人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

ガビチョウ(画眉鳥)

2020-05-30 09:28:47 | 日記

つい最近、緊急事態宣言の発出が解除されましたが、外出自粛で自宅にいますと、聞きなれたウグイスの鳴き声とともに、オオルリに似た美しい鳥の声を耳にします。自己主張が強く、少し鬱陶しく感じることはありますが、少し遠くで鳴いているのであれば、求愛の声かと思えば健気で許す気持ちにもなります。

さてこの鳥ですが、名前はガビチョウ、漢字では画眉鳥と書きます。スズメより大きくヒヨドリより小さめ、茶色く、眼の周りに白い眉状の模様が特徴。鳴き声の美しさからすれば、もっと愛されても良さそうなのですが、どうも特定外来生物で日本への侵略外来種ワースト100選定種という不名誉な肩書もあります。もともと中国原産の鳥で、中国では飼い鳥としてはポピュラーで、鳴き合わせ会も頻繁に行われ、日本へは観賞用の鳥として持ち込まれました。ただ、見た目が地味で鳴き声が大きく、近所迷惑という汚名を着せられ、何時しか悪役になってしまったようです。セキセイインコやミドリガメと一緒ですね。鳥のせいではなく、飼い主のワガママそのものです。

写真のガビチョウは、鎌倉広町緑地で写したもの。自宅近くでは電線に止り鳴いていますが、なかなかシャッターチャンスに恵まれません。散歩の途中、たまたま近くにきてくれました。

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『荘子』に近づきたい

2020-05-20 14:45:58 | 日記

前回のブログで『荘子』の思想のほんの一欠片にふれてみましたが、書いている自分自身がほとんど理解していないのに気づきました。当然です。荘子が生きていたのは紀元前4世紀から3世紀にかけての中国。今を遡ること2300年前から読み継がれた『荘子』という書物を、漢文の知識もないものが眼を通したからといって、容易に理解できる筈がありません。とは言っても、手元にある岩波文庫の『荘子』(金谷 治訳注)の現代語訳は読み易く、そのなかで気に入った個所を紹介させていただきます。それは『荘子』[内篇]大宋師篇 第六。「死と生」について書かれたところ。

死があり生があるのは、運命である(死生命也)。あの夜と朝のきまりがあるのは、自然である(其有夜旦之常天也)。人間の力ではどうすることもできない点のあるのが、すべての万物の真相である(人之有所不得與、皆物之情也)。・・・。そもそも自然は、われわれを大地の上にのせるために肉体を与え(夫大塊載我以形)、われわれを労働させるために生を与え(労我以生)、われわれを安楽にさせるために老年をもたらし(佚我以老)、われわれを休息させるために死をもたらすのである(息我以死)。だから、自分の生を善しと認めることは(故善吾生者)、自分の死をも善しとしたことになる(乃所以善吾死也)。

また斉物論篇 第二には、次のように書かれています。

この世界で最も大きいものは秋の動物の毛先であって、また最も寿命の長いものは若死にした子供であって、彭祖(長寿の伝説の人物名)は短命の人である。

確かに死後の世界を経験したことはないのですから、こういう捉え方も出来るわけですし、この考え方に立てば、死というものを恐れずに臨むことができるかもしれません。ただ凡人の私には無理ですが・・・。日本では弥生時代でしょうか?中国では、すでにこういった死生観があり、それも文字に残されていることに驚きます。現下の新型コロナウイルス禍のなかで、自分も周りも世界中が右往左往している姿をみると、2000年以上たっても人間は進歩していない存在なのかと恥ずかしくなります。

 

 

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道家の思想 『荘子』

2020-05-16 14:39:42 | 日記

中国の思想と言えば孔子の儒教ですが、もう一つ道家・道教があります。勉強不足で恥ずかしいのですが、この道家の思想については、老子や荘子の名前を知っている程度で殆ど知識はありませんでした。そのキーワードは「道(タオ)」です。参考にした本は『荘子』(岩波文庫、金谷治訳注)。

その解説には、荘子の人生哲学は因循主義で一貫しており、その基礎にあるのが万物斉同の哲学だとあります。因循とは因り循(したが)うことですが、「常に自ずから然るもの(自然)に因る」というように使われます。この「自ら然る」ものとは、人間の働きを超越し存在するもので、万物の存在をつらぬく理法のような性格が強く、人間にとってどうしようもない必然的なもの、已むを得ざるものと考えられます。さらに因循主義をささえるものとして万物斉同の哲学があります。

万物斉同とは、いまある現実世界の対立差別のすがた(陰陽・大小・長短・彼此・善悪・美醜・生死など)をすべて虚妄として排除する立場。この対立差別というものの見方は、人間の勝手な認識、小賢しい判断であって、客観世界の真実のすがたではなく、立場が変われば逆のもので、一時的で相対的なかたちにすぎない。さらにいかに大きな違い、厳しい対立と見えることでも、それらの間に「道は通じて一つ」と考えます。つまり差別的な現象の奥にあってそれらをつらぬいている同一性=絶対的理法に注目します。その理法=道の中心(道枢)に立つとき、はじめて一切が無差別無対立だという真実の相が明らかになると・・・。F・カプラの著書『タオ自然学』は、まさにこの考え方そのものの現代物理学との共通点に注目していますが、アインシュタインの相対性理論や量子論が出てきた途端、残念ながら思考がフリーズしてしまいました。ギブアップです。

写真は広町緑地にある木道。新型コロナ対策での緊急事態宣言が延長されましたが、この広町緑地には夫婦や子連れの来園者の姿が増えました。広い緑地なので三密の心配はなく、森林浴も満喫でき、近くにこんな場所を提供してくれている鎌倉市に感謝です。

そして奥さんが運動不足気味の旦那を散歩に誘う微笑ましい様子を「ポチ化現象」と呼ぶことにしました。犬の散歩なら一人でも外出できますが、やはり男一人で徘徊するのは躊躇いがあります。

 

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ふたたび「災後」について

2020-05-06 15:27:43 | 日記

最近、読売新聞の”地球を読む”「コロナ後の世界」という御厨 貢氏のコラムを読みました。新型コロナウイルス災害の「災後」はいかにあるべきかが書かれていました。確か本ブログでも数年前、映画「シン・ゴジラ」に重ねた「災後」という言葉が印象的で紹介したと思います。映画のなかで若手政治家がシン・ゴジラに立ち向かい成長していく姿が描かれていましたが、その若手政治家役が長谷川博己、NHK大河ドラマ「麒麟がくる」の主役を務めているとは不思議な縁です。

新型コロナウイルスについては、その戦いが進行中で未だ終息していませんので、無責任な評価は控えさせていただきますが、その「災後」を政治家や官僚、民間の経営者など日本のリーダーがどう処理していくのか、これが最大の関心事ではあります。世界中の先進国が同様にダメージを受けたわけですので、この「災後」に的確な対応した国が世界をリードしていくことになると思います。

今回の非常事態対応では、東日本大地震の時とは違い全国一律に、国から都道府県、政党、マスコミや芸能界など、あらゆる社会的な発言力のある人までを巻き込み進行しています。これは事態が終息し、結果が出た時のそれぞれの通信簿がどう採点されるのか、われわれ国民にとって絶好の機会が提供されることになるかもしれません。実際、御厨氏は最近の文春オンラインのなかで「知事たちの通信簿」を発表しています。どうも実務能力が優れ、スピード感溢れた行動力があり、自分ができなくても優秀な部下を使いこなせ、キチンと事態を説明できているリーダーとそうでない人の差が大きく出ているような気がします。これは知事だけでなく、大臣たち政治家も同じでしょう。平時は人任せでもいいのですが、非常時は本人の資質があからさまに出てしまいます。

さて写真は庭に咲いた一輪のスズランの花です。最盛期は数多く咲き、目を楽しませてくれましたが、とうとう「最後」の一輪になってしまいました。新型コロナウイルスの「災後」の対策を万全にしていただき、この国の「最後」とならないようにお願いしたいものです。

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