人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

2年経って何が変わったか?

2022-09-27 08:53:36 | 日記

巻頭の写真ですが、実は2年前(2020年11月29日)のブログにも同じ年表を載せました。あれから2年経ち、日本を取り巻く世界は、そしてこの国はどう変わったのでしょうか。たまたまブログを書いている今日は安倍元総理の国葬の日です。一番の変化は、今年の2月にロシアがウクライナに侵攻したことでしょうか。そして直ぐにでも終息すると考えたコロナ禍は既に第7波まできており、さらに第8波が心配される始末。また東京オリンピックは1年延期されて無観客で2021年7月に開催され、総理大臣もだれも予想していなかった岸田文雄氏に交代しました。最近の2年間だけでもこれだけ目まぐるしく変化しているのですから、これから先のことは全く予想できません。老い先の短い私はともかく、子や孫が無事に生涯を全うできるように祈るばかりです。終戦後77年間たった今、これまでの我が人生を振り返りますと、この国に生まれて戦争に巻き込まれれることなく、70年間生きてこられたのは、日中戦争から太平洋戦争で犠牲になった方々がいたお蔭であると、ささやかな幸せをかみしめております。

そんなことを思いながら、2年前につくった我が国2000年の年表をながめています。少なくともこの2年近くの間ガイド活動は中止を余儀なくされましたが、今年になってNHKの大河ドラマで「鎌倉殿と13人」が放映されたことから、鎌倉を取り巻く世の中の関心は一気に高まりました。大河ドラマ関連で出版された鎌倉本は数知れず、鎌倉時代に関した情報量が圧倒的に増えたことは間違いありません。

さてこの年表は三段重ねのおせちが入った重箱の上に、貧相そうな小鉢が2つ重なっているようにも見えます。最初のお重は、まだ国家のかたちができずに豪族が割拠していた弥生・古墳時代。二段目のお重は、国のかたちをつくるために中国をまねて律令国家をつくりあげた時代。このきっかけは白村江の戦いで唐・新羅軍に大敗した外圧があったことです。そして国外の脅威が遠ざかると、また群雄割拠の時代に戻ります。これが三段目のお重で武家支配の時代。私はこの契機は、治承四年(1180)の源頼朝の挙兵・鎌倉入り・支配体制の整備にあったと考えています。この三段重ねの重箱は、明治維新の1868年まで続きますが、それぞれ500年~600年以上間にわたってその体制が維持されています。そして明治時代以後は終戦まで77年間、終戦から現代までも77年間。江戸時代以前の歴史からすれば、ひと風吹いたくらいのものでしかありません。

それぞれのお重には、いろいろな具材のおせち料理が豪華に詰められていますが、重箱の隅をつつくように、余りにも細部に拘りますと、時代の大局を見失うおそれがあります。まず各お重を上から眺め、最後は腐ってしまったかもしれませんが、長い年月もちこたえた仕掛けは何かを考えてみるのも面白いかなと思うようになりました。まさにこれこそ司馬遼太郎が終生テーマした「この国のかたち」でしょうか。

 

 

 

 

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鎌倉を知る --泰時が信仰した明恵上人の言葉--

2022-09-24 10:47:03 | 日記

『明惠上人伝記』(平泉 洸全訳注 講談社学術文庫)の巻下は、秋田城介入道覚知、遁世して栂尾にすみけるころ・・。の書き出しではじまります。この秋田城介は安達景盛のことで、承久の乱時、明恵上人を捕縛し六波羅探題まで連れて来た縁で、明恵上人の高徳にふれ心酔した生涯をおくります。さて今回は、明恵上人の人となりを知るために、その言葉を抜き書きしてみました。まずはいただいた松茸のくだり。

●道人は仏法だにも好むと人に云わるるは恥なり。まして松茸好みなど云わるることのあさましきことなり。是を食すればこそかかる煩いにも及び候へ

次は糖桶を頂戴し、藤の皮をはがしさしだされた時のはなし

●糖桶は上を巻きたるこそ糖桶のあるべきようにてあるのに、あるべきようを背きたる

承久の乱時の上人が山中に逃げ込んだ人々を守る言葉

●この山(栂尾)は三宝寄進の所たるに依りて、殺生禁断の地なり。されば敵を遁るる軍士のからくして命ばかり助かりて、木の本、岩のはざまに隠れ居候ばんをば、・・。身命を奪われんことをかへりみぬことやは候ふべき

泰時のどうしたら生死の迷いから離脱できるか、裁判で私曲もなく道理のまま裁くのな罪にならいと思うがどうかの問い

●少きも理に違いて振舞う人は、後生までもなく今生にやがて滅ぶならいなり。其れは申すに及ばず、たとい正理のままに行い給うとも、分分の罪脱れぬことあるべし。生死の助けとならんことは思いも寄らぬ事なり

泰時の「どのような手段で天下を治めたらよいか」の問いかけに、病人に対する名医の処方を答える

●国の乱れて穏やかならず治まり難きは、何の侵す故ぞと、まず根源を能く知り給うべし。・・・。されば世の乱れる根源は、何より起こるぞと云えば、只欲を本とせり。この欲心一切に遍くして万般の禍となるなり。是れ天下の大病に非ずや。

他人がその教えを守らなかったらどうするのか

●其れ易かるべし。只太守一人の心に依るべし。・・・。この正しきと云うは無欲なり

この『明惠上人伝記』には、明恵上人があなたのように道理が分かった人が何ゆえに三人の上皇を配流したり、公卿たちを処罰したかの問いかけがあり、それに泰時が答える場面がありますが、その箇所は省略します。写真は高山寺の石水院の外観です。この建物は鎌倉時代に建てられた国宝であり、この伝記にも石水院の名前が出てきますので、ひょっとしたら明恵上人と泰時がこの屋根の下で語り合ったかもしれません。泰時が影響を受けた言葉は仏法ではなく、明恵上人が語る賢人の言葉だったと思われます。

 

 

 

 

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鎌倉を知る --北条泰時と明恵上人 その2--

2022-09-24 08:22:32 | 日記

前回のブログでは、司馬遼太郎が語る華厳について書きました。今回は梅原 猛の『仏教の思想 上巻』(角川書店)からの抜粋です。彼は、6世紀の中国の仏教思想家天台智顗の教説をもとに華厳思想を展開しています。

智顗は、釈迦を一人の巧みな教育者として考え、全経典を五時に分類しました。五時とは、華厳・阿含・方等・般若・法華の五つ。釈迦は寂滅道場でさとりを開き、彼の教えを語りました。そのはじめて語った純粋な教えが華厳なのである。この一即多、多即一の思想は、まことに純粋な大乗仏教の教えであったが、多くの人々はそれを理解することができなかった。それゆえ、彼はレベルを落して、人々の煩悩をのぞくために、はなはだわかりやすい実践的な教えを説いたのである。これが阿含であり、小乗といわれるものである。・・・。智顗は華厳を別教と考え、法華を円教と考える。別教とは、小乗とちがった大乗教の徒のみに説いた教えであるという意味である。それは純粋である。純粋にしてあまりに超越的である。・・・。華厳と天台、この二つの教えは、いずれも中国が生んだ大形而上学である。・・・。智顗は、『華厳経』を釈迦の青年時代の思想に配し、こうして、釈迦の青年時代の純粋であるが未熟な思想となった。

梅原の述べる智顗の教説により『華厳経』の位置づけがぼんやりと分かりかけてきましたが、この智顗の考え方では、何ゆえに明恵上人が厳しい修業のすえに華厳宗を中興したか?、北条泰時らが明恵上人のどこに心酔したか?に対する答えになっていません。なぜなら華厳の教え、例えば「一即多、多即一」の考え方は純粋であるがゆえに難解で、誰にでも理解できるものではないと思うからです。どうも泰時は『華厳経』そのものというより、明恵上人と語るなかで、彼の生きざま、人生観から感じ取るものがあったのはないでしょうか。

写真は高山寺の明恵上人の霊廟です。東側の敷地の一段と高い場所にあり、朝の光がさんさんとふりそそいでいました。

 

 

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鎌倉を知る --北条泰時と明恵上人 その1--

2022-09-23 17:02:47 | 日記

承久の乱の戦後処理で高山寺に逃げ込んだ敵方の武将やその家族を探索するために命を受けた安達景盛は栂尾の高山寺を探索し、明恵上人を捕縛し、北条泰時のいる六波羅探題に連れてきました。北条泰時はかねてから明恵上人の名声を聞き及んでいましたので、明恵上人を上座に迎え丁重にもてなします。この話は『明惠上人伝記』(平泉洸全訳注 講談社学術文庫)に書かれている話で、『吾妻鏡』には記載されていませんが、ほぼ真実の出来事といわれています。。

さてこの明恵上人ですが、神護寺にいた文覚上人とも関わり、後鳥羽上皇から栂尾の高山寺を賜わり、華厳宗中興の祖とも言われていいます。北条泰時も京都の六波羅探題在任中は明恵上人の元を訪れ、教えを乞い、その後の泰時の政治に影響を与えていますし、捕縛した安達景盛(既に出家し、蓮生房覚智)は明恵上人に心酔し、彼やその家族の生き方に影響したと思われます。

その明恵上人ですが、優れた人物であることは間違いないのですが、彼が中興したという華厳の教えがどんなものか?いろいろ調べても未だに理解できていません。手がかりを得るためいくつかの文献に当ってみました。まず司馬遼太郎『この国かたち 二』にある「華厳」の解説です。

奈良朝は、仏教の時代であった。・・。体系的な思想としては、華厳経だけで、それも奈良朝でも、遅い時期に入った。・・。聖武天皇がこの経に接し、華厳世界の中心的な存在である毘盧遮那仏を「大仏」と「大仏殿」のかたちにして造営したのも、はじめて”体系”に接したことの昂奮のあらわれだったといっていい。 華厳経もまた大乗仏教で、従って釈迦以後の成立なのである。・・。この経典に盛られた思想こそ、のちの日本的思考法や思想の先祖の一つになったいうのが、この稿の主題である。たとえば、一はすなわち多である。多はすなわち一である(一即多、多即一)という言い方。また、一個の米粒をみて、宇宙と人事の一切がこめられている(即応されている)という日本的考え方も、華厳経から出発した。・・。本来の仏教は解脱が目的であって、救済の思想はなかった。・・。劇的なことに、大乗仏教が出るにおよんで、救済が入ったのである。・・。華厳によると、廬毘舎那仏という真理(悟りのすがた)からみれば、仏や菩薩が毘盧遮那仏の悟りのあらわれであるだけでなく、迷いもまた毘盧遮那仏の悟りのあらわれとされる。人間どころか、草や石、あるいは餓鬼や地獄まで法(毘盧遮那仏)に包摂され、一つの存在がすべての存在をふくみ、また一現象が他の現象とかかわりつつ、無礙に円融してゆくというのである。となると、一切の衆生は当然のありかたとして仏になってゆく。

何とも司馬遼太郎の文からも、私自身、華厳の世界は今一つ理解できませんでした。まだまだ修行がたらないようです。写真は高山寺の明恵上人の開山堂です。

 

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鎌倉を知る --聖徳太子への畏敬--

2022-09-20 19:33:16 | 日記

『吾妻鏡』承元四年(1210)10月15日の条に、聖徳太子の十七条の憲法、ならびに守屋(物部)逆臣の跡の收公田の員数・在所、および天王寺・法隆寺に納め置かるところの重宝等の記、将軍家(源実朝)日来お尋ねあり。広元朝臣相触れてこれを尋ね、今日進覧すと云々。また同月廿二日の条には、御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。眞智坊法橋隆導師たり。この事日来の御願と云々。

このように源実朝は聖徳太子を研究し、政治に活かせようとした様子が垣間見えます。実朝の側に仕えた北条泰時も当然の如く聖徳太子の政治を学んだと思われます。十七条憲法も知っていたでしょう。それが20年以上経たのちに「御成敗式目」に活かされるとは、その時、誰も想像できなかったと思われます。最初の御成敗式目は51条で十七条憲法の3倍の条数をもっていました。泰時は意図してそうしたのではないかと、以前読んだ本に書いてあったような気がします。

さて写真は聖徳太子ゆかりの法隆寺の中門です。昭和47年(1972)に発行された『隠された十字架ー法隆寺論ー』(梅原 猛著 新潮社)にその中門のことが書いてあったのを思い出しました。梅原 猛は、「中門は怨霊を封じ込めるためにある」と書いています。この本の主題は、法隆寺自体が怨霊封じ込めのお寺であることです。その答えは、中門のまん中にある柱であると言っています。この柱のために中門は四間になっており、この四という偶数の数字が怨霊を弔うために選ばれた数字であると述べています。その真偽のほどはよく分かりませんが、梅原 猛ファンとしては納得せざるをえないでしょう。

この法隆寺を訪ねたのはいつのことだったでしょう。奈良には何度も足を運び、行くチャンスはあったのですが、ついつい行きそびれていました。この理由は単純で、これまでは近鉄線を利用することが多かったので、最寄り駅から行き方に不便を感じていたからです。今回はJR奈良線で奈良駅を利用しました。法隆寺の最寄り駅はJRの大和大路線の法隆寺駅。奈良駅から15分位で着きました。なんとも無知であることは恐ろしいですね。以前に法隆寺を訪ねたのは50年以上前だったかもしれません。コロナ禍で空いていたせいか、ゆっくりと法隆寺参拝ができました。

 

 

 

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