人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 『吾妻鏡』 と徳川家康 ーー

2019-07-21 12:01:28 | 日記

鎌倉ガイドにとっての必読書は『吾妻鏡』で、この書物がなければこれほどまで鎌倉時代が語られることはなっかったと思います。とは言っても、内容が不正確とか、北条氏の目線で書かれているとか、欠落部分があるなど、どうも信用できないという人がいることは確かでしょう。

最近、土曜日の日本経済新聞『詩歌教養』ページで本郷和人氏の「日本史ひと模様」というコラムが連載されていました。そのなか上総広常①の回に『吾妻鏡』と徳川家康にふれた部分がありす。私自身、このブログで『吾妻鏡』は家康の愛読書だったと書いたことがあります。本郷先生の文章を読みますとさらに深く理解することができました。少しその個所を転載(一部略)してみましょう。

この本(『吾妻鏡』)は、他の書籍と同様、世の乱れとともに一時散逸していた。だが戦国時代の後北条氏が質の良いものを持っていた。後北条氏は小田原城が落城して滅びるときに、黒田官兵衛にこの本を贈呈した。官兵衛の子長政は徳川将軍家にこの書を献上した。これが『北条本 吾妻鏡』で、いま私たちが気軽に参照するのがこの本である。ところが最近、東京大学史料編纂所の井上准教授の研究により、上記の定説が崩れようとしている。『北条本 吾妻鏡』が散逸していたものを、お金と手間をかけて日本全国からこれらを収集し復元したのは、徳川家康だというのだ。『吾妻鏡』の収集は秀吉存命中からすでに行われていたらしく、そうすると家康が江戸に幕府を開いたということ自体、鎌倉に拠点を定めた源頼朝の模倣といえるかもしれない。ともあれ、『北条本 吾妻鏡』は『家康本 吾妻鏡』に変更したほうがよさそうだ。

家康は、戦争の無い平和な世の中を築くには何をなすべきかを必死に考えた人物です。その家康が参考にしたのが『吾妻鏡』。だとすれば、家康はどうして鎌倉幕府は150年続き、はたまた簡単に滅亡したのか?を『吾妻鏡』から読みとろうとしたに違いありません。

書かれている記事が間違っているとか、どうだとか、重箱の隅をつつくような読みかたではなく、大きな流れのなかで、歴史はどう動いたかを読みとることの大切さを、このコラムで教えられた気がしました。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「江の島」その魅力をさぐる

2019-07-15 10:26:10 | 日記

タイトルが少し仰々しいですが、江の島の魅力の第2弾を紹介します。前回は弁財天信仰についてでしたが、今回はちょっと視点をかえてその魅力に迫ります。

源頼朝は文覚上人をして江の島に弁才天を勧請していますが、他にも適地はあるはずで何故に江の島を選んだのでしょうか・・・。相模湾を琵琶湖にみたて景色の似た竹生島の弁才天を勧請したのか?瀬戸内海に浮かぶ宮島の厳島神社の弁才天を勧請したのか?都に住んだことのある頼朝は竹生島の景色を見たかもしれませんね。中国の蓬莱山のことも知っていたのでしょう。また北条時政の三つ鱗の伝説もよく知られています。

源頼家は建仁元年(1201)に、源実朝の御台所も建保4年(1216)に江島に参詣。さらに元仁元年(1224)には4代将軍藤原頼経が霊所七瀬で祈雨の祓いをするために、その一つ江島の龍穴で御祓いをしています。頼経は陰陽道に通じ、天変地異や除病、息災、延命等の祈願を行っていたようです。

鎌倉時代の紀行文に『海道記』や『問わず語り』がありますが、ともに鎌倉に入る前に江の島に立ち寄って島に泊まった様子を書いています。『海道記』には、感験ことに新たな江尻の大明神と紹介され、『問わず語り』では、岩屋に住む山伏の所に泊まり、扇を贈ったことなどがいきいきとした文章で書かれています。鎌倉時代から江の島の霊験は都にも知られていたと思われます。

江戸の元禄時代では杉山和一(検校)の話が有名ですね。実際に杉山和一の墓は江の島にあり、大切に管理されています。杉山和一は管ばりを発明した人物で、江島下之院に参籠祈願し、石につまずいて管に松葉をさす方法を思いつき、5代将軍綱吉の寵愛をうけ大出世しました。人生分らないものです。

明治以降は廃仏毀釈のため、江の島は弁財天でなく宗像三神が祀られました。それはそれでご利益があるのでしょうが、やはり江の島は弁天様でしょうね。ありがたさの歴史が違います。そして最近は中国や台湾の観光客が多数訪れますし、東京オリンピックのセーリング会場になりました。これも弁天様のご利益かもしれません。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

セーリング 470級世界選手権の練習風景

2019-07-14 22:44:30 | 日記

セーリング 470級世界選手権の練習風景

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉花火大会2019

2019-07-14 20:52:05 | 日記

鎌倉花火大会2019

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

鎌倉を知る ーー 江の島の弁財天信仰 ーー

2019-07-14 08:42:54 | 日記

今度江の島でガイドをすることになり江の島を訪ねる機会が増えました。となると江の島を有名にした弁財天信仰を調べる必要があります。幸いにしてこの2月に『江島詣-弁財天信仰のかたち』(鈴木良明著 有隣新書)という本が出版されましたので、買い求め参考にさせていただきました。

まず『江島詣』には、弁財天信仰のもとになる経典は『金光明最勝王経』(巻第八 大弁才天女品第十五の二)で、弁才天は、調伏、音楽、弁舌、財宝などさまざまなご利益があるとされ、その像容は八臂にして各手に弓・刀・矢・矛・長刀・鉄輪・縄などを持っています。二臂の弁才天は大日経などの経典に「妙音天」として現れ、胎蔵界曼荼羅の中に描かれていると書かれていました。昔の人は岩屋に何日も参籠して願をかけたのでしょう。

つぎに『吾妻鏡』に江島の記事が登場するのは、寿永元年(1182)の「源頼朝が鎮守府将軍藤原秀衡調伏のため江島へ文覚上人をして大弁才天を勧請する」というのが最初です。文覚は21日間参籠していました。ただ頼朝が藤原泰衡を討伐するのが文治五年(1189)であり、この記事はあとから取り込まれたものとする説もあるようですが、この時期、平家討伐のために西に目を向けている頼朝にとって、後顧の憂いなく戦うには藤原秀衡を調伏することが、最大の関心事であることは間違いないと思われます。

そしてもう一つ。梅原猛著作集第二巻『仏像・羅漢』の中にある江島神社・弁財天像の写真と記述です。この本は昭和56年(1981)に出版されていますので、本のなかの弁財天像は、昭和25年頃修理された後の像ではないでしょうか。梅原猛はこの像を見て、「その見事な肉身はどうであろう。それはまちがいもなく現実の女身の再現である。利口そうな眼、ひきしまった口もと、端麗なお顔、まっ白い肉付き豊かな体、多産で健康で、官能的で、どのような荒武者すら満足させる肉身と、知性をもっている女性である。おそらく鎌倉期の女性の理想像があったに違いない。(一部略)」  なんとも想像力の逞しいことでしょう。私も今の唇に紅がひかれた弁天様より、化粧のない写真の像のほうが好きですが・・・。

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする