人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る --海棠と春の雨--

2024-03-28 16:49:11 | 日記

鎌倉で海棠の花が有名な場所は妙本寺と長谷の光則寺です。少し前は安国論寺の海棠をあわせ鎌倉三海棠といわれていましたが、残念ながら今は妙本寺、光則寺の二海棠になっています。『花のことば辞典』(倉嶋厚監修、宇田川眞人編者 講談社学術文庫)によれば、海棠は五弁の花をやや下向きにつけ、雨に濡れると長い花柄(枝から花にのびる軸)が水滴の重さに耐えきれぬように垂れ下がり、その様子が美人の悩まし気な姿ということで「海棠の雨に濡れたる風情」という成語が生まれたと書いてありました。春の雨に似合う花ということでしょうか。

また唐の玄宗皇帝と楊貴妃にまつわる故事も知られています。酩酊して顔がほのかに赤い楊貴妃に「まだ酔いがさめないのか」と聞いたとき「海棠睡り未だ足らず」と答えたと伝わり、「睡れる花」ともいわれています。この故事から、花言葉は「艶麗」または「美人の眠り」というようです。

妙本寺の海棠には、小林秀雄と中原中也の思い出も残されています。小林秀雄の短編『中原中也の思ひ出』には妙本寺の散り際の海棠の下で一時を過ごした二人の様子が書かれています。久しぶりの再会なのに背負っている過去の出来事が重すぎて、海棠の花の散るのをだまって見ている二人の間には、海棠の花言葉とは無縁な世界が広がっていました。中原中也の小林秀雄への思いは「口惜しい男」であり、ビールを飲みながらの「前途茫洋さ、ボーヨー、ボーヨー」という中也の言葉は、お互い若気の至りの過去の出来事とはいえ、あまりにも悲しく重すぎました。

写真は光則寺の海棠の花。一輪咲いているのを写しました。可憐な花です。満開になるのを今か今かと待ちわび、天気に一喜一憂する。雨に花が濡れれば、それも良しとする。我が身もそうですが、日本人の花見好きには呆れてしまいます。古代から脈々と受け継がれたDNAは如何ともしがたいですね。今年はソメイヨシノも海棠も開花が遅れていますが、4月になれば一気に咲き始めるかと思います。まさに April Come She Will  「四月になれば彼女は」ですね。今日届いたばかりのTHE GRADUATE のCDを聞きながら書いています。

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鎌倉を知る --妙本寺と比企能本ーー

2024-03-28 08:16:34 | 日記

先日、妙本寺の祖師堂でお寺の方から妙本寺創建時のお話を伺うことができました。妙本寺を案内するときはこの比企ヶ谷で起きた小御所合戦(これまでは比企氏の乱といわれている)のことを中心に説明するのですが、妙本寺創建のいきさつについては日蓮上人が開山で比企能員の子である比企能員が開基である程度で深堀せずにいました。そして無知がなせる業でしょうか?「なぜ小御所合戦で滅びた比企一族の能本がこの場所に妙本寺を創建することができたのですか?」という質問をしてしまいました。

お寺さんの話をきっかけに、比企能本と日蓮宗の関係についてネットで調べてみますと、本門佛立宗が出している「お祖師さまを巡る人々第16回」というコラムをみつけました。比企能本(比企大学三郎能本)は小御所合戦が起きた時はまだ2歳でしたが、たった一人生き残り、伯父に引き取られ京都で過ごし、成長して有名な儒学者になったとあります。別の「比企一族の歴史」(東松山市 郷土学部B班)という報告書には、竹御所と共に当時2歳で助けられ、その後上京し儒者となって都で順徳天皇に仕え、竹御所死後比企氏再興が許されたことにより、能員屋敷跡の比企ヶ谷に法華堂を創建したと書かれています。

ここからは妄想の世界となりますが、竹御所が亡くなったのは天福二年(1234)七月なので、再興を許したのは3代執権である北条泰時のころでしょうか?ではその根拠は何か?私見ですが、それは泰時が制定した『御成敗式目』にあるのではないかと考えます。『御成敗式目』(貞永元年1232制定施行)の七条(不易の法)は、頼朝から政子の時代までに将軍から与えられた所領は、たとえそれ以前から本来の領主と称するものがあらわれ、返還を求めても、返還されることはないと規定されています(『人物叢書 北条泰時』による)。この比企ヶ谷の土地は、源頼朝は乳母である比企の尼にその恩に報いるため与えた土地でした。比企一族は滅亡しましたが、比企の尼の孫にあたる比企能本が相続人として認められたと思われます。

さらに本門佛立宗のコラムによれば、比企能本と日蓮上人の最初の出会いは、建長三年(1251)で能本50歳、日蓮上人30歳のときに日蓮上人が比叡山で修業中に儒学を学び、『立正安国論』を執筆する際にも文章的なことを能本に質問していたとあります。また千葉県の本土寺に遺されている「大学三郎御書」(日蓮上人が比企能本に出した手紙)には、龍ノ口法難の折りに能本が日蓮上人の助命に尽力した様子が書かれています。このように日蓮上人との深い関係もあり、文永十一年(1274)に日蓮上人が佐渡から鎌倉に戻ったあと法華堂を「長興山妙本寺」と名付け、今日に至っているわけです。

妙本寺の参道入口には「閻浮提内本化最初霊窟」と彫られた石碑がありますが、さもありなんと納得した次第です。そして小御所合戦で滅亡したはずの比企氏一族の菩提を弔うために創建された妙本寺に令和の時代まで多くの参拝者が訪れていることを思うと、真に勝ち残ったのは比企一族ではなかったと不思議な気がします。今年はまだ満開になっていませんが、また海棠の咲く季節になりました。写真は2年前の4月2日に写したものです。

 

 

 

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鎌倉を知る --April Come She Will--

2024-03-25 05:05:31 | 日記

巻頭の写真は、去年の3月30日の午後、鶴岡八幡宮の参道で有名な段葛を写したものです。今年はここ数日気温の低い日が続き、蕾は堅いまま。多分、満開になるのは去年より遅く4月初旬頃かもしれません。開花予想は外れっぱなし、気ままの自然に振り回されている人も多いかと思います。

さてタイトルの「April  Come  She  Will」は、ダスティン・ホフマン主演の映画「卒業」の挿入歌の一つ。その「卒業」が日本で公開されたのは昭和43年(1968)。筆者は多感な高校1年生でこの映画を観にいき、あらすじはともかく、映像の美しさとサイモンとガーファンクルが歌う挿入歌に魅了された記憶があります。56年前の記憶ですが、今でも鮮明に蘇ってきます。特に傷つけた彼女を求めて大学のキャンパスを彷徨する主人公のベンジャミンの罪悪感のあふれる姿、4月から9月までの季節のうつろい、そこにバックミュージックとして流れるのがこの「April  Come  She  Will」です。アートガーファンクルの切ない歌声とポールサイモンの巧みなアコースティックギターの演奏は、多感な高校生の脳裏に焼き付き、いっぺんにサイモンとガーファンクルファンになってしまいました。

なんでこんな話の展開になったかというと、読売新聞の「All  That  Cinema 」という話題映画欄で「四月になれば彼女は」という映画が紹介され、サイモン&ガーファンクルのこの「四月になれば彼女は」が「サウンド・オブ・サイレンス」「スカボローフェア」もあるなかで隠れた名曲と書かれていたからです。我が意を得たり。一気に50年以上も前に記憶が戻りました。

古希も過ぎ、老化も進んだのか、最近の出来事は忘れることが多いのに不思議なもので目で見て耳で聞いた記憶は脳裏に焼き付いているものです。YouTubeで聞いてみましたが、やはりいいですね。

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「幸い」の人 藤原道長 に迫る

2024-03-14 19:38:48 | 日記

ーー 此の世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたる事も 無しと思へば --

この和歌の作者は表題の藤原道長です。学生時代からこの和歌があったおかげで藤原道長の印象はあまりよくありません。平安時代、時の天皇を超える権勢をふるった人物としてその傲慢さが嫌いで長い間避けてきました。そして今年の大河ドラマ「光る君へ」は『源氏物語』の作者である紫式部の物語。なんで大河ドラマに取り上げるのか?正直、納得しませんでした。ともかく最初は吉高由里子の魅力で興味本位に見始めましたが、どうしてそこに藤原道長が絡むのか?無知とは恐ろしいものです。鎌倉時代のことは多少勉強しても、平安時代のことを全く知らない我が身によく鎌倉のガイドが務まるものだと思います。

そんな時、読売新聞に『道長ものがたり 「我が世の望月」とは何だったのか--』(山本淳子著 朝日新聞出版)の書評が目にとまりました。著者の山本淳子氏は『源氏物語』研究の第一人者であり、その著者が、藤原道長と紫式部の関係や「我が世の望月」を詠んだ道長の真意を分かりやすく解説していると紹介されています。早速読んでみましたが、図解や系図も豊富。かつ平易な文章なのでスラスラと読め、栄華を極めた藤原道長の人生、紫式部が『源氏物語』を書いた背景がよく理解できました。お薦めの一冊です。

本に書かれた内容についてはここでは詳しく書きませんが、私なりに印象に残ったことは、山本氏がおしゃっているように道長は「幸い」な人であるということです。「幸い」な人というのは、平安時代の言葉で「強運」な人というのだそうです。道長は彼の生涯で富、権力、結婚、家族、長寿のすべてを得られた強運の持ち主だったと書いています。本人の努力もあったと思いますが、何かわからない力によって導かれている。これを天命といったり、神の導きといったりしますが、歴史に名を残し、日本の歴史を作り上げた人物は皆、道長のような一生を送っているようです。私なりに考えますと、藤原不比等、藤原道長、平清盛、源頼朝、北条泰時、豊臣秀吉、徳川家康らでしょうか。残念ながら明治時代以降はこういった傑出した人物は出ていません。これは私の思いからかもしれませんが・・・。

そしてもう一言。平安時代というのは鎌倉時代にくらべ時代の記録が日記という形で多く残されいます。道長の書いた『御堂関白記』、藤原実資の『小右記』、藤原行成の『権記』、紫式部の『紫式部日記』など。そして清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』、『栄華物語』、『大鏡』などの随筆や小説などもあります。こうしてみますと、光源氏のモデルは藤原道長だったといわれていますが、まんざら嘘ではない気がしてきました。

最後に巻頭写真は鎌倉の十二所にある明王院(五大堂)です。開基は鎌倉幕府四代将軍の藤原(九条)頼経です。藤原氏は道長のあと頼通、師実、師通、忠実、忠通とつながり、忠通のあと五摂家の一つ九条家は兼実、良経、道家となり、九条道家の子が頼経。頼経は鎌倉に五大堂(現在の明王院)を創建し、五大明王を祀り、国家の安寧を祈願しました。藤原道長も自分の女である彰子のお産の時に「五檀の御修法」により安産を祈願しました。これは不動明王を中心に金剛夜叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王の五明王に祈願する大変格式の高い修法です。頼経が五大堂の創建にこだわった理由がわかる気がしました。

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鎌倉を知る --『徒然草』から貨幣の流通を推測する?--

2024-03-08 15:23:11 | 日記

『徒然草』の作者である兼好法師は、推測ではありますが、弘安六年(1283)頃に生まれ、観応元年(1350)頃(もっと長生きしたという説もあり)まで生きました。生まれたとされる前年には弘安の役があり、騒乱にあけくれた時期です。鎌倉幕府の執権は、北条時宗、貞時と続き、鎌倉幕府の滅亡を目の当たりにしています。なかでも六波羅探題であった金沢貞顕(1278-1333)とは親しく交わり、その縁で兼好は鎌倉には二度下向し、金沢に住んでいました。そして『徒然草』は元弘元年(1331)頃には成立していたとする説が有力です。(『徒然草』の歴史学(五味文彦)による)

だいたい時代感覚がつかめたところで、今回『徒然草』を取りあげたのは、文中からその当時生きていた人々の暮らしぶり、特に銭(お金)にまつわる話題を取りあげたかったからです。そこで道案内として『『徒然草』の歴史学』(五味文彦著 角川ソフィア文庫)を参考にしました。全部で243段ある『徒然草』から目的の個所を見つけるのは容易でなく、五味先生のこの本があったおかげで大変助かりました。

まず北条時頼の質素な暮らしぶりついては、第215段(北条宣時との話題)、216段(足利義氏との話題)、第184段(時頼の母である松下禅尼の話)にありますが、この話は以前このブログで紹介していますので省略させていただきます。次は第120段に出てくる唐の物(中国からの渡来品)の話です。(『徒然草』は新潮日本古典集成(木藤才蔵校注)による)

「 唐の物は、薬の外は、なくとも事欠くまじ。書どもは、この国に多く広まりぬれば、書きも写してん。もろこし舟(中国船)の、たやすからぬ道に、無用の物どものみ取り積みて、所せく渡しもて来る、いと愚かなり。(一部略)。」とありますが、兼好は唐物の贅沢品には批判的でした。これをみても、市中には相当量の中国からの輸入品が溢れていたようです。次は財産についての第38段。

「財多ければ身を守るにまどし、害をかひ累を招くなかだちなり。身ののちには金(こがね)をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはるべき。・・・。金は山に捨て、玉は淵に投ぐべし。利にまどふは、すぐれて愚かなる人なり。」と、利殖にも否定的です。さて第93段には、「万金を得て一銭を失はん人、損ありといふべからず」という箇所があります。一銭とは一文銭のことであり、すでに貨幣の単位があったことがわかります。次の第108段も同様に一銭が出てきます。

「寸陰惜しむ人なし。これよく知れるか、愚かなるか。愚かにして怠る人のために言はば、一銭軽しといへども、これを重ぬれば、貧しき人を富める人なす。されば、商人の一銭を惜しむ心切なり。・・。」と、ここでも貨幣や商人の話が教訓めいた話として紹介されています。

兼好が生きた時代は、北条泰時や時頼が活躍した時代から50年から60年経っていますが、令和の時代に昭和を懐かしむようなもので、時の経過は然程ではありません。北条泰時の頃から流通量が増えた貨幣は兼好の頃には当たり前のように流通していたと考えても間違いではないかと思われます。

写真は葉っぱに溜った水玉。不思議に光があたれば宝石のように見えます。

 

 

 

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