人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー浄光明寺と赤橋流北条氏ーー

2021-11-29 14:19:05 | 日記

浄光明寺は鎌倉の扇ガ谷にある寺院。京都の泉涌寺の末寺として準別格本山の寺格が与えられています。創建は建長三年(1251)の頃で北条時頼と北条長時が開基、真阿和尚の開山と伝わります。北条長時は北条重時の子供で赤橋流北条氏はこの長時から始まりました。以前でしたら北条長時の名前がでても聞き流していたのですが、最近、北条重時の『六波羅殿御家訓』を少しかじりましたので、重時、長時、義宗、久時、守時と繋がるこの家系に非常に興味を持ちました。

さらに北条氏が滅んだ後も後醍醐天皇の皇子である成良親王の祈願所になるとともに、赤橋守時の妹婿である足利尊氏からも寺領の寄進を受けるなど庇護され、さらに中先代の乱後には後醍醐天皇に謀反の嫌疑をうけ、尊氏がこの寺で一時蟄居していたなど、度々歴史の舞台に登場しました。また元弘三年(1333)から建武二年(1335)の頃に描かれた「浄光明寺敷地絵図」も発見され、寺領の広さや赤橋流北条氏との関係も明らかになってきました。実際に長時や久時、守時の墓があったと伝わっています。さらに境内の背後の山には冷泉為相の墓とされる宝篋印塔もあり、話すことには事欠きません。

宝物庫に安置されている阿弥陀三尊像は国の重要文化財です。修理の際に正安元年(1299)に作造されたと記された胎内文書が発見されました。この桧木の寄木作りの阿弥陀如来像には土紋が施されており鎌倉独自文化の痕跡を今に残しています。さらに足利尊氏の弟直義の念持仏とされる桧木の寄木作りで金泥で塗られた矢拾い地蔵も置かれていますが、この地蔵尊は鎌倉二十四地蔵尊霊場の第十六番札所になっています。

収蔵庫のある場所から急な階段を登りますと、以前地蔵院があった平地に着きます。背後の崖のやぐらの中には網引地蔵(同第十六番札所)が置かれています。そして平地の北西端には柵をされ今は通行止めになっている地蔵院をお詣りするためくぐった洞穴があります。

写真は近くの英勝寺から移設された山門です。

 

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鎌倉を知る ーー建長寺と地蔵菩薩ーー

2021-11-29 09:57:31 | 日記

『吾妻鏡』建長五年(1253)十一月二十五日の条にはこう記されています。

建長寺の供養なり。丈六の地蔵菩薩をもって中尊となし、また同像千体を安置す。相州殊に精誠を凝さしめたまふ。去ぬる建長三年十一月八日事始あり。すでに造畢するの間、今日梵席を展ぶ。願文の草は前大内記茂範朝臣。清書は相州。導師は宋朝の僧道道隆禅師。また一日の内に五部の大乗経を写し供養せらる。この作善の旨趣は、上は皇帝の万歳、将軍家および重臣の千秋、天下の太平を祈り、下は三代の上将、二位家ならびに御一門の過去、数輩の没後を訪ひたまふと云々。

この文章は北条時頼の天下の太平を願う強い決意が感じられます。寛元四年(1246)3月に兄の経時に代り執権となり、同年五月に名越光時の失脚と将軍藤原頼経の京都送還(宮騒動)。宝治元年(1247)六月に三浦泰村一族の滅亡(宝治合戦)。建長三年(1251)十二月に将軍藤原頼嗣(頼経の子)が将軍を廃され京都に送還、代わって後嵯峨天皇の皇子宗尊親王が将軍となって鎌倉に下向しました。これらの事件を乗り越え、安堵した気持ちで迎えた建長寺の落慶法要でした。

作善旨趣の前段にあるように、中尊の地蔵菩薩は天下太平を祈願したもの。千体の地蔵菩薩は北条時政の頃から北条一族を支えていたにも関わらず討伐せざるを得なかった三浦一族の供養を強く意識したのではないでしょうか。そう考えると、建長寺の本尊は釈迦や阿弥陀や観音様ではなく地蔵菩薩の選択は必然だったと思われます。

さて地蔵菩薩信仰の歴史的変遷に触れます。やはりインドで生まれ『リグ・ヴェーダ』のなかで地神信仰の神として登場しました。その後中国に伝わり地蔵三経と言われる経典が編纂され、その経典は日本にも伝わりました。しかし日本では飛鳥、奈良、平安時代初期の頃は貴族社会では流行らなかったようです。多分貴族社会では地蔵信仰の地獄抜苦という考え方がそれほど必要とされなかったからかと考えます。当時の律令は死罪という刑罰はありませんでした。平安末期になりますと、平氏や源氏と云った武家勢力が台頭しはじめます。彼ら武士は職業として戦をし結果として殺生もしますので、地獄行きは必定と考え、地獄で自分たちを守ってくれる地蔵菩薩を信仰の対象し、さらには矢拾い地蔵のような現世利益の地蔵信仰が流行ったのでしょう。

写真は建長寺山門上から仏殿を写したものです。

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鎌倉を知る ーー新居山 円応寺と十王信仰ーー

2021-11-28 17:00:10 | 日記

鎌倉山内建長寺前の新居山円応寺。鎌倉時代はここではなく、江戸時代に由比ガ浜近くの新居閻魔堂が移されました。さらに遡れば由比郷見越岩(長谷の見越ケ嶽か?)にあったようです。閻魔堂の初江王像が建長三年(1251)に造立されたようなので閻魔堂の創建もその頃だと思われます。さてこのブログは円応寺の舞台とした十王信仰を説明することが目的です。

たぶん初七日とか四十九日、一周忌、三回忌など言葉は聞いたことがありますが、それにどんな意味があるのか殆ど知らないと思います。円応寺を参拝すると丁寧な説明書きがありますので読んで見てください。中国伝来の十王信仰に基づいて、故人の生前の罪を裁き、死後に六道輪廻のどの世界に送り込むかというかなり手の込んだ審判の仕組が描かれています。

最初は死んでから2週間くらいの審判。人の左右の肩には倶生神という生きていいる間の善悪を記録する神様がのっています。その神様は人が死にますと、初七日に《秦広王》へ故人の一生の善悪の罪科を報告します。ここでのポイントは殺生をしたかどうか。その罪の軽重にによって三途の川の渡り方が区別され、当然に人殺しのような重罪犯は深い川を渡ることになります。やっと三途の川を渡ってもその先には奪衣婆が控え、名前の通り着ている衣服の剝ぎ取って木にかけ、その軽重を閻魔帳に記録して次の《初江王》に報告。それを二七日(初江王=窃盗・不倫の罪)、三七日(宋帝王=邪淫の罪)、四七日(五官王=身口の七罪)と時間をかけ調べ閻魔帳に記録。そして五七日(閻魔大王)のもとに来た時に閻魔大王は、閻魔帳の記録、浄頗離の鏡に映った過去の再現ビデオ、倶生神の証言、人頭杖という善悪判断ツールなどを用い慎重に故人の六道輪廻の行き先を審判します。さらに六・七日に変成王が六道の内容を決め、七・七日(四十九日)にはそれぞれの行き先に地獄から旅立つわけです。

現代の裁判と異なるのは、黙秘権がないことでしょうか。「お天道様はみているぞ!!」という言葉の通り、白を切ることは出来ません。さらに閻魔大王は、冤罪を防ぐために、人を審判すると毎日、煮えたぎった銅を飲まされ、正確な審判をすることを求められます。

昔の人がこの話をどこまで信じたか分かりませんが、『往生要集』や『今昔物語』などの説話集で散々地獄の世界を擦り込まれた身にとっては、多少は不倫などの抑止効果はあったと思われます。

写真は円応寺門前にある新居閻魔堂の石柱です。

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鎌倉を知る ーー北条重時『六波羅殿御家訓』ーー

2021-11-13 11:23:09 | 日記

先日(11月12日)いつも送られてくるタウンニュースを見ていたら「極楽寺で本願忌を一部公開 開基・北条重時を供養」という記事がありました。記事を読むと11月3日が北条重時の命日で極楽寺ではその日に重時を本願(寺院などを創立した人)として、供養しているとのことでした。これまで非公開だったので知らなかったのですが、今回は来年から始まる大河ドラマの北条義時つながりで一部関係者に公開したようです。

私は最近、北条重時のこのブログのタイトルになっている『六波羅殿御家訓』を読み、北条重時について調べているところであまりのタイミングの良さに何か縁を感じ驚きました。また極楽寺は5年前の2016年11月24日にガイドになる前の実地研修で54年ぶりの11月の大雪のなかでガイド研修を行った場所。降りしきる雪のなか審査する先輩の冷たい目を感じながら忍性菩薩や北条重時をガイドしたことを鮮明に覚えています。そしてこの11月3日に散歩の途中で北条重時のお墓のある忍性の霊廟の近くまで行き、遠くから重時の墓に礼拝したばかりでした。

さて北条重時は建久九年6月6日の生まれで弘長元年11月3日に卒去。兄の北条泰時を六波羅探題として、娘婿の北条時頼(泰時の孫)を連署として支えました。享年64歳と長生きの人生でした。息子の長時、子孫の赤橋守時は執権。守時の妹の登子は足利尊氏の妻であり義詮の母ですから重時のDNAは足利将軍家にも受け継がれたことになります。そして重時が子の長時に残した『六波羅殿御家訓』は長時が六波羅探題としての役目を果たすうえでの心得をまとめたもの。もう一つの『極楽寺殿御消息』は子々孫々にわたり上のものに仕える心得を書いたものと言われています。重時のDNAと紙に書かれた家訓が代々受け継がれ、北条氏を支え、そしてその後の武家支配の世を作ったかもしれないと考えると感慨深いですね。

中世史を勉強するために歴史書を読むとどうしても将軍源頼朝や北条時政・義時・泰時・時頼・時宗らの歴代執権がクローズアップされますが、北条泰時を支えた時房、時頼を支えたこの重時の存在を忘れる訳にはいきません。逆にこういった人物がいたからこそ北条氏の時代が長く続いたと思います。これは現代の経営者も同じで、戦後に大きくなった企業には天才的経営者を支えた人物の存在やその企業のフィロソフィーが代々受け継がれ、ソニーやホンダ、トヨタ、パナソニック、京セラなどには必ず〇〇イズムというものが残されています。

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ポルトガルワインを試す ーー(35)エスピーガ・ティント 箱ワインーー

2021-11-05 18:00:04 | グルメ

絶対に買うことはないと思っていた箱ワインをとうとう買ってしまいました。750mlのフルボトルワイン4本分3リットルが箱に入って定価は2,420円(税込)。ビンに換算すれば1本当り605円。それにガラス瓶がないのでゴミ出しで近所の人に飲んべに見られることもありません。そして段ボールの中の3リットル入りのポリ袋にワインが詰められていますので、空気に触れることなく酸化せずグラスにワインが注げます。ワイン好きにはたまらない究極のコスパが高くエコロジカルなワインであることは間違いないと思います。但し問題は美味しいかどうか?ですが、これまで30本以上のポルトガルワインを飲み、低価格帯のワインも悪酔いすることなく飲むことが出来ましたので、買う覚悟が出来た訳です。

前置きが長すぎました。カタログには箱で4本分!タンニンが溶けこみ、バランスがよく飲みやすい。フルーティな香りと味わいは毎日の料理に合わせやすいと書いてありました。恐る恐る飲んだ印象は〇。◎とは言えませんが、確かに値段以上の味わいで十分に飲めます。

さすがトップクラスのワイン消費量を誇る国です。ビンでは飽き足らず、箱ワインを考えだすとは、恐れ入りました。これから毎日酒量が増えるのが心配です。

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