人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --文覚上人と神護寺--

2022-10-01 12:19:12 | 日記

8月末の京都、奈良、高野山取材旅行では、栂ノ尾の高山寺から神護寺に行きました。高山寺から川沿いの道を歩き、神護寺山門までの長い石段を上ればたどり着きます。最後に訪れたのは5~6年位前でしょうか?京都一周トレイルの北山コースで鞍山から嵐山に行く途中に通り過ぎました。さてせっかくなので、神護寺のホームページなどから寺の沿革をおさらいしてみたいと思います。

神護寺は、平安京造営の最高責任者であった和気清麻呂が愛宕御坊の一つとして創建した高雄山寺がはじまりです。その後大同四年(809)に唐より帰朝した空海が入山(14年間住持をつとめる)し、天長元年(824)にはこの高雄山寺と河内に建てられた神願寺を合併して、神護国訴真言寺(神護寺)となりました。比叡山の伝教大師最澄も空海から真言密教の灌頂を授かっています。空海が去った平安時代には二度の災害のため、堂塔のほとんどが焼失しました。そんな神護寺の様子を見かねて再興に力を注いだのが文覚上人でした。『平家物語』にも当時の様子が記されています。

かの高雄に神護寺と云う山寺あり。これは昔称徳天皇の御時、和気清麻呂が建てたりし伽藍なり。久しく修造なかりしかば、春は霞に立籠めて、秋は霧に交り、扉は風に倒れて、落葉の下に朽ち、甍は雨露に侵されて、仏壇更に露なり。住持も僧も無ければ、稀に差しいる物とては、唯月日の光ばかりなり。

文覚上人が訪れた最初は仁安三年(1168)で年は血気盛んな30歳。その復興事業がうまくいかないので、ついに承安三年(1173)法住寺殿におもむき、後白河法皇に荘園の寄進を強要しました。そのやり方があまりのも稚拙・強引であったために、後白河法皇の逆鱗にふれ伊豆に流されました。ただ人生わからないもので、この伊豆で源頼朝に会い、親しい関係になるわけです。治承二年(1178)、中宮徳子の皇子出産にともなう恩赦によって赦免。寿永元年(1182)に再度、後白河法皇に復興を訴え、ようやく裁許を得ることができました。頼朝も寿永三年(1184)、丹波国宇都荘ほかを寄進。これらによって神護寺の再興は軌道にのりました。文覚が神護寺再興のシナリオを書いたものが文覚四十五箇条起請文で、神護寺の憲法として今も寺に残されています。この神護寺の復興と平行して東寺、高野山の大塔の復興にも携わっています。その後、源通親によって三年間佐渡に流されますが、その間に文覚が保護・指導していた平重盛の孫、六代(妙覚)も殺されてしまいました。さらに後鳥羽上皇の時、謀反の疑いありとして元久二年(1205)三度目となる対馬配流後、消息は途絶え、弟子の上覚の記録では鎮西で死んだことになっています。

鎌倉には僅かしかない文覚の足跡ですが、神護寺にはしっかりと残されており、時間がなく行けませんでしたが、境内には文覚上人の墓もあります。この度の神護寺の取材で文覚上人が伝説の人物から確かに存在した人物となりました。

写真は金堂から五大堂・毘沙門堂を写したものです。

 

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