人生悠遊

写真付きで旅の記録、古都鎌倉の案内などを、周りの人の迷惑にならないように紹介していきます。

広町緑地の大桐

2020-04-30 17:37:19 | 日記

広町緑地の大桐が見頃です。その大桐の木は谷深くにあるため、花を近くで見ることはできませんが、房になった紫いろの花を咲かせます。清少納言が『枕草子』に桐のことを書いていますが、すでに平安時代には日本でもポピュラーな木であったようです。

桐の木の花、むらさきに咲きたるはなほをかしきに、葉のひろごりざまぞ、うたてこちたけれど、こと木どもとひとしういふべきにもあらず。もろこしにことごとしき名のつきたる鳥の、えりてこれにのみゐるらん、いみじう心ことなり。まいて琴に作りて、さまざまなる音のいでくるなどは、をかしなど世のつねにいふべくやはある。いみじうこそめでたけれ。

要約すれば、桐の花はいいけど、葉っぱは今一つ、ひろがりすぎてちょっと鬱陶しいかも。とはいっても、中国では鳳凰が止まる高貴な木だし、すばらしい音色を楽しませてくれる琴の材料でもあり、ほかの木と一緒に扱うのは気が引ける。こんなところでしょうか。凡人の私としては五七の桐とか、五三の桐とか、最近よく見る内閣総理大臣の紋章くらいしか関心がありませんが、さすが清少納言、短い文章で桐の特徴を的確にまとめています。

ほかに和歌とか、俳句で桐を詠んだものがないか探してみましたが、不思議に和歌はほとんど見つかりませんでした。俳句では、芭蕉と子規の句がありますが、花を詠んだものはなく、桐の木や葉っぱを詠んだものでした。これは清少納言の影響かもしれませんね。

(芭蕉) 桐の木にうづら鳴なる塀の内

(子規) 桐の葉のいまだ落ざる小庭哉

遠出の外出自粛のなか、近所の散歩が日課となっています。広町緑地は1周4㎞位。新緑がまぶしくても木陰を歩くことができます。季節の花も小川のカエルの声も心地よく、時にはカワセミにも会えます。まさに鎌倉ならではの場所です。

 

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鎌倉を知る --江戸時代の鎌倉観光ーー

2020-04-29 12:48:33 | 日記

いま『”きよのさん”と歩く江戸六百里』(金子敦子著)を読んでいます。この本はきよのさんが書いた旅日記を著者が読み下し、さらに詳しい解説加えた力作です。時代は江戸後期、きよのさんは山形鶴岡の豪商の内儀、三井清野。文化十四年(1817)3月23日(陽暦5月7日)に鶴岡を発ち、その年の7月に戻るまでの総距離は600里、2340㎞の大旅行をしました。そのなかの鎌倉観光の部分に着目してみました。

きよのさん一行は、東海道の保土ヶ谷宿から景勝地金沢八景を訪ね、鎌倉へ。最初は鶴岡八幡宮。

大きなる石の鳥居あり。それより石灯篭あり。又鳥居あり。大門ある也。右大臣・左大臣あり。八幡宮の御堂あり。末社多くあり。堂の後ろをぐるりとまわれば、頼朝公の御像、又その頃の大将の鎧・兜、政子の御手道具、それぞれの宝物あり。六文ずつにて開帳。右の方に頼朝の屋敷。北条の屋敷に堂あり。又女石あり。よくよく見べし。それから大仏見物。しょく山大仏殿。大仏に参り、六文にて腹の内に入り見べし。内に様々の御仏あり。鎌倉より百文にて案内頼むべし。江の島まで。鎌倉大観音様十二文にて開帳。御丈三十三尺、樟の木の由。日本二体の大観音なるよしにて、様々のいわれあり。参るべし。それより五百文にて舟に乗る。江の島めぐり・・・。

鎌倉ではガイドを百文で雇い鶴岡八幡宮、大仏、長谷観音の三か所を見学しています。ガイドの案内がよく、きよのさんの記憶に残ったのか、ほかの観光地の見物に比べ記述が具体的な気がしました。また五百文という代金を払い江の島まで舟で行ったのは意外でした。江戸時代の1文は、現在の価値で100円位と考えていますので、ご開帳料金が一人600円から1200円。ガイド料が10000円、舟代が50000円になります。ほかに旅籠代や料理の値段、酒代などの記載がありましたが、今の価格と比べると結構高いという印象です。逆にデフレ下の今が安すぎるかもしれませんね。今はマイナス成長でゼロ金利が続く異常な状態です。江戸時代の貨幣価値の方が正常であったかもしれません。

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菫(すみれ)

2020-04-24 12:39:47 | 日記

日本古来のスミレの花は最近はすっかり見かけませんが、鎌倉市笛田の夫婦池公園でタチツボスミレの花を見つけました。スミレの花言葉は誠実。そして万葉集巻八(一四二四)には山部赤人が詠んだ歌「春の野に菫つみにと来し吾ぞ野をなつかしみ一夜ねにける」があり、結構古くから親しまれた花です。

さらに時代はくだり、鎌倉時代には京都栂ノ尾にある高山寺を開いた明恵上人(1173-1232)が、森に咲く一輪の菫の花のなかに宇宙の秘密を見出そうとした話が伝わっています。明恵上人は華厳宗の中興とも言われ、華厳の思想と密教を融合をはかりその復興に努めました。その時代は、ちょうど承久の乱(1221年)があった頃、明恵上人がその敗残兵を匿った話は有名です。また当時六波羅探題で戦後処理にあたっていた北条泰時は、これを機縁に生涯にわたって明恵上人に帰依しました。その明恵上人が菫の花のなかに求めた華厳思想は、微塵のなかに一切を見るという「一即多」の考え方ですが、凡人の私がいくら考えても説明できない世界観です。

そしてもう一つ。川端康成が1961年に連載を開始した『古都』にもすみれの花が登場します。

もみじの古木の幹に、すみれの花がひらいたのを、千重子は見つけた。「ああ、今年も咲いた。」と、千重子は春のやさしさにであった。・・・・。大きく曲る少し下のあたり、幹に小さいくぼみが二つあるらしく、そのくぼみそれぞれに、すみれの花が生えているのだ。そして春ごとに花をつけるのだ。千重子がものごころつくころから、この樹上二株のすみれはあった。

学生のころ、川端康成の小説を読み、ドストエフスキーの『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』などと比べ、日本人はなんともちっぽけな世界のなかで小説を書くものだと、ちょっとガッカリしたものです。しかし、今あらためて『古都』の中のすみれの意味を考えますと、川端康成は高山寺の明恵上人、そして華厳の世界観を題材にして、『古都』を書いたのではないかと思うようになりました。高山寺に『樹上明恵上人像』という絵が遺されていますが、その絵は樹上の木の股の所で坐禅をする明恵上人を描いたものです。『古都』のストーリーと華厳の世界観は結び付きませんが、この小説を書くきっかけにはなったと、ひそかに妄想しています。

 

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ナニワイバラ

2020-04-22 16:47:07 | 日記

鎌倉の町を散歩の途中で見つけたナニワイバラの垣根。

ナニワイバラは、5弁の白い花びらとまん中の黄色い雄しべが特徴的な花です。これでもかといっぱい花を咲かせます。花言葉は「清純な愛」そして「静かな愛と敬意」。花言葉に似合わず、枝にある棘は鋭く、とても素手で触れるものではありません。花が咲けば、不思議なものでその香りに誘われ、ミツバチでしょうか、雄しべの花粉を目当てに飛んできます。受粉が終われば、花はさっさと白い花弁を1枚づづ落とし、実が熟すの待つわけです。この実は儀果と言うらしく、秋に赤橙色に熟し、生薬で金桜子(きんおうし)といい、薬効があると、資料に書いてありました。この花は、中国原産で江戸時代に難波商人が中国から日本にもたらしたことから、その名前ナニワイバラとなったようです。可憐な綺麗な花なので、もう少し気の利いた名前であってもようさそうですが、結構、繁殖力があり、花はともかく、その棘がやっかいなので、こんな名前になったのかもしれません。学名は、Rosa laevigata 、何故かケルト語の「rhodd(赤色)」からきており、種小名のlaevigataは「無毛で滑らか」という意味。どうしてその学名になったのかの解説はありませんでした。

新型コロナ感染防止のための外出自粛で巣ごもりしていますと、路傍の花ひとつにもあれやこれやと妄想が働き、ものごとをより突っ込んで知りたくなりました。人生、生きているだけで丸儲け。こんなに時間があるなんて滅多にないチャンス。ああだこうだと批判めいたことを言う身分ではないので、前向きに時間を使うしかないですね。

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鎌倉を知る --富士川の合戦ーー

2020-04-06 10:35:12 | 日記

治承四年(1180)十月廿日。舞台は富士沼(吉原と沼津の中間位)。まさに写真にある平家越という場所ですが、このあたりで源氏と平氏の初戦である富士川の合戦が行われました。合戦と言っても壮絶な戦いが行われたわけではなく、水鳥の羽音を敵方の軍勢と勘違いした平家側の大将である平維盛が早々に撤退したという事件です。どうしてこんなことになったのか?この合戦前の状況を『平家物語』から抜粋して、実況してみましょう。

大将軍権亮少将維盛、東国の案内者とて、長井の斎藤別当実盛(『吾妻鑑』ではこの戦に不参加)を召し、「汝程の強弓精兵、八か国に如何程あるぞ」と問い給えば、斎藤実盛あざ笑って、「君は実盛を大箭と思召しめされたが、私はわずか十三束(矢の長さの単位で一束は一拳)、実盛ほどの射手は八か国に幾らでもいる。大箭と申すものは十五束に劣って引くものにあらず。弓の強さも、強者が五六人で張るものだ。このような精兵が射れば、鎧の二三領は容易に射通す。(一部略)軍は又親も討たれよ、子も討たれよ、死ぬれば乗り越え乗り越え戦ふ。西国の軍はそうではない。親討たぬれば引退き、仏事孝養し、忌みあけて寄せ、子討たぬれば、その愁え歎きとて、寄せることない。兵糧米尽きれば、春は田作り、秋刈り収めて寄せ、夏は暑しと厭い、冬は寒しと嫌ふ。その上甲斐信濃の源氏等、案内は知ったり、富士の裾より、搦め手にや廻り攻めてくる。かように申せば、大将軍の御心を臆させてしまった。

『平家物語』は誇張があるにしても、大将軍維盛は、地の利のない東国まで来て、見たこともない強者のいる源氏勢の話を聞いて、戦う前に臆したというのが実態でしょうか。それでも西国の武士と東国の武士の比較が興味深いですね。20年位前までは平家も源氏も北面の武士として一緒に戦っていたのに、子・孫の代になるとすっかり忘れてしまったということでしょうか。

この話、何かいつの時代にも通じるものがあります。備えあれば憂いなしでした。マスク一枚に右往左往する我が身が恥ずかしい。布でも不織布製でも、お医者さんに必要なウイルスカットマスクでなければ、人に迷惑をかけないという効果が同じならばありがたい。さらに洗って再利用できればもっといいのですが。

 

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