人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --護良親王の墓? 三島の智方神社ーー

2020-03-31 15:19:34 | 日記

黄瀬川の手前、三島の八幡神社の隣に智方神社があります。三島市長沢という地名であり、智方神社という名前の由来が不明です。入口に立派な案内がありました。読みますと、護良親王ゆかりの神社と書いてあります。鎌倉周辺にも護良親王にちなんだ場所がいくつもありますので、これは捨て置けず、「智方神社の由来」全文を写してきました。(昭和35年4月20日静岡県知事認証)とあります。

建武二年七月二十三日護良親王̪弑せらし時 御側に侍りし宮人南の方(藤原保藤の女)宮の御首を櫃に収め 御他界の情況を中央(南朝)に報ぜんがため従者を伴い 足柄街道を追手の目を避けて此の地(駿東郡清水町長沢当時は伊豆の国)黄瀬川の辺まで到着せり、時に八月一日黄瀬川の水張り渡渉すること困難なりしかば 暫時河岸に休息なされ 御櫃を見るに長の道中を運び奉る事の困難なる状を拝し 止むなく河岸近く古びたる小祠の辺りに地を求め 宮の御首級を葬り楠の一樹を植え 以て墓印となす。 時に北条時行は家令畠山国清の手兵併せ五千の兵を挙げ南朝に属せし 延元二年まで伊豆の藩主たりし間に御首級墳を石祠となし 更に神社となし現在に至る 当時足利氏の詮索を避けんがため 態と御祭神の名を秘し 神前下馬の札を諷示するため 白馬即ち白騎なり白騎即ち白旗なり白旗は源氏なり 足利氏は源氏なり 親王の霊廟を建立せる北条時行は平氏なり 御祭神大塔の宮と共に白旗を忌むとは当然の事なり 邑人子々孫々世の変遷にも絶つことなく密に此の口伝を固く守り続け御祭神の文献存せざる為 追及する事なく(追及しても足利・徳川と源氏の世続く)木彫御首級の御神体と白馬像御首級墳を大切に保存し今日に至り 御祭神漸く明確になり承認を得たるは御神威の程愈々広大なりと言うべきなり 茲に六百二十五年の星霜を経 貴重なる史実を得たるは真に喜ばしき限りなり

書き写して驚きました。護良親王、北条時行の名が出てくるとは、やはり駿東は北条の地でした。それにしても、隣が源頼朝と義経の対面の場を祀る八幡神社とは、この由来を書いた人物の凄まじい想いが感じられる文章です。

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鎌倉を知る --三島清水町八幡 対面石ーー

2020-03-31 13:24:48 | 日記

タイトルを見ただけでは何のことか分かりませんね。三島から沼津に向かう途中、黄瀬川を渡る手前に八幡神社がありました。八幡神社は全国どこにでもありますが、この八幡神社には「対面石」という案内が大きく掲げてありました。境内の案内をみますと、源頼朝と源義経の対面の場と書かれていました。思わぬ収穫です。そうです、時代は治承四年(1180)十月廿日の富士川の合戦にまで遡ります。

『吾妻鑑』治承四年十月廿日と翌廿一日の記事を紹介します。

廿日 頼朝、駿河國加島に到らしたまふ。また平維盛ら富士河の西岸に陣す。武田信義、兵略を廻らして、ひそかに件の陣の後面を襲ふのところ、富士沼に集まるところの水鳥等群れ立つ。その羽音ひとへに軍勢の粧をなす。これによって平氏ら驚き騒ぐ・・・。

ご存じの通り、平氏が戦わず京に遁れた富士川の合戦の一節です。そのあと平維盛らを追討するのはやめにして、東夷を平定するのが先との軍議整い、その翌日、源頼朝と義経の対面が叶います。

廿一日 黄瀬川に遷り宿せしめたまふ。今日、弱冠一人、御旅館の砌に佇み、鎌倉殿に謁したてまつるべきの由を称す。年齢の程を思ふに、奥州の九郎か。・・・果たして義経主なり。すなはち御前に参進して、互いに往時を談じ、懐舊の涙を催す。・・・云々。

この場所だとすれば、頼朝、義経が再会を果たした歴史的なところです。二つ並んだ石の奥は、今は木立になっていますが、富士山が望める眺望のよい場所でした。兄頼朝に追われ、源義経が藤原泰衡に討たれるのは九年後の文治5年(1189)のことです。両雄並び立たず。なんとも切ないですね。

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東海道中膝車 --三島から吉原ーー

2020-03-30 14:54:35 | 旅行

戸塚スタート5回目。藤沢を6時40分発の小田原行に乗り、小田原駅で沼津行に乗り換え、8時前に三島に着きました。

本日は三嶋大社がスタート地点。三嶋大社は、御祭神が大山祇命と積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)の御二柱の神様を祭神としています。大山祇命はイザナキとイザナミの国造りで生まれた山森農産の守護神。事代主神は『古事記』をみると、大国主神の妻問いで神屋楯比売命(かむやたてひめのみこと)の間に生まれた子供ですが、俗に恵比須様とも称され、福徳の神として商・工・漁業者の厚い崇敬を受けています。鎌倉ゆかりの源頼朝の崇敬も厚く、『吾妻鏡』治承四年(1180)八月十七日山木館襲撃の当日朝の記事に三嶋社の名前がでてきます。

快晴。三嶋社の神事なり。安達盛長、奉幣の御使として社参し、程なく帰参す。

まさに源頼朝による平家討伐の旗揚げの日ですね。そんな歴史上の出来事に想いを馳せ、快晴の天気のもと8時30分に三嶋大社を出発しました。県道145号線沿いを歩き、黄瀬川を渡れば沼津ですが、その手前にある八幡神社とそばの智方神社は鎌倉ゆかりの場所です。この2か所は別に紹介します。沼津は狩野川と駿河湾に挟まれたところに街は広がっています。街なかの旧東海道は分かりづらく注意が必要ですが、県道163号線に出れば、あとは原までひたすら歩くだけ。途中富士山が見える場所もあるのですが、この日はあいにく頭を雲の上に出しただけで全体の姿は拝めませんでした。奥ゆかしいですね。

さて原宿は本日一番訪ねたい場所です。何と言っても、あの坐禅和讃で有名な白隠禅師の生誕地です。お墓のある松陰寺、清梵寺、長興寺に参拝し、目的を達せました。松陰寺を出たのが12時30分過ぎ、吉原までは8.6㎞。15時に吉原駅北口に着きました。ここまで三島から22.6㎞。ちょっと物足りない歩行距離ですが、無理せずに帰路につき、自宅に帰ったのは18時前でした。江戸時代の旅人は1日に10里40㎞くらい歩いたようですが、歩きはじめは日の出前4時くらいです。真似できませんね。

 

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東海道中膝車 --箱根路の石畳ーー

2020-03-29 11:25:43 | 旅行

東海道歩きの楽しみの一つはできるだけ江戸時代の遺構が残っている場所を歩き、街道を歩いた往時の人々の気持ちに寄り添うことにあります。現在はアスファルトの道路が整備され、履いている靴も足への負担が少ない素材のものですから、江戸時代とは比べ物にならないくらい楽をしているわけです。では江戸時代はどんな旅をしたのか?『江戸人と歩く東海道五十三次』(石川英輔著 新潮文庫)という本が手元にありましたので読んでみました。買ったまま読んでない本もこういう時には役に立ちます。江戸時代の人々は悲惨な旅をしていたかといえば、暇とお金さえあれば結構楽しんでいたようです。なかでもブームになったお伊勢参りなどは、文政十三年(1830)の遷宮の時には、日本全国から500万人が詰めかけました。当時総人口は3100万人の時代なので、6人に一人の計算ですね。まさに民族大移動です。

大切なことは、その旅行者を受け入れるインフラストラクチャーがちゃんと整備されていたことです。その一つが街道一の難所、箱根路に整備された石畳です。旧東海道沿いには、箱根町が作成した案内板が随所に設置されていますので、ただひたすら先を急ぐだけでなく、休憩がてらご覧になるのをお薦めします。

さて写真で見ての通り、この石畳は道幅2mくらいにぎっしり敷き詰められています。土の道の下部には小さな石、上部には大きな石を組み合わせて並べており、脇には排水路、谷側には旅人が谷に滑落することがないように並木が植えられた土手が作られています。石も簡単に崩れないような大きさです。また大水が出た時のために「斜め排水路」というものあり、当時の優れた土木技術力が窺い知れます。よく見ますと、石畳の表面は丸く削れていますね。最初からそうだったかは分かりませんが、底の堅い靴だとよく滑ります。こういう道は、足の指でホールドする感覚がある足袋と草鞋履きがいいかもしれません。昔の人は、足の指と足裏が柔らかく、上り下りも苦にせずに歩いたと思われます。馬も蹄に草鞋を履かせていました。以上、石畳物語でした。先を急ぎましょう。

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鎌倉を知る --山中城跡ーー

2020-03-28 15:04:47 | 日記

山中城跡は旧東海道沿い、箱根峠(標高:846m)から三島に下った先にあります。標高は580m。実際に歩いてみると、箱根峠から2時間近くかかりました。結構下ったというのが印象です。昨年夏のバス旅行で来たときは天気も曇りで距離感もあまり感じなく、山中城跡の造形的な堀(ワッフルの形)くらいしか記憶に残っていません。

三島市の資料によれば、山中城は、戦国時代末期の天文年間から永禄年間(1530~1560年頃)、小田原に本城をおいた後北条氏によって番城(城主を置かない城)として築城されました。山田川や来光川の源流に挟まれ、急峻な斜面に囲まれた自然の要害の地につくられた山城。城からの展望は良く開け、西櫓からは御殿場・裾野方面が、豊臣秀吉の小田原攻めの時に急遽つくられた岱先(たいさき)出丸からは伊豆北部と駿東の大半を一望で見渡すことができます。そしてこの山中城のある伊豆北部は、武田・今川領と国境を接しており、後北条氏にとって西方防御の要の地とありました。

ただ築城当初に岱崎出丸がなかったことから、今川氏への備えは重要視していなかったと思われます。天正年間の豊臣秀吉の小田原攻めの際、山中城は韮山城、足柄城とともに最前線の軍事拠点として、堀や出丸の改修が行われましたが、天正18年(1590)3月に豊臣軍の総攻撃を受け、わずか半日で落城しました。昭和48年からの発掘調査でこの山城の全容が明らかにされましたが、土塁や障子堀、畝堀などの防御施設はなんとも美しく見ごたえがあります。

しかしながら、私見ではありますが、敵の総攻撃で半日で落城したという事実からその防御効果は如何ほどだったでしょうか?そうは言っても、空気の澄みきった晴天の日に、西ノ丸と西櫓の間にある障子堀越しに見る富士山の雄姿は見事です。富士山が正面にくるように障子堀を設計したとしか考えられません。写真をご覧ください。まさにその造形美を見ることができ幸運でした。

 

 

 

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