人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

鎌倉を知る ーー 横浜市栄区 光明寺 ーー

2018-10-28 19:28:26 | 日記

横浜市栄区に光明寺という浄土真宗のお寺があります。浄土真宗のお寺は鎌倉近辺では珍しく、鎌倉市内でも成福寺一ヶ寺しかありません。そこで少し調べてみようと資料をみますと、浄土真宗のお寺には聖徳太子像があることに気付きました。奈良の法隆寺、大阪の四天王寺、京都の六角堂などが知られていますが、なぜ浄土真宗のお寺に聖徳太子像があるのか・・・?

光明寺の聖徳太子像は光明寺にゆかりのある北条時頼の母松下禅尼が聖徳太子を崇敬していたからだとか。鎌倉の成福寺は開山成仏(北条泰時の二男、泰次といわれている)が親鸞かいただいたものと伝わっています。

梅原猛の『仏教の思想 下』をめくると、親鸞と聖徳太子の関連をしめす箇所がありました。抜き書きしてみましょう。

--今私が語ろうとする親鸞は、日本仏教の多くの開祖の中で、もっとも太子と縁がふかいのである。彼は、太子のお告げによって、法然の門に入り、そして再び太子のお告げにより、肉食妻帯にふみきった。それゆえ、彼は、師法然とともに、太子を終生の師としたのである。直接の師、法然とともに、聖徳太子が親鸞をみちびいたのである。 

この聖徳太子という人物は十七条憲法の制定や日本仏教の租といわれています。梅原猛にいわせると親鸞は、「日本の多くの文学者や多くの思想家がさまざまな思想遍歴ののちに、そこへと帰ってゆき、さまざまな仕方で親鸞への帰郷をうたった」とあります。その親鸞が師とする聖徳太子について、私自身ほとんど知らないことばかりです。これは、ボーとしていてはいられません。

 

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鎌倉を知る ーー 證菩提寺(横浜市栄区) ーー

2018-10-25 20:13:23 | 日記

證菩提寺は横浜市栄区上郷町にあります。このお寺のある山ノ内荘はもともとは鎌倉郡にありました。寺の縁起によれば、源頼朝が石橋山で挙兵した際に頼朝の身代わりとなって討死した佐那田与一義忠のため、鎌倉の鬼門にあたる当地山ノ内本郷に、建久八年(1197)に創建したとあります。真言宗で源頼朝と縁のあるお寺です。

先日、お寺の収蔵庫を見る機会がありましたが、阿弥陀三尊像のほかに、文覚上人像や西行の石造などが安置されていました。この文覚上人像は文覚が彫ったとされるもので、この證菩提寺のほか、鎌倉市南の補陀洛寺、西の成就院にもあります。実のところ、何故にこの三か寺に安置されているのか不思議に思いましたが、この三か所は鎌倉の「四角四境」(六浦、小坪、稲村、山内)の地の近くにあります。あくまで推測ですが、この文覚上人像は意図して三か寺に安置されたと思われます。誰かが鬼門の地をおさえるために置いたものでしょうか・・・?

そして文覚上人像といえば、荻原碌山にふれない訳にはいけません。荻原碌山の傑作「文覚」は成就院ある文覚上人像に触発されて誕生しました。腕を組んだ二つの像は確かによく似ています。この碌山は源頼朝に石橋山の挙兵を促した文覚上人という人物だけでなく、「袈裟と文覚」の遠藤盛遠と袈裟御前の物語を自らに重ねて一気に文覚像を彫りあげたと思われます。文覚像の腕を組んだ苦渋に満ちた表情は心の奥底に抱えた思いがあるに違いない。

その思いは何かを知りたい方は、芥川龍之介の短編小説『袈裟と盛遠』を読んでみてください。それは頼朝を助けた偉大な文覚上人というより不貞の妻、袈裟御前の物語です。

歴史は勝手に想像するのが実におもしろい。誰も傷つくひとはいませんから・・・。

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名古屋城と本丸御殿

2018-10-23 17:55:10 | 日記

名古屋城と本丸御殿

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名古屋に行ってきました

2018-10-23 17:18:44 | 日記

18歳まで過ごした名古屋。あと二年もすれば愛知県外生活は50年になります。たった18年しかいないのに生まれ故郷は名古屋と言っていいのか?隠れドラゴンズファンで、きしめんやひつまぶし、味噌煮込みうどんを無性に食べたくなるというのはやはり名古屋生まれということでしょうか・・・・。

さてうん十年ぶりに名古屋城に足を踏み入れました。コンクリの城に登ってもしょうがないと敢えて近寄らなかった場所です。今回はこの6月に本丸御殿が完成したという事で来てみたかったのですが、期待以上の完成度で、これなら河村市長が名古屋城を木造にしたいと言う思いが分る気がしました。後世に遺す文化遺産というものは、できる可能性がある時に寄付金を募ってでも思い切ってやるべきです。

名古屋に来ても見るべき観光スポットがないなどと文句を言っている名古屋人の方がいらっしゃれば、一度訪ねてみて、そのついでに徳川美術館に行ってみてください。十分に目の保養ができると思います。

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京都大報恩寺 快慶・定慶のみほとけを拝観

2018-10-17 17:34:38 | 日記

先日東京国立博物館で開催中(10月2日~12月9日)の掲題の特別展に行きました。大報恩寺は北野天満宮のそばにあり千本釈迦堂と呼ばれていると解説にありました。本堂は国宝で堂内には快慶・定慶・行快らによる仏像が安置されています。京都に4年住んでいてもこの千本釈迦堂には一度も行ったことがありませんでした。北野天満宮は住んでいた所からは歩いても行け、千本釈迦堂というバス停の名前は通るたびに聞いていたのに、無知とは恐ろしいことです。今思えばもったいないことをしました。

特別展では、快慶作の十大弟子立像、行快作の釈迦如来坐像、定慶作の六観音像が公開されています。中でも快慶作の十大弟子立像は必見。特に目犍連は見逃せません。首筋、胸のアバラ骨、手の血管まで見事な彫刻です。ところでこの十大弟子立像はどこかで見たような仏像です。鎌倉の極楽寺にある十大弟子立像に似ています。大報恩寺の仏像は1220年頃の制作であり、極楽寺のそれは1268年の制作であること、快慶は1227年に亡くなっているので、この十大弟子立像に似せて作られた可能性はあります。何れににしてもこの十大弟子立像が身近に思われ、来た甲斐があったと会場をあとにしました。

展示方法も工夫されており、まだの方は是非会場を訪れてみてください。12月9日までです。

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