさい。

今日も、最後までお読み下さったかた、こんな内容を読んで下さりありがとうございます。

 

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もくもく(作品紹介748)と ジャクソン・ポロックの画集より

2023-10-03 15:13:58 | Weblog

もっく、もっくと湧き出る雲。

雲に押されて、遊ぶのは精霊?

楽しそうだなと思って見ていましたが、

丸味を帯びた形は、“乳房”かもしれない。

エロティックな要素も隠し持った絵かもしれません。

この絵は、画用紙に普通のマジックペンで描かれていて、

一発勝負。

武内は、下書きというものをしません。

そのせいか、うまく行くと伸び伸びした線が強調され、

見ている方も自由な気持ちになれる絵が出来上がります。

簡単な絵なのですが、気になる絵なので取り上げました。

爽やかな自由感を感じて、何かから開放されたような気持ちになります。

当人は、妻からいうと粘着質な性格で空気のようにはならない人。

そういう人がこういう絵を描くのが、不思議であります。

 

爽やかな秋らしい天気になりました。

夕方、1階に下りると製作中のヒロクニさんから、画集の中にある人物の顔を取り上げ、

「孤独で崇高な男の顔を見てみろ。」と、乱暴な口調で言われる。

興奮した面持ちで、目の前に画集のページをわたしの面前に突き出すので、

何事かと思った。

ふ~ん、と思って写真の顔を見た。

↑この写真。

この人物は、ジャクソン・ポロックでした。

アメリカの抽象表現主義の代表といっていい存在の画家。

今や、作品の値段は何億をいく。

↑こちらが、その画集。

ヒロクニさんは、近頃この画集を静かに眺めていて、

そのせいか、話題はポロックのことが多く、

「ポロックには、ジョアン・ミロ(スペインの画家、シュールレアリズムから近代)の影響があってねぇ。

 ピカソもあるのだけれど、ミロにも影響を受けているんだね。」

この言葉を何度も口にしています。

また、ふ~ん、と思いながらミロの絵を浮かべていた。

そして、ポロックの絵も脳裏に浮かべ、わたしが初めてポロックの絵を見た時のことを思い出した。

芸大受験のデッサン教室に通っていた高校3年生の頃だ。

美術手帳に載っていたポロックの特集のページ。

「絵具が散っているだけでよく分らないが、これが芸術なのか?」という疑問を抱いた。

疑問を抱いたが、受験のことで頭が一杯で、しばらくすると忘れた。

↑画集より。

その初めて見た絵は、こういう感じの絵だったと思います。

絵を理解していなくても、好き嫌いだけはあり、

同じ美術手帳から「ウィリアム・クーニング」の絵が好きになった。

そうすると、またポロックが近しい所にいるというのが分り、

同じ抽象表現主義の画家なんだということを知る。

そうして、また違うことに没入し、忘れた。

 

そうして、忘れていたポロックの絵をヒロクニさんが画集を購入したことによって、

再びポロックの絵が浮上したのである。

分らないなりに、時々画集を眺めていく内に、

フォークロアな作品や、シュールな作品、多くのフォルムの反復する絵を知った。

とにかく、試行錯誤の多さに圧倒されたのでした。

ドリッピングという絵具を散らしたような作品は、中半の後ぐらい。

上の写真のような絵のことです。

ヒロクニさんが「ミロに影響を受けている。」という絵は、これかな?

↑形状の追求をしているのか?

黒の使い方がミロ風に感じます。

↑これは、メモの類だと思われる。

ヒロクニさんもメモをよくするので、勝手に親近感を感じ見ていました。

ただ、ポロックには遺伝的なアルコール依存症があり、

画家として頂点に上り詰め、成功してからのプレッシャーにより、

再びアルコールを飲酒しはじめ、酔った勢いで運転していた車の事故でなくなります。

頂点に上ってから、作風を変えたことによる酷評がポロックを悩ませたそうです。

わたしは思うのですが、画家は、この仕事はやりつくしたと感じると、

次の追求の道へ行くものなので、次に向かったと思うのですが、

周りの評論家達は、頂点の仕事の絵をまだまだ見続けたかったと言うことかもしれない。

↑若い頃にもアルコール依存症なったことがあり、依存症から抜け出すために、アメリカの田舎に住んでいた頃の写真。

穏やかな生活の中で、絵画の試行錯誤が。

都会から離れた田園風景ある田舎は、健全な生活で心も安定して、

ここから多くの作品が生まれたと言います。

絵が頂点に達するというのは、こういう時間の積み重ねの上に成り立っていると思うのです。

そして、世間的な成功は一気にくる。

彼は、有名になり驕りたかぶる人ではない。

嬉しいと思っていたには違いない。

あまりにも有名になると、その虚像と自分自身の乖離に違和感を感じていたようです。

そして、褒めたかと思えば、こき下ろす批評家達。

人生は一旦頂点に上ると、後は下がるのが原理だと前もって心構えをする智恵があったなら・・・。

登山のように頂上から降り、また谷から上るというふうに。

そういうふうに気持ちを持っていけなかったのが歯がゆい。

自分を振り返っても、山あり谷ありで、上ったり下がったりが普通だと。

しかし、ポロックの場合は、大きな成功だったがゆえ、

反動が大きかったのかもしれない。

わたしは、作風が変わってからの作品も見て、素晴らしいと思いました。

色がなくなり、白と黒の世界への転換です。

↑この写真は、制作中の写真。

キャンバスを木枠に張らないで、巻物のように使っています。

こういう規模の大きい発想は、アメリカだなと感心します。

やはり大地が広々とした国の発想なのだと。

このドリッピング(絵具をたらす技法)なのですが、偶然だとわたしも思っていましたが、

絵具の順番やたらす絵具の感じも思いどうりに出来るように熟練しているらしく、

意図ははっきりとあるのです。

気軽なものではない。

そこに、意志がはっきりと感じられます。

ヒロクニさんが、画集をみながら「デカルトのいうところの・・・。」と言っていましたが、

「我思う、ゆえに我あり」の哲学が込められているのでしょう。

ヒロクニさんからのヒントで、こういうことを思いました。

 

では、最後に今のアトリエの写真を。

↑まだ、引越後の仮置き状態なのですが、こんな感じになっています。

↑ゴチャゴチャしています。

この感じは、ヒロクニさんのアトリエ特有のもの。

手前が、キッチンになっています。

わたしの方が料理しながら、話しかけることが多くなってしまって、

絵を描いている時は、控えた方がいい時もありそうです。

黙っていることがよくあります。

 

今日は、ジャクソン・ポロックの話でした。

高校3年の頃より、ポロックに近づきました。

60代になって、ポロックの絵画を、荒っぽくですが見渡せるように。

見渡せるようになって、やっと彼の仕事の素晴らしさを感じるように。

絵を見るというのも、月日がかかるものだと思います。

絵を見て「ああ、そうか・・。」と、思う瞬間は喜びかな?

ポロックは、近代絵画のピカソを越えたかったそうです。

その思考の軌跡が、ポロックにはあります。

ヒロクニさんは、その軌跡を見るのが楽しくて、画集を見ているのでしょうね。

(わたしが画集を見ても、その軌跡は読み取れないと思う)

 

今日は、芸術の秋らしい話題を。

ヒロクニさんを通しての、好き勝手に絵画を鑑賞。

“ふ~ん”と思っている時に、思いを巡らしています。

今回は、ポロックでした。

抽象表現主義の画家は、わたし達2人の間では評価が高い。

また、好きな部類。

マーク・ロスコのことにも過去触れたことがあると思います。

この画家も抽象表現主義の画家。

絵画も奥が深いなと思います。

概要と流れだけの解説で、非常に乱暴な解説になりましたが。

今日も、最後までお読み頂いた方、ありがとうございます。

 

 

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