人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 文覚上人の世界 ーー

2018-04-30 09:37:31 | 日記

文覚上人については、材木座の補陀洛寺、成就院の文覚上人像のところで紹介しましたが、相原精次著『文覚上人の軌跡』(彩流社)という本に出会い、さらに世界が広がりました。この本は荻原碌山(荻原守衛)の彫刻「文覚」を題材に書かれているのですが、安曇野の碌山美術館の文覚像の制作のいきさつから始まり、どんどん世界が広がっていきます。その「文覚」像のキッカケが成就院にある文覚上人像だったとは知りませんでした。荻原守衛が書いた『成就院に遊ぶ』(明治41年「藝術界」)という文章があります。この文覚上人像を荻原碌山は見て啓示を受けたかのように一気に自身の「文覚」像を制作しました。

◇◆ 只見る尺余の一木像、(一部略)僕は之を一瞥した瞬間の印象を、今も尚打消す事が出来ぬ。(一部略)その文覚その人が吾人の前に黙然として端坐して居る。吾人は此の刹那に於て木像と云う様な感じが起こる前に文覚、生きた文覚が存在すると直感した。この刹那の印象、それが此の怪像の真生命であると思ふた。(以下略) ◇◆

凡人過ぎる私の補陀洛寺の文覚上人像そして成就院の境内に置かれた文覚上人像のレプリカを見ての印象は、腕を組み目玉がぎょろりとした褌一枚の裸体像。変わった坐像としか思えませんでした。啓示を受けた碌山。そして何も感じない自分自身の差は何かと考えた時、その差は「文覚」についての圧倒的な知識の差ではないかと思います。江戸時代に流行した歌舞伎での袈裟と文覚の物語、明治時代になってからの星野天地らの文覚論の展開。当時の人たちは『平家物語』や『源平盛衰記』の袈裟御前と遠藤盛遠(文覚上人)の刃傷沙汰を真剣に?論じていたようです。あの芥川龍之介も大正7年に『袈裟と盛遠』という短編を発表しています。

文覚上人を語る時、どうも明治から大正、昭和にかけての富国強兵の時代には袈裟との色恋沙汰がクローズアップされ、銃後を守る貞淑な婦人像を作り上げるには邪魔だったようです。完全に源頼朝の挙兵に貢献した文覚上人は葬りさられました。

写真は大山寺本堂正面にある文覚上人の彫刻です。明治時代のものですが、那智の滝での荒行の様子を表現しています。

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きょうの旅 ーー 京都 大通寺 ーー

2018-04-24 17:33:16 | 日記

大通寺は東寺から少し南に下ったすぐ近くにあるお寺です。なぜ大通寺に行ったかといいますと、このお寺は鎌倉と関係が深く、源実朝やその妻の本覚尼、阿仏尼とも縁があるからにほかなりません。中に入れていただければよかったのですが、残念ながら非公開でしたので、門前にある京都市の案内文書を写してきました。    

 ◇◆ 大通寺(遍照心院) ◇◆ 清和天皇の第六皇子貞純親王の御子、六孫王経基の子満仲が父の墓所に一宇を建立したのが起こりといわれる。その後、二百六十余年を経た貞応元年(1222)に、源実朝の妻、本覚尼が亡夫の菩提を弔っていたが、真空回心上人を請じて梵刹を興し、萬祥山遍照心院大通寺と名付けた。「尼寺」と称して親しまれ、実朝の母、北条政子も大いにこの寺を援助したといわれる。後に「十六夜日記」の著者阿仏尼も入寺し、亡夫藤原為家を供養したとされる。

 足利尊氏・義満をはじめ織田・豊臣氏の崇敬も厚く、徳川氏代々も大いに興隆に努め、元禄年間には今の六孫王神社が造営され、塔頭も多数建立された。東は大宮、西は朱雀を限りとし、南は八条、北は塩小路を境とする広大な境内であったが、江戸幕府の滅亡により衰微し、廃仏毀釈にあった。明治四十四年(1911)には旧国鉄の用地となり六孫王神社だけを残して現地に移転して逼塞した。

 本堂には「本尊宝冠釈迦如来像」、脇には「源実朝像」が安置されている。また、創建当時から伝わる善女龍王画像、醍醐雑事記は重要文化財に指定されている。本覚寺置文二巻、阿仏尼真蹟、阿仏尼塚など、国文学上重要人物を偲ぶにふさわしいものが多く、尊氏・義満の文書も多数蔵されている。

案内文に書いてある通り、このお寺は清和源氏の菩提を弔うお寺であることが分ります。源満仲の孫が源頼義であり、その子が八幡太郎義家。ここまで下れば大通寺と鎌倉との関係が理解できました。京都で勤務していた会社は六孫王神社の近くにあり、この神社の境内で花見をしたこともあります。その当時は神社の由緒などには全く興味ないまま過ごしていたのですが、いまこうして振り返ると不思議なご縁で繋がっていました。

 

 

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東福寺の大伽藍と道長の十万不動明王

2018-04-24 17:21:19 | 日記

東福寺の大伽藍と道長の十万不動明王

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きょうの旅 ーー 妙心寺大衆禅堂大攝心(東福寺にて) ーー

2018-04-23 14:12:05 | 日記

4月21日から22日の一泊二日で妙心寺が主催する「第19回大衆禅堂大攝心」に行ってきました。大攝心とは坐禅三昧にふける禅宗の修行の一つですが、今回のは一般向けに簡略化されたものです。普段は妙心寺で行われるのですが、今回は5年ぶりに東福寺を会場として開催されました。なんといっても重要文化財の禅堂で坐禅ができ、その禅堂のなかで一泊、そして朝課諷経は一般公開されていない法堂で行われるのですから、全く持って得難い経験をさせていただきました。これも京都勤務の4年半の間、毎月霊雲院で坐禅をさせていただいたご縁かと感謝しています。

さて東福寺ですが、山号は慧日山。開基は藤原(九條)道家、開山は聖一国師(円爾辨圓)です。いつも鎌倉からしか歴史をみていませんが、東福寺を通じて京都からのみたその時代の様子に触れてみましょう。

東福寺は嘉禎元年(1236年)から建長七年(1255年)まで実に19年を費やし整備されました。道家の子が鎌倉幕府四代将軍頼経です。公暁に殺された源実朝の後継将軍を選ぶ際に北条義時・政子は天皇の皇子を望みましたが叶わず、ようやく九條道家の子である頼経を嘉禄元年(1226年)に将軍にすることができました。頼経・頼嗣親子が将軍だった期間は建長四年(1252年)に後嵯峨上皇の皇子である宗尊親王が将軍になるまでですが、それは東福寺建立の期間とほぼ重なります。九條道家は北条氏、鎌倉幕府の後ろ盾があったからこそ摂政関白として絶大な権勢を誇れたわけです。

その東福寺境内には国宝三門をはじめ重要文化財に指定されている大伽藍があり、その壮観は東福寺の伽藍面といわれています。開基九條道家は自身を聖徳太子になぞらえ、この寺を天台・真言・禅の三宗を収める一大寺院にすべく、中国第一の径山万寿寺の無準師範の法を嗣いで帰国した聖一国師を招き、九條道家の総合寺院の建立を企図。そしてそれを支えたのが北条時頼ら鎌倉幕府と思われます。昭和51年に韓国で大量の荷を積んだ沈没船が発見されました。その荷には「東福寺」「十貫公用」の文字がみられ、鎌倉幕府公認の貿易船により寺の建立資金を調達したのかもしれません。実際に国宝三門の巨大さをみると往時の施政者の苦労が偲ばれます。

写真は東福寺の通天橋を眺望したもの。あお紅葉が萌えています。

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鎌倉を知る ーー 教恩寺 ーー

2018-04-19 20:32:55 | 日記

4月18日。大町にある時宗のお寺、中座山教恩寺を参拝しました。鎌倉三十三ヵ所第十二番札所。今日18日は観音様の日ということで聖観音様をお参りさせていただきました。小ぶりですが美しいお姿をしています。

さてこの教恩寺は小田原北条氏三代目の北条氏康が光明寺内に建てたのが始まりといわれ、開山は智阿です。大町のなかでもこのあたりは米町と呼ばれていて、山号の中座山も米町のなかの中座からつけられた名前かと思われます。もともと現在の場所には光明寺の末寺である善昌寺というお寺があったのですが、江戸時代に貴誉が光明寺境内あった教恩寺をこの場所に移しました。鎌倉のなかでも大町と材木座は商工業者が多く住む町であり、浄土宗や時宗そして日蓮宗の寺院が集中しています。

ご本尊は阿弥陀如来像で運慶作と伝わっています。つい最近まで金沢文庫で開催されていた「運慶展」に出張されていましたので、運慶か快慶、いずれにしても慶派の作であることは間違いないようです。そのいわれは南都焼打ちの首謀者である平重衡が鎌倉連れてこられた時に、源頼朝が一族の冥福を祈るようにと与えたものといわれています。

名越に向う県道311号からちょっと奥に入った場所にあるせいか、大きなタブの木のある境内は静かで心が安らぎます。ひととき源平合戦の往時を偲んでみてはいかがでしょうか。

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