人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

三島 桜家のうなぎ

2022-12-31 12:44:12 | グルメ

2022年の年末。NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」のおかげで忙しく働いた1年でした。懸案だった伊豆の国市散策もはたし、三島大社の参拝もすませました。頼朝・政子・義時・政子や多くの御家人に関する知識が圧倒的に増えた年でもあり、すべて「頼朝様のおかげ」でした。

伊豆の国市散策から16時頃に三島に戻り、まず三島大社に1年の無事を感謝しました。あとは待望のうなぎを食するのみ。前回は東海道歩きのときでしたが、三島大社前の「すみの坊 三島大社前店 055-972-3888」でいただきました。今回もそうしようと思ったのですが、あいにく16時閉店。そこで三島市広小路にある創業安政三年の老舗「うなぎ 桜家 055-975-4520」に行ってみることにしました。17時開店でしたので、多少時間を持て余しましたが、開店15分前に店に着きましたが、本日は休憩をとらず営業しているとのことで、予約なしで運よく入ることができました。これも頼朝様のおかげでしょうか・・。すでに店内は満席。この店は予約していた方が無難のようです。天井の高い日本家屋でなかなかの雰囲気です。注文したのは「うな重の1枚(4400円税込)」。うな重はあと1枚半(同6600円)、2枚とお品書きにありました。まあ私のような年寄りは1枚で十分です(写真参照)。この桜家さん、なんかずいぶん昔に来たような記憶があります。何のときで、いつだったかすっかり忘れていました。

最近「鰻」も高くなり、しょっちゅう食べられる食事ではありませんが、やはり美味しいですね。ふんわりとして柔らか。ついてくる肝吸いも熱々。店員さんの熱いから気をつけての一言が嬉しいです。最近運ばれてきたものがぬるいと興ざめしてしまいます。店の回転をはやくするためでしょうが、これはいただけません。周りの人をみてもニコニコしながらいただいています。美味しものは自然と心を和ませるものです。大いに満足して店をでました。ご馳走さまでした。

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伊豆の国市散策⑧ --蛭ケ小島の夫婦--

2022-12-31 11:09:26 | 日記

今回の伊豆の国市散策の〆は源頼朝が配流された蛭ケ小島でしょう。やはり外せませんね。写真は蛭ケ小島公園にある頼朝・政子の夫婦像です。この像のタイトルがなんとも、ほのぼのとしていて気に入りました。地元の方の二人への愛情が伝わってきます。そしてこの像は公園の方を向いているのではなく、公園の端に置かれ、富士山を眺めています。後ろ姿ですが「いずれ頂上を目指すぞ!!」という夫婦の会話が伝わってくるようです。実際この夫婦ともに征夷大将軍と尼将軍になるのですから恐れ入ります。

説明書きには、頼朝と政子の結婚は治承元年(1177)。頼朝31才、政子21才二人はこの地で結ばれる。日本史上にその名を残す二人の若き日の姿であるとありました。実際3年後には平家討伐の旗上げをするわけで、どうなるか分からない男に生涯をかけた政子の決断は凄いとしか言いようがありません。

『愚管抄』を書いた慈円にして「女人入眼の日本国、いよいよまことなりけりと云うべきにや(日本という国は女性が仕上げする国である)」言わしめた女傑ですね。この政子を神功皇后に、弟義時を武内宿禰にたとえられますが、実際北条政子というひとりの女性が嘉禄元年(1225)まで長生きしたことが、鎌倉幕府が150年も長い間続いた最大の功績だったと思います。

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伊豆の国市散策⑦ --北條寺の義時夫妻の墓--

2022-12-30 16:50:07 | 日記

北條寺の墓地の一段高く、韮山の街が一望できる場所に北条義時夫妻の墓があります。墓の向きは北の富士山の方向で、そばの案内板を読みますと、義時は承久の変後三年、元仁元年六月十三日急死した。時に六十二才であった。長子泰時らは、北条氏発祥の地にあるこの寺に墓を建て追善の碑とした。なおこの墓は向かって右が義時、左が後妻佐伯氏娘の墓であると記されていました。

ここで左の墓ですが、後妻である佐伯氏の娘と書いてあります。義時の継室は、藤原秀郷流の武将の伊賀朝光の娘(伊賀の方)で佐伯氏とは無関係のような気がしますが、いろいろな資料にあたってもよく分かりません。正直なところ最初に義時夫妻の墓と書いてあるのをみて伊賀の方の墓ではないなと思いました。これは大河ドラマをみているせいかもしれませんが、義時の死に至る経緯や死後の伊賀氏の変から、伊賀の方が義時の隣に埋葬されるはずはないと思い込んでいました。伊賀氏の変の顛末は、伊賀の方は北条の地に追放された後に病死したことになっています。しかし伊賀の方の子である北条政村は失脚することなく、のちに執権になっています。この北條寺に義時夫妻の墓と伝わっていることから推測しますと、北条泰時らは後々のことを考え、事件を早く収束するために義時夫妻の墓を造ったのかもしれません。ただし義時の後妻の素性は、伊賀氏の娘とすると不都合なので、意図的に佐伯氏の娘としたとも考えられます。またまた妄想が過ぎました・・・。

 

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伊豆の国市散策⑥ --北條寺--

2022-12-30 15:23:27 | 日記

北條寺の山号は巨徳山で臨済宗建長寺派のお寺です。北条義時の創建。寺伝では、義時の嫡子安千代が大蛇に襲われて命を失くしたため、北條寺を墓所とし、七堂伽藍を建立したといわれています。鎌倉時代前期の慶派による阿弥陀如来坐像(静岡県指定文化財)、鎌倉時代後期から末期の中国宋風の観音菩薩坐像(同)、牡丹鳥獣文繍帳(同)など、貴重な文化財があり、これらは北条義時・時政・政子が信仰・寄進したという伝承が残されています。

江間地区は狩野川を挟み、北条時政の屋敷のある守山の対岸になります。西側の山のむこうは駿河湾ですが、狩野川本流は一旦北の三島の方に流れ、沼津市街を抜け駿河湾に流れ込んでいます。従い江間地区は西側を山に阻まれた狭隘な場所になりますので、北条本家に比べそんなに豊かではなかったかと推測されます。そうだとすると嫡男でない義時にとって頼朝に従って一旗あげたい思いは十分にあったのではないか・・・。そしてもう一つの疑問は、八重姫が嫁いだとされる江間次郎の存在です。江間小四郎義時とどういう関係があったのか?はっきり書かれた資料もなく、妄想はふくらむばかりです。

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伊豆の国市散策⑤ --北条義時館跡--

2022-12-30 14:06:03 | 日記

守山を後にして狩野川に架かる松原橋を渡り江間の地に向かいます。最初に訪れたのは北条義時館跡。江間公園に案内板がありましたので、書き写してきました。

北条義時は、江間小四郎義時とも呼ばれ、江間に館があったと言われています。『増訂豆州志稿』(明治21年~28年刊行)に、「北条義時ノ宅址ハ江間村町屋ニアリ、今尋小学校ノ敷地トナル」と書かれていることから、現在江間公園公園となっているこの付近が北条義時の館と推定されています。公園の一角に「北條義時(江間小四郎義時)屋敷跡」と彫られた碑が建っています。

まさに写真の石碑がそうですが、兄宗時が健在であれば、北条義時は江間小四郎としてこの地で暮らしていたと思うと、なんとも感慨深いものがありました。歴史を振り返るときにタラネバはいけませんね。頼朝がいて、義時がいて、政子がいて、泰時がいて鎌倉幕府は築かれ、今の時代があるわけで受け入れるしかありません。

また同じ場所に「地震動の擦痕:魚雷に記録された地震のゆれ」(国指定天然記念物)という展示物がありました。これは1930年11月26日(M7.3)に丹那断層をはじめとする活断層が震源となり、現在地付近でも建物の全壊率25%をこえる強いゆれに襲われ、このゆれで江間小学校校庭に展示されていた魚雷がすべり、台座に引っ掻かれたキズ(擦痕)が残り、このキズからは、複雑なゆれの様子を読み取れるとありました。確かに魚雷の円筒に最初のタテゆれのキズ、次の横ゆれのキズを見ることが出来ます。同じ活断層におきた阪神淡路大震災のときにも、最初はドーンと大きな縦ゆれ、その後に長振動の横ゆれがあったと聞いていましたが、まさにその通りの波動でした。偶然にしても興味深い展示物でした。

 

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